餃子が輝いて見えたとき。
息子は赤ん坊の頃から食べ物の好き嫌いが激しい。
離乳食に、せっせとお粥を作って食べさせていた頃までは良かった。そろそろ野菜にも挑戦しようと、カボチャのペーストを初めて食べさせたとき、彼は口に入ったカボチャを舌で押し返した。
あれ? と思ってもう一匙口に入れてもやっぱり吐き出す。せっかく作ったんだから食べてくれよ、ともう一匙口の前に持っていくが、今度は口を開けてもくれなかった。
では、ほうれん草は?→食べない。
ニンジンは?→食べない。
なにをどうがんばっても、彼はかたくなに野菜を拒否し続けた。3つ年上の娘がなんでも食べてくれる子だったので、「食べない」ということに戸惑ったが、食べないのだから仕方ない。
結局、米と麺と白身魚のみで離乳食の時期を乗り切った。栄養バランス的な心配もあったが、どうやっても食べないのだから、仕方がないじゃないか。
息子の好き嫌いは、小学校に入学しても続いた。もちろん、少しずつでも好き嫌いを克服できるよう、親としてさまざまな努力は試みた。カレーのニンジンはみじん切りに、タマネギは溶けるまで煮込んで食べさせることに成功。
だが、手間隙かけて作った他のほとんどの料理は、ちょっと野菜が乗っているだけで汚いものでも見るような顔つきで「ウェッ」と言われ、箸も付けずに残され続けた。
そんな仕打ちをされて心が折れない人がいるだろうか。私は折れた。さらに腹立たしいことに、「給食はがんばって食べてる」と言うのだ。ふざけるなだ。私の料理もがんばって食べろよ。
お吸い物の出汁に使った干しシイタケの風味にさえ文句を言うような奴だ。当たり前だがサラダなんか問題外。ちなみにマヨネーズも嫌いだ。メインのおかずに彩りを添えることも、副菜を付けることもなくなった。
極端な話、好物は白飯なんだから、こいつにはご飯さえ用意すればいいとさえ思っていた。叱りつけて食べさせるという方法もあったかもしれないが、私は食事の時間にギスギスしたくなかった。「食育」という言葉を見かけるたびに罪悪感にかられそうになったが、食べないんだから仕方ないじゃないか。
そうだ、餃子だ。
そう思い立ったのは、息子が小学校に上がってしばらくしてからだった。餃子はとても手間のかかる料理なので、仕事しながらPTA活動もやっていた幼稚園時代は作る暇がないと言い訳して避けていたのだが、これからは作る時間もとれるんじゃない? 餃子なら食べてくれるかもしれない。
さっそくキャベツと白菜、それにシメジも刻んでたっぷりの餃子を作った。ホットプレートにずらりと並べた餃子が焼き上がると、息子は「ご飯が進むね〜」と喜んでモリモリ食べた。
餃子たちがキラキラと輝いて見えた。
餃子は完全食だ。炭水化物も脂質もタンパク質も、そして息子が摂取することを嫌がっていたビタミンもミネラルも、すべて含まれている。ほうれん草を刻んで入れたことも、ニンジンをすり下ろして入れたこともあった。
「この餃子、なんか赤いね」そう言いながらも息子はモリモリ食べた。毎日餃子でもいいかとも思ったが、さすがに毎日餃子を作るのは、私が嫌だ。餃子づくりにはそれなりの時間と手間がかかる。
そうだ、冷凍餃子があるじゃないか。
出来合いの餃子パックでもいいが、冷凍餃子の作り方の手軽さはあまりにも魅力的だ。袋から出して焼くだけでいい。水を入れる手間も必要ない。なんでもっと早く気がつかなかったんだろう。
うちの冷凍庫に、冷凍餃子が常備されることとなる。最近では、忙しくて夕飯が作れないときだけでなく、朝ごはんにも冷凍餃子が役立っている。しかも「朝から餃子だなんて、最高だね〜」と、思春期真っ盛りの娘もご機嫌になってくれる。
水餃子もいい。中華スープの素と冷凍水餃子さえあれば、ものの5分で「忙しい朝に最適! ササっと作れる栄養満点あったか餃子スープ」ができ上がる。スープに浮かぶ水餃子もキラキラ輝いている。
餃子は完全食だ。細かいことを言うと餃子だけでは補えない栄養素もあるのだろうが、そんな細かいことは我が家にとってはどうでもいい。餃子は、どうすれば食べてくれるのか悩んだ日々の苦労も、箸も付けられずに残された料理を片付ける悲しみも、育ち盛りの息子に白飯しか食べさせていなかった罪悪感も、すべてその皮の中に包み込んでくれるスーパーフードだ。
大好きだ。