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SNS上の誹謗中傷

亡くなった方のご冥福を謹んでお祈りします。該当番組を視聴していた訳ではないですし、まして関係者でも何でもないので、具体的にその件に関して言及するつもりはありません。

誹謗中傷と批判

某メンタリストな方が、自分を誹謗中傷するアンチを徹底的に身元調査して訴えるとSNS上で言及し現在進行系で状況が更新されています。また、総務省はSNS上における過度の誹謗中傷を抑止する対策を検討しているとかいないとか。

もちろん、誹謗中傷は良くない。僕のスタンスは「現実に相手に面と向かって言えないような言葉はネットでも使うべきではない」なので、ネット上だから、匿名だから、許される暴言なんていうものは存在しないと思っている。

ただ、人間は様々な価値観、尺度や感性を個々が持っていて経験や知識もそれぞれ異なる。意見や理論が合わないことは、当たり前のように起きる。むしろ、すんなり意見や言説が合致する方が少ない。

「誹謗中傷」「アンチ」という言葉は、ふんわりとしたカテゴリーであり、便利な魔法のレッテルだということを、ここは声を大にして言いたい。

「私が傷ついたんだから、それは誹謗中傷」「俺が気に入らないから、お前はアンチ」と、まったくロジックの検証や論拠の裏付けの確認といった作業することなく、ごく簡単に相手の意見を排除できてしまう。

人間は話し合うことで、ようやくその一端を相互理解することが可能な程度の生き物だと僕は思っている。話し合う機会を奪い、自分に都合の悪い意見を簡単に排除できてしまう安易な魔法のワードにしてはいけないと思う。

加害者と被害者

ネット上に散見する多くの人の意見を見て、僕が違和感を感じるのは、加害者と被害者を明確に区分している人が多いということだ。

ネットやSNS上には映像や音声など様々なメディアが発信されているが、根源的なコミュニケーションのツールは言語であることには何ら変わりがない。各自が、相互に発信できる仕組みの中で生きていて、誰かの言葉に傷ついたりすることを止めることはできない。

無意識に発した言葉、傷つけるつもりはなかった言葉、その人に向けたつもりじゃなかった言葉、そういったものが傷つけたりすることもある。

誰もが、常に加害者であり被害者でもある。そういう可能性の話ではない。既に誰もが加害している。

「今まで生きてきて私は言葉で誰も傷つけたことがない」という人がいたら、その人は全く無自覚に言葉を発しているか、神様か仏様なのかもしれない。

その自覚の薄い第三者的な無邪気な「正義は我にあり」といった雰囲気のコメントや発言に、僕は違和感を覚える。

有名人と公人

有名人なんだから、それでお金儲けしてんだから、多少のことは我慢しろという意見もみかけるけれど、これもちょっと不思議だ。

よく見受ける誤解の1つに、名誉毀損の公人規定の解釈だ。

「社会的に大きな影響力をもつ公務員やそれに準ずる職種の人間は、批判非難をある程度受忍する義務がある」

おおまかに言うと、こんなニュアンスの規定で、市民が公権力を論理的に批判することを民主主義の根幹としている法解釈だ。これが、有名人にも適用されるかどうかは、また別の議論ではあるんだけど。

よく考えてほしい。これは「色々と言われるけど、我慢してね」という規定だ。「周囲が何を言っても許される」規定じゃない。

マスク品薄騒動のときも、よくタイムラインで見かけた意見で、「お客様は神様です、というのは対応する店員側の心構えの話であって、お客側が何でも言ったり要求したりしていいという免罪符じゃない」というのがあったが、それと同じことだ。



有名人だから、お金儲けしてるから、顔が見えない匿名だから、そんな理由で何を言っても良いと思っているとすれば、その品性を疑われても仕方ないと思う。突き詰めると、それは妬みだったり僻みだったり、自分の不遇に対する憂さ晴らしだったり、そういうネガティブな情動で生きていくことは幸せだと思えない。

相手に対してのリスペクトであったり、時間を使ってくれたことに対する感謝であったり、社会経済を支える活動や多くの人を楽しませてることに対する敬意であったり、そういう方に僕は心を置いていきたい。

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