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真っ直ぐな視線を、いつ失くしたのか
回転寿司屋で食事をしていると、となりのテーブル席に若い夫婦と赤ん坊が座っていた。赤ん坊は可愛らしい男の子で、子供用の小さな椅子に座ってニコニコしている。若い夫婦は、次に食べる品を選ぶためにタブレット端末に見入っていた。
ふと、その赤ん坊がこちらを向いた。俺の方をじっと見ている。思わずこちらも見つめ返す。数秒経って、堪えきれずに目線を外した。しばらく、自分の注文した寿司に集中していたが。なんとなく気になり、チラッと赤ん坊の方を見ると、まだこちらをジッと見つめていた。
それほど離れていない距離でしっかりと目を見つめてくる。また、重なった視線を外し。食事に集中するが、隣から視線を感じ続けている。なんだろうか、スキンヘッドが珍しいのか。いや、赤ん坊というものは特に意味もなく見知らぬ人を見つめることはよくあることだ、と思うことにした。
自分も赤ん坊のころは、同じようにやや無神経に見知らぬ人を見つめたりしていたのだろうか。そして見つめる相手を困らせたりしていたのだろう。
それはいつ頃からやらなくなったのだろうか。成長と共に、外見的に可愛らしいと呼べない年齢になるにつれてやらなくなったのだろうか。なんの疑問も抱かず、ただ好奇心のままに人やモノを見つめていたころが自分にもあったはずなのだ。それを、やや失ってしまっているのが少し寂しい。
定時制高校に通っているころ、科学の授業か何かに提出する課題のために、シナスタジア(共感覚)のことについて調べたことがあった。
シナスタジア(共感覚)とは、簡単に説明すると。本来独立しているはずの五感、そのどれかとどれかが共感している状態を指す。例えば視覚と聴覚が共感している人は"音が見える"のだ。そして人間は文字を音で覚えてるらしく、視覚と聴覚が共感している人は本を読んでいると文字にも色が付いて見えるらしい。
シナスタジアを研究している学者によっては、そのような共感覚を持つ人は数千人に1人だという学者もいれば、数百人に1人はいるという学者もいるらしい。どちらにせよ、さほど珍しいものでもなく、絶対音感を持つ人と同じような珍しさなのだろうなと、個人的には思う。確か宮沢賢治も共感覚の持ち主だったと言われていた気がする。
そして、赤ん坊について。どこでその記述を見たのか忘れてしまったが、赤ん坊の頃はみな五感全てが共感しているのだ、と。そんなことが書かれている文書を読んだ記憶がある。
もし、その記述が本当なら。自分もかつては五感全てが共感し、今よりもはるかに多くのモノを見ていたことになる。五感全てが共感した世界。それはそれは美しく、また醜い世界を見ていたのだろう。
そして成長と共に共感覚が離れて独立し、見えていたものが見えなくなってしまった。だから、純粋な目でモノを注視しなくなってしまったのかもしれない。
∴
あの、回転寿司屋で隣り合った赤ん坊。あの子の眼に、俺の姿はどのように映っていたのだろうか。
知りたいような、知りたくないような・・・。
(写真:奈良県室生寺 釈迦如来座像 平安時代)