吉備津彦神社|備前国一之宮
主神
大吉備津彦命(第七代孝霊天皇の第三皇子・別名 彦五十狭斧彦命)
相神
吉備津彦命(大吉備津彦命の御子・別名 稚武吉備津彦命)
孝霊天皇・孝元天皇・開花天皇・崇神天皇・彦刺肩別命・天足彦國押人命・大倭迹迹日百襲比賣命・大倭迹迹日稚屋比賣命・金山彦大神・大山咋大神
由緒
古代より当社背後の吉備中山には巨大な磐座(神が鎮座する岩)・磐境(神域を示す巨石群)が有り、山全体が神の山として崇敬されてきた。主祭神は大吉備津彦命。命は四道将軍の一人(四道将軍)として山陽道に遣わされ、「温羅」という鬼神を退治し、吉備国を平定・統治し、現人神として崇められた。吉備中山の南領に御陵(茶臼山古墳)を定め葬り奉っている。仁明天皇承和十年(八四三)十月二十四日 一品(いっぽん)爵位を贈送され、一品宮とも一品吉備津彦大明神とも呼ばれ、吉備国が備前・備中・備後・美作に別れると備前国一宮として崇敬された。中世には武家や庶民の信仰が厚かったが、日蓮宗への改宗を迫る金川城主の松田左近将監によって社殿がことごとく焼かれた。江戸時代に入ると岡山藩主池田氏は崇敬厚く、延宝五年(一六七七)に三百石の社領を寄進、元禄十年(一六九七)には綱政公によって社殿が再建された。昭和三年(一九二八)十一月十日国幣小社に列せられた。昭和五年(一九三〇)、不慮の火災で御本殿、随神門を除いて焼失、現在の社殿は昭和十一年(一九三六)の再建である。(出典:境内案内看板)