厭な話『ナオコさん 後日談』
僕がそう言葉を結ぶと、湊町黒絵(みなとまちくろえ)先輩は、「ふうん」と言った。
「ふうん、って……それだけですか? せっかく先輩が面白がってくれるだろうと思って、持ち帰ってきたのに」
僕は話し終えてカラカラになった喉に生ビールを流し込んだ。
「いや、まあ、なんというか――」
黒絵先輩も生ビールで一度唇を湿らせる。
「――厭な話を、持って帰ってきたものだねえ」
■
ここは新宿西口にある『やまと』という居酒屋の二階である。
出版社に勤めている僕は、担当作家であり――高校の頃からの腐れ縁でもある――湊町黒絵先輩との「打ち合わせ」を、頻繁にこの店で行う。
湊町黒絵先輩の小説は怪奇・幻想小説と呼ばれるジャンルの作風であり、年に二本短編を書けば、今年は豊作だね、と言われるような寡作な先生なのだが、作品を纏めた単行本の出版を望む声も多く、編集長からは「湊町先生にとにかく早く作品をストックさせるように」との命令を受けているため、お互いに生ビールを飲みながらの打ち合わせでも特に険しい顔はされない状況――で、あるはずだ。今のところ。
そして黒絵先輩は、いわゆる「不思議な話」や「怖い話」に対して並々ならぬ興味と関心を持っており、誰かに会えば、例えそれが初対面であっても「なにか変わった話を知りませんか?」と尋ねてしまうような人なのだ。
担当である僕は、「作家先生のために不思議な話や怖い話を集めてくることこそが担当編集としての仕事のしどころであり極上の喜びとするべきである」と、こともあろうに担当作家である黒絵先輩から直接人差し指をつきつけられて命令を受け、「そういうのは担当が自主的に思いついて初めていい気持ちで仕事が出来るのであり、作家から一方的に言われても担当はやる気が出にくいのではないだろうか」という、僕の意見は却下された。
ということで僕は、仕事先で会った人や、プライベートで飲んだ人などに、「おかしな話や怖い話」を取材するのが習慣となってしまっているのだった。
そして僕は一昨日まで、沖縄県に出張に行っていた。
■
「――厭な話、好きじゃないですか先輩」と、僕は返す。
「好きじゃないよ、別に」黒絵先輩は真っ黒な服の何処かからマルボロを取り出して火をつける。
「ぼくが好きなのは、不思議な話や怖い話、だ。厭な話じゃない」
「怖い話なんか、厭なオチで終わるの多いと思いますけど」
「それは厭なオチ、だろう。厭、の部分が占める割合が全然違うじゃないか」
黒絵先輩は黒くまっすぐな髪を左手でかきあげながら睨みつけてくる。
「素人には違いがわからないもので。すみませんねえ」
「何をいじけてるんだよ。君はプロの編集者なんだ。そういう逃げ口はどうかと思うよ、社会人として」
「……先輩に社会人の立場を説教されるとは思いませんでした」
何しろ黒絵先輩は、一度も就職した経験がないのだ。
「じゃあ、まあともかく」
僕は新しく運ばれてきたハイボールに口をつけてから言った。
「今回の話は、特にお気に召さなかった、ということで」
何も珍しいことではない。僕だって取材した話全部が黒絵先輩に気に入ってもらえるとは思っていない。だが、時折「当たり」があるのだ。
そういう話に出くわした時、二つ年上の彼女は――とても魅力的な表情をする。その顔を肴に飲むお酒は格別に美味しい。普段は眉をしかめ、三白眼気味の目でくわえ煙草のまま、僕にあーだこーだと説教をする先輩が、その時ばかりは、この僕を尊敬の眼差しで見てくれるのだった。
だが、今回は「当たり」ではなかったようだ。それだけのこと。
「うん。まあ、お気に召さないというか――厭な話だなあ、と思うよ」
