土岐市 花の木窯・小山富士夫邸を訪ねてきました
土岐市にある小山富士夫の花の木窯を訪ねてきました!その様子をお伝えします。
小山富士夫
1900年岡山県生まれ、主に鎌倉を拠点にして執筆活動をしていた世界的な陶磁学者であり陶芸家でもあった小山富士夫。 小山は晩年(1972年〜1975年)土岐市に「花の木窯」を開き自宅も構えていたいたと知ったのは一昨年、岐阜県現代陶芸美術館で開催された「1964 証言-現代国際陶芸展の衝撃」を観たのがきっかけでした。
これは1964年に日本で初めて開催された「現代国際陶芸展」を検証・再現したもの。まだ世界の現代陶芸についてあまり知られていなかった60年代に、小山が世界中を訪ねて集めた陶芸作品で構成された展覧会。この展覧会が日本の現代陶芸作家に衝撃を与えた、という内容のものでした。
>> 「1964 証言-現代国際陶芸展の衝撃」をみてきました
小山が実際に南アフリカ、ギリシャ、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、フィンランドなどを訪ねて集めらてきた作品の数々を観たら、小山富士夫という人は東洋古陶磁から現代陶芸まで何とまぁ幅広いジャンルをカバーするんだろうと驚き興味が湧きました。 小山の旅日記から(1964 証言-現代国際陶芸展の衝撃 図録より)
フランスの辺鄙な場所まで小山が訪ねたデンマーク出身の陶芸家 Anne KJAERGARRD。調べてみるとこんな方です。>>Anne KJAERGARRD
↑1964 証言-現代国際陶芸展の衝撃 図録より 東洋陶磁史の大家であり、世界中の陶芸家を訪ねてまわった小山富士夫が晩年自らの窯の場所として土岐市を選んだということを知り、一体どんな場所なのだろう、行ってみたい!と思うようになりました。 が、調べてみると残念なことに今は小山の窯(花の木窯)は一般公開されていないと知り諦めていたところに、土岐ラボ(土岐市主催のまちづくりプロジェクト)で視察に行くと聞き、これは!と思い参加させてもらったのであります。 ということで、小山富士夫邸と花の木窯の様子をご紹介。
花の木窯
花の木窯は土岐市久尻の美濃陶芸村から少し離れたところにあります。これがもうとんでもなく細い道を入ったところにありまして、なかなかに勇気のいる運転でした。 以前美濃陶芸村を訪ねた時の記事はこちら
>>土岐市 陶芸村 佐々木二郎さんの閑山窯へ こんな細い道を進んで大丈夫だろうか、と思っていると現れました「花の木窯」
1972年小山冨士夫が開窯、小山は3年間ここで過ごし1975年死去。 小山の死後は遺族が住んだりもしていたようで、息子で陶芸家の小山岑一(しんいち)がその晩年こちらで3年間作陶をしたそう。その小山岑一が2006年に亡くなり、2007年、窯を含む全ての建物が土岐市に寄贈されたそうです。 こちらが窯。種子島の窯の様式を真似ているそうです。
最後にこの窯が使われたのは2009年、小山と一緒にこの窯をつくった陶芸家 中里隆が若手陶芸家を集めて小山冨士夫を偲んで焼締め(釉薬をかけず高温で焼成)をしたそう。 その時の様子は(どなたが書いたのかよく分かりませんが)このブログに詳しく書いてあります。 >>花の木窯
2009年以後はこの窯も使われていないようです。 作業場。
かなりきれい。
ここで小山富士夫がどんな作陶をしていたのかを知れるようなものは何も残ってはいませんでした。
作業棟(?)の2階の窓から見えるのは窯の名前の由来となったハナノキと母屋。 この母屋、土岐市の舘林建設が建てたそうです。
2階に上がり、雨戸を開けると、
大自然に囲まれた絶景。すぐ裏を流れる小川のせせらぎが聞こえてきます。
誰が飲んでいたのか、棚の中には精力をつけるたぐいのものが色々と。このぐらいしかここに生活を感じられるものはなく、あとはほとんど空っぽ。
このまま何もしないでいればどんどんと朽ちていくばかりの母屋。
ここに小山富士夫が暮らし、作陶をしたという痕跡のようなものは正直あまり感じることができなかったものの、手入れをしていけば小山富士夫がここに築いた陶芸家にとってのユートピアのような、そんな場所を維持していけるようにも思えました。 作業場の隅に置いてあった小山富士夫の写真。これだけが、唯一ここが小山富士夫の場所であったことを語っているようでした。
窯までの道はかなり辺鄙で、大雨が降ると作業場のあたりは冠水もするそう。どのように活用するかなかなか難しそうではありますが、土岐市の財産として有効活用されることを願わずにはいられませんでした。
今回案内をして下さった永江さん、斎藤さん、合流させてもらった土岐ラボチームの皆さん、どうもありがとうございました!
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