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上陽町「ひ・ふ・み・よ橋」の運命(2013年ponte寄稿)

1、博多祇園山笠と九州北部豪雨

 博多の夏は770年の歴史をもつという祇園山笠祭りで始まる。山車を引きながら街を走って回り、タイムを競う7月15日の「追い山笠」をクライマックスとし、七月になると一日から博多の街の至る所に「飾り山」と呼ばれる高さ10mはあろう華やかな山車が飾られ、街にハレの雰囲気が漂ってくる。

 私が博多に赴任して間もない昨年、「追い山笠」の数日前から前日にかけ、九州北部は激しい雨に見舞われた。道路や駅は冠水し、川もあわや氾濫というところまで水位が上昇し肝を冷やしたが、当日雨は見事に止み、山笠祭は無事終了。博多に夏が訪れた。この大雨による被害は、博多という都市に住んでいるものにとってはその程度のものであったが、実はこの雨は後に九州北部豪雨と呼ばれ、30人の死者、二千棟以上の全/半壊家屋、一万五千棟以上の床上・床下浸水をもたらすものであった。気象庁は雨の規模を「これまでに経験したことのないような大雨」と表現し、テレビの報道は「棚田がナイアガラの滝のようになっている」と伝えた。私が勤めている会社も八女市の災害復旧に関わらせていただくこととなり、私も数回現地に足を運んだ。

 そこで見たものは閉鎖された道路、護岸がはがれて岩がむき出しになった川、使い物にならなくなった家財道具を家の外から出し、憂鬱な表情を見せる住民の方々・・・息をのむ光景であった。

写真1 被災した宮ヶ原橋

2、古い橋と新しい橋の被害

 八女市の上陽町は石橋の里として有名で、町内には一三の石橋が現存する。特に星野川に架かる一連から四連までの石橋群は「ひ・ふ・み・よ橋」と呼ばれ、八女を代表する観光資源になっている。

 ひ 洗玉橋(一連橋:明治二六年)

 ふ 寄口橋(二連橋:大正九年

 み 大瀬橋(三連橋:大正六年)

 よ 宮ヶ原橋(四連橋:大正一一年)

 ちなみに洗玉橋をつくった石工は、通潤橋や万世橋を架けた橋本勘五郎と伝えられる。

 石橋より、まずは基幹インフラである道路や河川の復興が第一だが、あげる会の会員としては、これら石橋の被害が気になるところ。結論だけいえば小さな石橋が数橋流失したが、「ひ・ふ・み・よ橋」は無事であった。ただし四連アーチの宮ヶ原橋はアーチ部分は持ちこたえたものの、高欄等橋面の部分は流され、渡ることができない状況になっている(写真1)。


これは洪水時の水位が路面より上になり、石橋が潜り橋になったことをものがたるものである。上流からの流木をせき止め、それでも流れなかったというところに「絶対流されない橋をつくる」という設計者の執念を感じた。他の石橋にいたっては、橋台や高欄に一部破損が見られるものの、とりあえず渡ることができる。寄口橋の上流には最近架けられた吊床版橋が架かっているのだが、こちらもメーンケーブルを残し床板や高欄などが流出してしまった(写真2)。

写真2 被災した吊床版橋

3、災害復旧助成事業

 福岡県は、原形復旧のみでは再度災害の恐れがあることから、平成24年度から5年をかけ、被災箇所を含む一連の区間において、河道の拡幅などを行う災害復旧助成事業を約119億の予算で実施する予定である。河道を拡幅するということはせっかく残った石橋を取り壊すことにつながる。九州は石橋の宝庫だが、豪雨災害後の河道拡幅とともに石橋を「人為的に」壊し、移設している歴史をもつ。古くは諫早の眼鏡橋を公園に移設した長崎県、比較的最近では甲突五橋を架け替えて公園に移設した鹿児島県(ponte四号で特集)。

 上陽町のキャッチコピーは「蛍と石橋の里」。石橋以外にも多くの観光資源を有する長崎や鹿児島と比べると、上陽町にとっては石橋を失うことは街の核を失うに等しい。石橋は地域の景観をつくっており、地元や旅行者の心の中には石橋の情景がこびりついている。地元住民は「ふるさとの景観を壊さないでほしい」という気持ちと、「このような被害を二度と起こしたくない」気持のせめぎ合いに悩んでいるにちがいない。

4、「ひ・ふ・み・よ橋」の運命は?