黒絵先輩も新たな生ビールを一口飲んでから言った。
「そうですか? そこまでいうほど厭かなあ……確かに、変質者のおじさんとかは、ちょっと寒気がしますけど、その男の子もそれ以上の被害にあったわけでもないらしいし……なにより、ナオコさんは無事に子供も生まれたみたいだし、暴力振るう旦那とも別れられて良かったじゃないですか」
「良かったって。君はぼくにわざわざ良かった話を聞かせたかったのかい? 違うだろ、君自身が、この話を聞いて、何か釈然としないものを感じたから、ぼくにも聞かせてみようと思ったんじゃないのかい? 違うかな」
それはその通りだ。
誰にも目撃されずに島から消えてしまった芳文さんの話も不思議だが、変なタイミングでいきなり現れた、三本の腕を持つ顔の黒いおじさんの話も居心地が悪くしっくりこない。
そうなんです、と僕は頷いた。
「お話自体は、可哀想だったナオコさんが、ようやく幸せになれて――島にこそ戻れませんでしたが、良かったね、というシンプルな話なんですけど、なんだか色々と座りの悪い要素が入ってきていて、もやもやするんですよ、この話」
「するだろうね。気にしだしたらね」
黒絵先輩は紫の細い煙を吐き出してから言った。
「気にしなければいいよ。そうすればいい話、良かったねで終わる。めでたしめでたしだ」
「だから、もうそういう心情にはなれないんです。だから――先輩に話したんですよ」
黒絵先輩なら、この居心地の悪い話の、一体何がそんなに居心地が悪いのか、を教えてくれる。
これまでも何度もそういう事はあった。僕が聞いてきた不思議な話の、不思議な部分を、黒絵先輩は言葉で説明してくれる。
そして、黒絵先輩にとって、自分が言葉で説明できてしまうような話は「当たり」ではない。だからそういう話について黒絵先輩が語るとき、普段の愛想の良くない顔はより不機嫌になるのだ。
「――黒絵先輩は、この話の、何がそんなに厭なんですか?」
「佐野芳文が、殺されてしまっているからだよ」
眉間の皺を一層深くして、黒絵先輩は言った。
■
「これはあくまで憶測でしかないんだけど」
黒絵先輩は、何杯目かの生ビールを飲み干すと、そう前置きをした。
「ナオコさんが芳文を殺すことを思いついたのは、子供ができてからだろうね」
「ナオコさんが芳文さんを殺したんですか?」思わず聞き直す。
「当たり前だろう」うんざりした顔で黒絵先輩は言った。
「他に誰がそれをやれるんだよ」
「いや、だって、行方不明になって、えっと」言葉がうまく続かない。
「いいかい、君」
黒絵先輩は煙草に火をつける。
「これは、誰が殺したのか、なんて話じゃない。君も言ってただろう。芳文はどこへ行ったのか? そして、サトウキビ畑に出てきた三本腕のおじさんは何か? っていう話でしかない」
「でも」
「いいから聞きなよ。どうせ全部憶測だ。目くじら立てるようなことでもあるまいよ」
いいかな? と黒絵先輩は続ける。
「妊娠していることを知ったナオコさんは、芳文を殺すことを、初めて思いつく。だけれど、それはあまりにも困難な選択だった。それよりも、離婚出来たほうが確実だ。そこでナオコさんは、自分が離婚出来るような方向へ、状況を持ってくことにした」
「状況を持っていくってどういうことですか?」
「芳文に島の生活を挫折させ、引きこもらせ、自分だけが甲斐甲斐しく外で働く、という姿を周知させることだよ」
「芳文さんを家に引きこもらせたのは、ナオコさんの策略だと?」
