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あの時ボクが観た景色③『臥龍の潭淵』

臥龍淵雪景

臥龍淵雪景 2010年1月13日撮影
 肱川水系随一の景勝地としてその美しさは藩政時代から受け継がれてきている。肱川の流れが写真右側に位置する蓬莱山と不老庵の建つ神楽山側との間に当たり、そこで渦巻くことから深淵を形成している。地域ではその水深が15m以上にも及ぶと言われ、美しい反面川床は浅瀬から急な崖のようになっていることから危険な場所でもある。鵜飼い船も鵜匠と船頭が最も気を遣い神経をとがらす場所でもある。

中秋の名月

中秋の名月 2011年9月12日撮影
 この写真は、ミシュラン一つ星の調査が入ったことに合わせて当時の故清水裕市長の命で「言い伝えられている月光反射が実際に観ることができるかどうか証明せよ」と指示で撮影に臨んだときのもの。ただ残念なことにこの年の撮影では、不老庵廻りの雑木の成長が名月の月明かりを遮っていたため翌2012年の名月まで持ち越しとなった。
 故黒河紀章氏をもってして「万が一にも壊れたりしたら現在の日本の建築技術で復元することは難しい」とまで言わしめたとされる不老庵には、月明かりが射し込んで幻想的だ。この写真には「うかいの篝火」が写り込んでいるが、これは中秋の名月の時期が9月20日までだったら撮影することが可能である。自分の足で歩いて稼ぎ調べ、実際に取り組んでみて「現場での実践理論」を積み上げていくことがこうした発見を生み出すのだ。自らの地域を興し歴史や伝統文化を時代へと継承していくことにおいては学問的理論によりも遥かに勝るということを体感したのもこの時期だ。

中秋の名月月光反射

中秋の名月月光反射 2012年10月1日撮影
 前年の中秋の名月では撮影がかなわなかったため、その後不老庵廻りの雑木などが伐採され、視界が確保されていた。この年の中秋の名月は9月30日だったが、確か小型の台風か何かが通過した後で雨模様だったと記憶している。十六夜の10月1日もダメかと思っていたらお天気が回復したので急遽段取りして撮影に臨んだ。言われていた月光反射を実際にこの目で見たときの興奮は今でもしっかりからだが覚えているが、一方でこうした撮影の難しさもイヤというほど教えられた。素人に毛が生えた程度の撮影技術ではこの先が思いやられると痛感し、「撮影力」を高めたいと貪欲に思い始めたきっかけの撮影にもなった。
 この年以降、条件があった年には何度か撮影を試みているが、最近では2022年9月の撮影が最後である。ただ残念なことに度重なる洪水などで臥龍淵の川床の変化が流れを変え、月光「乱反射」気味になっていることから、今後2012年の年の撮影ほど鮮明には撮影できないと思われる。そういう意味ではこの写真は最後になるかもしれない。現在、この年に撮影した写真は不老庵において展示公開されている。

月光反射の名月の出

 庭園中心部に配置されている「十二支の石燈籠」から観て「午で南で夏」の方角に配置されている不老庵。写真ではシルエットとなっている「手すり」の延長線が冨士山の山裾に当たったところから中秋の名月が出てくるように仕込まれている。このことは撮影に臨む度に何度も確認しているから間違いない。
 他にも臥龍院南側二ある五つの丸窓はいったい何を意味するか。これについては現職退任後の今でも考え続けているミステリーだ。三つの壁に二つずつある丸窓。しかし向かって一番左側だけが一つしかない。これが何を意味するか。どうやら「五行十干」が関係あるのではないかと考えている。不老庵にあれだけの物語の仕込みをしているくらいだ。これくらいのことはあっても不思議ではないが、多分私の生涯の研究テーマだ。
 百年の刻を経て今もなお健在の不老庵。国の名勝指定まで受けた臥龍山荘庭園の中にあって、本来の伝統文化の素晴らしさを表現している素晴らしい日本建築である事を、写真を通して改めて再認識している。「百年先のみんなに伝えたい」思いを載せて本当に大切なことを見失ってしまわないよう、次世代へとおくり届けたい思いは現職時代も今もいささかも変わらない。

街づくり写真家 河野達郎


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