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植村直己の遺品と貝原益軒の教え ―寛容さとは?【今日の余録】
植村直己さんの遺品に記された祈りの言葉を読んで、ふと思う。
寛容とは、時として「待つ」ことなのかもしれない。
「デナリへ登るナオミを神が守りたもうことを」
この祈りには、挑戦者の意志を尊重しつつ、その安全を願う気持ちが込められている。相手の選択を受け入れ、ただひたすら無事な帰還を待つ。それは厳しい自然に立ち向かう人を見守る者の、静かな寛容の形なのではないだろうか。
山への挑戦には常に危険が伴う。大切な友人の挑戦を、心配しながらも止めることなく見守る。それは相手の意志と情熱を受け入れ、自分の不安を抑えて待つという、深い寛容さが必要とされる行為だ。
そういえば祖母に「急がば回れだよ」とよく言われた。僕のせっかちな性格を案じてのことだったのだろう。子どもの頃は、なぜわざわざ遠回りをするのか不思議だった。回り道は時間の無駄遣いと感じていたからだ。だが年を重ねるうちに、その言葉の奥にある寛容さが見えてきた。
遠回りには、相手のペースを受け入れる優しさがある。待つことは、相手の成長を信じること。そして、その過程で自分自身も成長できる。江戸時代の儒学者、貝原益軒も心を静かに保つことの大切さを説いた。今を生きる僕にも響く教えだ。
寛容さは、必ずしも全てを無条件に認めることではない。むしろ、違いを理解しようとする姿勢そのものだ。それは時として、自分の価値観を一旦脇に置き、相手の視点に立ってみることから始まる。山を目指す人を見守る気持ち、遠回りを受け入れる心、そこには共通して、時間をかけて物事が育つのを待つ寛容さがある。そんな「待つ力」は、現代社会にこそ必要な気がしてならない。
僕はいまだにせっかちで、「待つ力」もあるかどうか怪しいけれども🙃