「難しいことじゃないだろう。元々女性に暴力振るうような弱虫なんだ。『あなたは島の人に嫌われてるみたい』とか『私がお金稼ぐから気にしないで』とでも言ってやればすぐにそちらへ転がるだろうさ。そしてナオコさんは、妊娠のことを気づかれる前に芳文の評判を落とし、周りを味方につけて離婚の話をスムーズに運ぼうとしていた。けれど――」
「芳文さんのほうが先に、ナオコさんの妊娠に気がついてしまった」
「時間がかかりすぎたんだな。ナオコさんのお腹は大きくなり始め、隠せなくなった。そして妊娠のことを芳文に打ち明けると、ナオコさんにとって驚くべきことが起こる」
「そうか。芳文さんは、子供ができたことを喜び、まともになる、と言い出したんでした」
「ナオコさんにとってみたら、とんでもない発言だ。さんざん今までクズ人間として生きてきて迷惑をかけて、いまさらどの口が言うのだ、と思っただろうね。このままでは困ることになる。芳文がまともになってしまったら、離婚できにくくなってしまうわけだ。更に決定的だったのが、仕事が決まりかけたこと、だ」
「ああ、仲本さんの旦那さんが、芳文さんの仕事の紹介先を見つけてきたんでした」
「これでもう、芳文からは逃げられない。そう考えたナオコさんは、その日の夜中の内に、芳文を殺してしまう」
それは芳文が失踪した、と言われている晩だ。
「殺害方法はわからないけれど、毎晩酔っ払ってた芳文のことだ。就職祝だとか言って強めの酒を無理矢理飲ませて、朦朧とした芳文を風呂にでも入らせれば、後は上から頭を押さえつけるだけで完了したかも」
その晩は確か、芳文さんの笑い声が聴こえていたのだった。あれは、ナオコさんが芳文さんを酔っ払わせるために祝い酒を振舞っていたのだろうか。
「でも、芳文さんを殺すことが出来たとして、死体はどうするんです? 床下にも何もなかったって、仲本さんは言っていました」
「そりゃ床下にはないよ。芳文の死体は、ナオコさんが持ち運んで捨ててしまってるんだから」
「――持ち運んで捨てる、って、どうやってですか?」
「そりゃバラバラに切り刻んで持ち運びやすくしたんだよ」
ごくつまらなさそうに黒絵先輩は言った。
「ナオコさんが、芳文さんの死体を、バラバラに?」
「芳文がいなくなった日の朝、仲本さんは、ナオコさんが、目の下に隈もできていて疲れてるみたいだった、と言っていたね」
「――まさか、一晩かけてバラバラにしていたんですか?」
「きっとね。ナオコさんたちの家は、大家である仲本さんの家の敷地内に建っているんだ。そこに死体をそのまま放置しておくわけにもいかないだろうからね。迅速に片付けられるサイズにしてしまう必要があったわけだ」
ようやくまともになろうとしていた夫を殺害し、すぐさまバラバラに解体してしまう、母になったばかりの妻。彼女を突き動かしていた衝動は何だったのだろう。
「じゃあ、ナオコさんが芳文さんの死体を小さいサイズに解体したとして、それらを、夜中にでもこっそり捨てていたんでしょうか?」
「失踪した旦那の帰りを待つ妊娠した妻が、夜中にそう何度も出て行けると思うかい? すぐに仲本さん夫婦や近所の人に見つかって、自分たちも一緒に探しに行く、なんて言われちゃうだろうな。そうすれば死体遺棄どころじゃない」
「だったら、いつ――」
そこまで言って、気づいた。
「――昼間、ですか」
「そう」
黒絵先輩は、生ビールの表面を見つめながら言った。
「ナオコさんは、白昼堂々と、芳文の死体を捨てに行ってたんだ」
白昼堂々と。それは、つまり――。
「サトウキビ畑に、ですね?」
「君も沖縄に行ったのだったら見てるだろう。サトウキビというのは、2メートルから5メートルくらいまでの高さに成長する。畑となると、それらがみっしりと生えているわけだ。作業途中で、サトウキビの林の中に隠れることなど難しいことでも何でもないだろう」
