厭な話 『呼びだし』
「九時くらいです。夜の」
及川さんは細かく何度も頷きながら言った。
「正確ではありませんけれど、大体そのくらいの時間に、家のインターホンが鳴るんです」
及川さんがリビングでテレビを見たり、キッチンでやや遅めの夕飯を食べていたり、お風呂に入っていたりしている時、インターホンは鳴るのだ、という。
「確かに遅い時間ではありますが、そこまで非常識に遅いって程じゃありません。宅配の荷物なんかも、二十一時過ぎまで届けてくれる場合もありますし」
それが始まったとき、及川さんも、遅めの宅配かな、と思ったのだという。
「何かが届く覚えはなかったんですけど、一応、確認と思って」
及川さんの部屋は、マンションの八階の、一番端より一つ内側の部屋だ。
「廊下の右側には、隣の角部屋のドアと突き当たりの壁しかありません。そこに誰かいたらすぐにわかります。誰もいないことがわかったんで、すぐに反対側の、長い方の廊下を見てみたんです」
だが、そちらの廊下にも誰の姿もなかった。
「こんな時間にいたずら? と思ってムカつきました」
インターホンは、次の晩の九時過ぎにも鳴った。
「また見てみましたが、やっぱり誰もいません」
さすがに二日続けてとなると腹立たしさよりも気味の悪さが勝つ。
及川さんはもう二度とインターホンが鳴っても出るものか、と思っていたが、ふとあることに気がついた。
「右隣の部屋。つまり角部屋の家なんですけど、小学生の男の子が住んでることを思い出して」
及川さんの家の隣人が住む八階の角部屋には、母親が一人と、ミチルくん、という小学生の男の子が一人で住んでいるという。
「ああ、あの子がいたずらしたんだ、って。なあんだ、ってすっかり気が楽になったんです」
それから数日。時折、及川さんの家のインターホンが鳴る。
やはり夜の九時頃だ。
及川さんは、仕事が遅い母親が帰ってくるまで寂しいのだな、それまでの間であれば、とミチルくんの相手をしてやることにしたという。
「インターホンが鳴ったら、必ずドアを開けてあげることにしたんです」
及川さんは、ベランダで洗濯物を取り込んでいるときでさえ、わざわざ家の中を縦断して、ドアまで行って開けてあげたという。
ミチルくんのいたずらに、ちゃんと付き合ってあげる事にしたのだ。
「そんなことしてたから……あの子に気に入られちゃったんだな、って思うんです」
及川さんは少しだけ笑ったような表情をして言った。
「あの日、やっぱり夜の九時くらいに、インターホンが鳴りました」
及川さんは、またか、と思いつつも、リビングのソファから玄関まで歩き、ドアを薄く開けた。
「いつものように、誰の姿も見えませんでした」
しかしその日だけ、いつもと違ったことがあったと言う。
「ノートの切れ端みたいな紙が。折り畳まれて、こう、ドアの前の床に、置かれていたんです」
及川さんは、なんだろう、と思って玄関から出て、それを拾った。
「紙を開いてみて、なんか、ざわざわってして。それで、隣の家を訪ねてみたんです」
及川さんはミチルくんの家のインターホンを鳴らしたという。
「でも、誰も出ませんでした。ドアを開けてみようかとも思ったんですが、果たしてそこまでしてもいいものか、廊下で一人迷っていました」
そこへ、二軒隣のドアが開き、中年の男性が出て来て、及川さんに話しかけて来た。
「その男の人は、何度か挨拶をしたことがある程度の人だったんですが、どうかしましたか、って訊かれて。落ちてた紙を見せて、経緯を話したんです」
すると中年の男性は、ミチルくんの家に電気がついているかどうか、ベランダから確認してみてはどうか、と提案した。
「なるほど、と思い、私はその人に廊下を見てもらって、自分の家を突っ切ってベランダに出ました。で、首をこう、伸ばして、ベランダの仕切りの向こうの、角部屋を見てみました」
「電気はついてました」
及川さんはついでに反対側の仕切りの向こうも見てみた。左隣の家は真っ暗で、その隣は電気がついていた。
「その中年の男の人の家なんで、そりゃ当たり前なんですけどね」
及川さんが再び玄関から廊下に出たところで、廊下中程にあるマンションのエレベーターが開いて、ミチルくんの母親が出て来た。
「私と男の人とで、軽く説明をすると、お母さんは、ウチの子がすみません、って頭を下げてから、鍵を差し込みました」
だが、ドアは開かなかった。
チェーンが内側からかけられていたのである。
「お母さんは困った感じで、しばらくドアの隙間から、ミチル、ミチル、って名前を呼んでいました。でもその声もだんだん大きくなって、目に見えてパニックになっていって」
とうとう、大家さんが呼ばれて、チェーンを切ることになった。
「開けなければよかった、と思いましたよ。正直」
及川さんは言った。
「ミチルくん、死んでたんです」
死体は、リビングのテーブルの下で、全身を滅多刺しにされていたという。
「後で警察の人に聞いたんですけど」
及川さんはうんざりしたような表情で言った。
「ミチルくんの死亡推定時刻っていうんですか……殺された時間。夕方の、六時頃だったそうです」
インターホンが鳴ったときは、もう既にミチルくんは死んでいたのだ、と言う。
「私、よほどあの子に、気に入られちゃったんでしょうね……。それか私に見つけて欲しいと思ったのかな……なんて、考えたりもするんです」
及川さんは少し笑ったように、そう言った。
「隣の家は――お母さんはそのまま、いなくなってしまいました。警察の人は、引っ越した、と言ってましたけど」
及川さんは、鞄の中から折り畳まれた紙を取り出した。
「これ。警察の人が、もう持って帰っていいからって渡されたんですけど」
及川さんは、今にも消え入りそうな声で続ける。
「近いうち、ミチルくんが私を迎えに来るんじゃないかって、そんな気がして。……見ます?」
及川さんはそう言って折り畳まれた紙をこちらに手渡した。
紙を開くと、中には、ボールペンで簡単な文章が書かれていた。
ぼくは いえにいる
こんどは おねえさんの ばん
ミチルくんを刺した人物は、まだ見つかっていない。
気分が沈む話を聞いた。
※登場する人名は全て仮名です。
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