"非常の人"平賀源内 万博の先駆者にして江戸の天才発明家【今日の余録】
大阪・関西万博を前に、余録は平賀源内が携わった物産博覧会を紹介している。だが、この「べらぼう」な男の魅力は、その話に留まらない。友人の杉田玄白は、源内の墓碑に「あゝ非常の人。非常の事を好み。行い此れ非常。何ぞ非常の死なる。」と刻んでいる。彼の人生は、まさに「非常」の連続だった。
源内は、1728年、讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市)で高松藩の蔵番の三男として生まれた。
幼くして本草学と儒学を学び始めたそうだ。しかし21歳で家督を継ぐと、24歳のときに長崎への遊学を志願。そこで得た西洋の知識は、その後の彼の人生を大きく変えることになる。
26歳で高松藩での仕事を辞め、家督も放棄して江戸へ向かった源内。本草学者として研究を続けながら、さまざまな分野に挑戦していく。その中で最も有名な功績は、破損したオランダ製の静電気発生装置「エレキテル」の復元だろう。
単なる修理ではない。当時の日本には存在しなかった精密機器を、入手可能な材料だけを使って再現してみせた。しかも、源内は電気発生の原理を正確に理解していなかったというから驚きだ。科学的理解を度外視して復元してしまうあたりに、源内の天才的な創造力が垣間見える。
その才能を見出した老中・田沼意次の庇護を得て、源内の創造力は様々な分野で開花する。
西洋画の技法を学びつつ、秋田で日本の風土に合わせた画風を育てた。「源内焼」と呼ばれる茶器では、伝統的な陶芸に新たな工夫を加えている。また、本草学者としての顔を持ちながら、『根南志具佐』『風流志道軒傳』といった戯作も手がけ、浄瑠璃の脚本まで書いている。
さらに、現代の万歩計の原型となる「量程器」や、ゼンマイと火打ち石を使った日本初のライターなどを考案し、発明家としても名を馳せた。
しかし1779年、源内の人生は悲劇的な幕切れを迎える。金銭トラブルが原因で相手を殺傷し、江戸の牢屋敷に収監された源内。なんとそのまま獄死で人生を終えてしまう。江戸という時代の枠に収まることを拒み続けた天才の、まさに破天荒な最期だった(享年52歳)。
今年の大河ドラマの主人公、蔦屋重三郎以上に「べらぼう」な人生だ。