サトウキビ畑での仕事、というものがどういうものか僕には今ひとつ具体的に想像できなかったが、全員が全員常に顔を突き合わせているような状況で、一日中仕事をするわけではないだろう。食事だってとるしトイレだって行く。人が一人、サトウキビの中に紛れて見えなくなっても、そこまで気にする人もいないと思う。
「だけど、芳文さんの死体は、どうやって運びます? お弁当や道具やら色々荷物はあるでしょうけど、そこに紛らせることがどこまで可能かどうか」
「荷物に紛らせるのは、難しいだろうね」
「ですよね」
「でも、畑仕事をする人たちは、日よけや虫よけで、重ね着なんかしていたらしいじゃないか。その下に隠して運ぶことは出来ると思わないかな?」
「服の下に? でもいくらなんでもそんなとこに死体隠してたら目立ちませんか? いくら小さくしたと言っても……」
「ただ隠すだけなら目立つだろうね。でも、元より、もっと目立ってる部分があれば、話は変わってくる」
元より、目立っている部分。ナオコさんの場合のそれは――
「――大きくなり始めたお腹の部分に、死体の一部を隠して運んだと?」
「そう。朝の内に、自分のお腹の下か上――これは運ぶ部位によって変わると思うけど――に、運びやすくカットした死体を布かなんかで巻きつけ、その上から服――なるべくシルエットが隠れるようなやつ――を着て、畑まで運ぶ。そして、サトウキビの中に隠れ、一人になったところで、服の下から死体を取り出し、畑に埋める。一緒に畑に出ていた仲本さんなんかは、『朝は大きいお腹が、夕方畑終わる頃には、少し小さく見えたりして』くらいにしか、思わない」
そうして少しづつ、ナオコさんは、芳文の死体をサトウキビ畑に運んで捨てていた。
「ナオコさんは、畑に毎日出ることで、段々と元気を取り戻していたんだろう? 一週間経つころには、すっかり前よりも元気になっていたそうじゃないか。それもそうだろうね。芳文の死体を、すっかり捨てきれることができたのだろうから」
だけど一度だけ、と黒絵先輩はつまらなそうに言った。
「一度だけ、見られてしまったんだ。芳文の死体を捨てているところを――小学生に」
「……さんぼんおじさんも、ナオコさんだと?」
「そうじゃなかったらタイミングが良すぎるよ、気味の悪い変質者が同じ時期に、サトウキビ畑に現れるなんて」
新たな生ビールを注文し、黒絵先輩は言った。
「もう一度念の為に言っておくけど、ぼくがさっきからずっと喋ってるこれは、ただの憶測でしかないからね? どこにも証拠なんてないし、そもそも君の聞いた話自体が、まるっきり嘘のつくり話かもしれないんだ。そう思って聞いとくれよ」
僕は頷いた。これは黒絵先輩が毎回言うことで、これを言い始めたら酔っ払い始めており、しかも話が終りに近いことを示す。
「ナオコさんは、油断したんだな。これまでスムーズに芳文の死体を捨て続けられたことに。今日、自分が死体を埋めようとしている場所のすぐ近くが、小学生たちの近道のルートになっていると、気づかなかったんだ。ナオコさんは、芳文の死体を畑に埋めようとしている。するとそこに、何者かの足音が聞こえる。ナオコさんは大変吃驚して、焦る。今日まで上手くいってきたことが台無しになってしまう。こっそり様子をうかがうと、小学生が段々こちらへ近づいてくるのが分かる。そこでナオコさんは、咄嗟に、身近にあったもので、自分の顔を隠すことを思いつく」
「咄嗟に、身近にあったもので、自分の顔を隠す……?」
僕は間抜けにも復唱した。一体それはなんだ?
