お知らせマガジン 写真家として
私が皆様方へ何をどうお伝えしたいか。
そのためにどういう手立てを用いてどう表現すれば良いのか。
メインステージを、四国・大洲盆地に注ぎ込む肱川流域に構え、撮影した写真を自分なりの表現に仕立てて、まずはWEBで発信していくことが、私の日々の活動だ。
2000年9月26日に「おおず街なか再生館」という情報発信ホームページを、見よう見まねで造り公開したことがその第一歩となった。以来今年で22年目。写真撮影を取り巻く環境は激変し、ミラーレス一眼レフやスマホの登場で撮影技術の進化やネットワークコントロールについて行けない地域、会社、個人は否応なく取り残されていく時代は、コロナウィルスの登場で日常生活をも激変させた。
私は、写真を撮るのが決して上手いとは思っていない。
要領は悪いし不細工だし、目は人一倍悪く矯正のできない乱視はピントを合わすことすら阻んでいる。カンでしかない。しかし、自信を持っていることもある。それは、1998年以来大洲市の街づくりを担う会社の設立準備から携わり、「城下町大洲」を内子町に負けずとも劣らない観光地として全国展開してきたことだ。とにかく情報を発信すること。そのためには「地域の話題性を画にする」こと、それが見よう見まねで撮っていた写真だった。
上のイメージ写真は、2012年当時坂本龍馬脱藩の史実調査展開を試みながら制作したものだ。龍馬の墨絵は、当時その実力が次第に人気を押し上げていた茂本ヒデキチ氏で、岳人山先生の尺八の音も組み合わせて事業展開をしていった。背景の写真は河辺郷の泉ヶ峠で土佐方面にレンズを向けて撮影したもので、メディアなどにも大きく取り上げられたりしたことから「城下町大洲」が一気に旅行業界なども含めて広がっていった。
綺麗な写真を撮る。
それはそうだ。だが、伝わらない写真なら情報素材としての価値はない。「城下町大洲」が他の地域間競争には負けないだけのイメージでなければならない。ましてやこの町の歴史、営み、生活文化など背景に息づく史実の物語も知らずには撮れないと私は考えている。
現職時代の仕事柄、この点は自分でも嫌いではなかったし、ボランティアガイドではなく「プロの案内人」育成指導をしていたこともあって、このことが私の写真に生かされていると思う。
訳の分からんことをたらたらと書いてしまったような・・・
でも、「妥協しない表現にこだわった写真」を撮影することをこれまでも心がけてきたし、これからも変わらない。退任後4年目の春、そんなことが少しずつ理解していただき始めたように感じる。
また、インスタなども合わせて多くの皆様方に写真をご覧いただく機会が増え始めたことから、少しずつ広がりを見せ始めている。
今年の夏で68歳。一度三途の川をほとんど渡ってから戻ってきた魂を大切にしながら、かつ無駄にしないように燃やして撮影を続け、地域の皆様方へお返しをさせていただきたい。それが「風景伝写」だ。
街づくり写真家 河野達郎