猫がいなくなって一晩経った話
昨晩(1/14)の夜に、この世に卒論を提出(時事ネタ)してしまったちっち。
本日、深大寺の動物霊園に連れて行き、荼毘に付してもらいました。
で、色々打ち合わせとかして帰宅すると、もうちっちのいない家が待っていた。
外出中に妻はちっちのための色々を、片付けていた。
トイレだとか、爪とぎだとか、壁を保護する布だとか、食器だとか。
これでこの家は、ちっちのための物がもうない家、として生まれ変わったのだ。
生まれ変わる。
そう。
このことが大切で、ちっちは確かにこの家と俺と妻の生活リズムからはいなくなってしまったけれど、決してそれを喪失だと思ってはいけない。
それらは、新たな、ちっちがいない生活の始まり、として、過去を思い出していく生活ではなく、新たな未来を見ていく生活にしていかなければいけないのだ。
いけないのだ、って、別にそんな大層なことではないけど。
十三年も一緒に暮らしていたから、すっかり日常に根付いてしまった行動も多々ある。
帰宅するなり名前を呼んだり、暇になった瞬間に名前を呼んだり(すると、のこのこのと、何か用ですか、と、側に来たのだ。可愛いなあ。)、お風呂から上がると浴室の前でお湯がもらえるかも、と待っていたり、だとかが、それだ。
でも、もうそれはないのだ。
だけどこちらは毎日のように帰宅するだろうし暇を感じたりもするしお風呂も入るのだ。
その度にちっちがいないなあ、と思っていてはきりがない。
もういないんだし。
だから、もういないなあ、ということをいちいち受け止めながら、もういないことをいちいち考えていても仕方ないか、と、考え、ちっちがもういないことによって、今まで出来なかった事などに発見を見出し、楽しんでいこうと思う。
具体的には、取り敢えず、ちっちがもう爪でガリガリしなくなったので、寝室と居間の間の襖が閉められることとなりました!
そのことにより、俺より先に寝る妻は、電気の明かりやテレビとか音楽の音声から遠ざかることができ、安眠が約束されることとなりました。
わーぱちぱち。
新しい発見と生活リズムを有難う、ちっち。
いなくなってからもこちらに影響を与えるなんて、つくづくお前は素晴らしい猫だよ。やるじゃん。
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