「ついこないだ埋めたばかりの、芳文の、生首だよ」
「ええっ!」
「偶然近くに埋めていた事に気づいたナオコさんは、今、自分の顔を隠すにはこれこそがうってつけだと気づく。だって、芳文は島に来て早々に引きこもっていたせいで、近所の人ならともかく、小学生には絶対に顔はバレてないはずだからね。そこでナオコさんは大急ぎで芳文の生首を畑から掘り起こし、自分は頬かむりの奥に顔を引っ込め、芳文の首の頬を両手で挟んで、顔の高さに持ってきたんだ」
真っ黒い顔をしたおじさん……。あれは地面から掘り起こされた芳文の顔の事だったのか。
「だけど、焦っていたんだろう。捨てようとお腹の上に隠していた、芳文の片腕が、ナオコさんの服の間からだらん、と飛び出してしまったんだ」
胸のあたりからだらんと垂れていた、三本目の腕……。
「ナオコさんも焦っただろうけれど、小学生の男の子の恐怖心はそれ以上だった。運よく、彼はそこで失神してしまったからね。失神した彼を置いて、ナオコさんは大急ぎでその場を後にしたのさ」
芳文の生首を掲げ持ち、膨れた腹の上に隠した芳文の片腕を飛び出させているナオコさんが、さんぼんおじさんの正体だったというのか。
「で、まあ、芳文の死体を全部捨て終わったナオコさんは、島から脱出した、というわけだよ」
■
「以上、全部ただの側側でしかないけど、厭な話が、より厭な話になっただけだっただろう?」
生ビールを飲み干して黒絵先輩は言った。
「これがぼくの解釈だよ。こんな厭な解釈しか思い浮かばないから、心底自分が厭になるんだ。全く、面白くもなんともない」
黒絵先輩は不機嫌な声を隠さず、新たな煙草に火をつけた。
「でも、まあ、憶測ですから」
僕は黒絵先輩に言う。
「証拠はないし、別にその憶測を……警察に言うってわけでもないんですよね?」
「言うわけ無いだろう。だって、さっきも言ったけれど、そもそもこんな話、本当にあったことかどうかすら不確かなんだ。芳文だってナオコさんだって実在してるかどうかも怪しい。仲本さん――は、流石に、君が話を聞いたんだから実在してるのだろうけど」
「ええ、してますよ。あの夫婦は確かに。もっというと、仲本の旦那さんが、元々、大学の時の知り合いなんです」
「ふん。そうだったのか。まあともかく。ぼくは聞いた話に、厭な解釈を思いついてしまった。そしてそれを君が聞きたがったから、話したのさ」
「でも、例えば、こういう解釈を足してみるってのはどうでしょうか」
「うん?」
「本当は、仲本さん夫婦も、島の人達も、警察も、芳文さんがもう死んでることは知ってるんです。でも、あえて誰も、それを本気で探そうとしていない、というのは」
「殺人隠蔽アイランドか。胸糞悪くなる話だな!」
黒絵先輩はもはやトロン、と座った目で舌打ちをした。
「これは憶測ですけど――」
「真似するんじゃないよ」
「芳文さんは、本当にどうしようもないチンピラだったんです。島にやってきて、内地に戻れないような夫婦だったはずなのに、ナオコさん一人になった途端、出産のためにすぐに実家に帰っています。だからこれは多分、東京にいられなくなった理由は、芳文さんが作っていて、ナオコさんはそれに巻き込まれてついてきてしまった。更に、芳文さんが暴力を振るい、働きもせず、引きこもって酒を飲んでいることは、近所の人はほとんどが知っています。つまり、芳文さんが死んでしまえばいいのに、と思っていたのは、何もナオコさん一人ではない」
「……何が言いたいのかな」
「周りの皆が、ナオコさんに協力すれば、あっという間に全て終わる話なんです。一週間かけて死体を遺棄することも、ましてバラバラにする必要もない」
「全員が共犯だと?」
「むしろ、ナオコさんだけが本当に何も知らないのかも。あの晩、酔いつぶれてしまった芳文さんを、近所の人がナオコさんにバレないように運び出し、漁船に乗せて海に放り投げてしまえばおしまいです」
「まて。それじゃあ、三本腕のおじさんの話はどうなる」
「ナオコさんを元気づけるための、ただのいたずらです」
「なんだそりゃ。そんなひどい話があるか。……いや、あるのか」
黒絵先輩は紫色の煙を細く吐き出した。
「あるんです。憶測で語るというのは、こういうことですから」
「確かに。それが例え合理的であろうと無茶な話であろうと――そのどれもが取るに足りない話、だね」
「そういうことです。だから――」
「うん?」
「――そんなに、自分自身を嫌いにならなくてもいいんですよ、先輩」
「ふん。偉そうに。君の分際で」
つまらなそうにそう言って、黒絵先輩は煙草を灰皿に押し付けた。
「……でも、まあ――お礼を言っとくよ。ありがとう」
黒絵先輩は少し酔いが覚めているようだ。
「じゃあ、まあ、この話はこれで仕舞いだ。で、どうなのかな?」
「どう、とは?」
「他の――なにか面白くて不思議で怖い話は、ないのか?」
新たなビールを注文して、黒絵先輩は、にまーっとわらった。
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