 九州北部豪雨から約一年が経つが、八女市内の復旧はまだまだ進んでおらず、インフラの復旧率は約四〇%と伝えられている。このような状況下なので、石橋の修復はまだ後回しにされている。河川改修にともなう石橋のあり方についても結論は出ていない。この数年で石橋との共存のあり方が議論されるはずである。災害後一年で河川の災害復旧の方針を公表した福岡県の迅速な対応には感心する反面(次の豪雨はそう直ぐには来ないと信じ)地域の意見を取り入れながら時間をかけて河川のあり方を議論してほしいと強く感じる。

 アーチ部分の被害がないため、宮ヶ原橋の修復は比較的容易であろう。流れた高欄等の石材を拾い集め積み直せばいいだけだ。しかしもしこれを移設しようとするなら、膨大な手間と精密な技術が必要となる(四連アーチの移設はとりあえず鹿児島の西田橋に実績はあるが)。

 ちなみに隣の大分県でも被害は甚大で、宮ヶ原橋に似た五連アーチの馬渓橋は、浸水被害の直接の原因になったということで、地元住民から架け替え要望が市に提出されている。馬渓橋周辺の被害は私もテレビで見たことがあり、全てを失った住民の声として、架け替え要望には説得力を感じた。

 今後も石橋は災害自体より「誰か」の気持ちによってなくなってしまう可能性があるが、とりあえず危ないから架け替えて欲しいという要望は今のところ私の周囲には聞こえてきていない。

5、石橋移設事業のその後

 河川改修の伴う石橋の移設事業は、前述のとおり長崎県や鹿児島県に実績がある。

 九州に住んでいるので、ありがたいことにいずれの事例も見に行くことができた。諫早の眼鏡橋は昭和三二年に死者行方不明者580人を出した諫早大水害に耐えたものの水流をせき止めた原因として撤去が検討された。しかし当時の市長の働きかけで国の重要文化財に指定され、橋は本来の架橋地から数百m離れた諫早公園に移設された(写真3)。

写真3 諫早公園に移設された諫早眼鏡橋

橋は今でも公園のシンボルとして利用されており、それ自体は有名な話だが、私はずっと本来あった場所には新しくどんな橋が架けられているのかが気になっていた。残念ながらそこに架かっていた橋は旧橋へのリスペクトを全く感じさせない鋼製の桁橋。昭和三五年とは古いものへの敬意がない時代だったのだろう。実はこの橋、桁がパイプでできているという点が変わっている(写真4)。

現代版丸木橋のように2本のパイプを並べ、その間に床板を渡して歩けるようにした構造である。なんでこのような珍しい構造を採用したのか?推測でしか無いけれど眼鏡をモチーフにしたからだと思う。断面図を描いたら眼鏡のようになるから。普通の人は気づかないと思うのだが・・・。

写真4 現在の諫早眼鏡橋

 ところ変わって鹿児島の西田橋のほうは旧橋の写真が入った案内板とともにアーチを模した桁橋が架けられている(写真5)。

写真5 現在の西田橋(手前の案内板には旧橋の写真)

こちらは移設に向けた侃々諤々の議論の結果でもあり(当時伊東先生も議論に参加し、私は移築反対の座りこみをするために鹿児島に行ったものです)、それなりの気合いが感じられる。旧橋を尊重し、デザインに取り入れつつ過去のものと未来のものをうまく融合させたデザインとなっている。さまざまなせめぎ合いの中から絞り出された巧い形とは思うが、昔の西田橋を知っている私としてはなんとも寂しい気持ちになる。もっとも水害後に生まれた子供にとってはこれがふるさとの情景になるのだろうか。私としては八女のひ・ふ・み・よ橋がこうなる未来は想像したくない。ふるさとの景色が時代とともに変わって行くのは仕方ないとしても、これがなくなったらふるさとがふるさとでなくなるようなものもあると思う。それは守って行きたい。石橋は増えることはなく、減っていく一方の資源である。なんとか知恵を絞って石橋と地域の安全を両立させ、限りある資源をまちづくりに活かして欲しいと思う。

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