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3回 神田は美人が多い!?
このコラムは、StudioBpm.-kandaスタッフによる街歩きレポートです。
スタジオ のある神田の町をより知りたいと、日々界隈を歩いて、新たな発見やちょっとした情報を記していこうと思ってます。
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さて、今回は大胆な仮説をひとつ…。
じつは小学校から高校時代にかけて、わたくしの叔母が、神田駅西口商店の中ほどに「ミカ」という喫茶店を営んでおりまして、小遣いをせびりにいったり、アルバイトをさせてもらったりと、いろいろと出入りさせてもらっていました。
昔から神田とは多少の縁があったのですが、それにしても頻繁に通っていたわけでもなく、子供のころは何度か道を間違えたりして、「お店はお稲荷さんの前だぞ」と、よく叔母から聞かされていました。
そうやって覚えていた記憶をたよりにいまその付近を歩いてみると、たしかに懐かしい一角に、かつての喫茶店の風情を残す古い建物と、その向かいにお稲荷さんがありました。
佐竹稲荷神社、というのがそのお社のお名前だそうで、由緒書によるとこの場所は、「寛永年間には出羽秋田藩の藩主・佐竹義宣の屋敷地」とあります。より正確には「寛永12年(1635年)に、2代目藩主秋田義隆が上屋敷の鬼門よけに『佐竹稲荷神社』を邸内に勧請した」(台東区・佐竹商店街HPより)のだそう。
藩主の肝いりで建立されただけに、軒下を守る龍や獅子も、なにやら威風堂々としています。
お屋敷そのものは、のちに天和2年(1682年)の大火、別名「振袖火事」のさいに消失して、佐竹藩の上屋敷は現在の台東区台東3~4丁目に移転したとのこと。藩邸ができたのが慶長15年(1610年)のことなので、実際にこの地に佐竹藩のお屋敷があったのは70年間ほどだったようですね。
ここで思い起こしたいのが、「秋田美人」の逸話です。
もともと佐竹義宣は常陸水戸54万石の大名でしたが、関ヶ原の合戦のさい、東軍につくか西軍につくか最後まで旗幟を明らかにしなかったため、戦後徳川家康によって痩せ地である出羽秋田20万石に減封のうえ転出を余儀なくされました。
この措置が腹に据えかねた佐竹は、憂さ晴らしに水戸のすべての美人を秋田に連れていき、後釜として水戸に入った徳川頼房がそれを抗議したところ、秋田藩領内のすべての不美人を水戸に送りつけてきた。そこから「秋田美人・水戸不美人」の言い伝えが生まれたと言います(※註1)。
これが事実であれば、美人をかき集めた佐竹藩のお屋敷にも綺麗どころがたくさんいたはずで、のちに場所を移したとはいえ、70年もこの地にいたのでいれば、その美人の胤が神田の町に広がっていったとしてもおかしくないと、そんなことを考えたわけです。
つまり「秋田美人」があるなら「神田美人」も! そんな仮説が成り立つんじゃないかと…。
その証拠になるかどうかは分かりませんが、江戸時代の浮世絵画家で、美人画を描かせれば当代一といわれた初代・喜多川歌麿が、こんな美人画を残しています。
これは、神田・乗物町に所在されているトランスユーロ株式会社さんのブログ(https://www.trans-euro.jp/)に掲載されている図で、そのキャプションに「美人画 神田明神所蔵」とあります。
神田明神が所蔵している「お神輿を担ぐ美人」の絵…とくれば、これこそが神田美人とはいえないでしょうか。
歌麿でさえ書かずにいられなかった美人が神田の町に!
この仮説、さほど突飛ではないのかも…。
註1
「秋田美人、水戸不美人」の逸話ですが、記録では、佐竹義宣は財政上の理由で、秋田に向かう際、随行人数を制限し、また旧領の常陸へは立ち寄らなかったとのこと。なので、この話はまったくの俗説なんですね。
そりゃそうだよな…。知り合いに水戸出身のべっぴんさんだって何人かいるしな…。
でも、だからって「神田美人」の仮説が覆されたわけでもないはず! この説の傍証となる情報、ぜひお待ちしています。
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