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梶原景時外伝_雪の貴公子<後編>

神事の当日まであと一日。寒川神社は早朝から厳かな静けさに包まれていた。冬の冷たい風が舞殿を取り囲み、遠くには降り積もる雪が神社の屋根を白く染めていた。若宮の病状は悪化の一途を辿り、昨夜、医師から
「あと二日が山場」
と告げられていた。館の者たちは皆、その報告に深い沈黙を強いられた。時継は座したまま長く動かず、誰もその場を立ち去れなかった。
「富士山の守り神、木花咲耶姫を若宮が舞う――その噂はすでに広まっている」
と家臣が震える声で告げた。若宮の代わりとして舞う役目を負った平三は、早朝の闇の中、誰にも見られることのないように寒川神社へ運び込まれた。道中、人払いが徹底され、祢宜家の密偵を警戒しながら慎重な移動が行われた。祠の扉が重々しく閉じられると、平三はその中に一人取り残された。冷たい床が足元から体を凍えさせる。
「ここから出ることは許されない。誰にも見つかるわけにはいかぬからな。」
平三は頷き、静かに目を閉じた。祠の中は、冷たい静寂だけが満ちていた。同時刻、梶原家では、平三が病に倒れたかのように見せかける偽装が徹底されていた。彼の寝室には布団が敷かれ、その中に人形が横たえられていた。家臣たちは全員が平三の居所を隠し通すよう命じられ、館全体に緊張が漂っていた。
「景清の三男もはやり病にやられた。寝室から一歩も動けぬ状態だ。」
広間で時継が話す声が、密かに聞き耳を立てていた祢宜家の密偵にも届いていた。祢宜家の久雅は、報告を受けると眉をひそめた。
「若宮が病に倒れ、景清の三男も動けない……不自然ではないか。」
その疑念を胸に、久雅はさらに密偵を送り込むよう命じた。しかし、梶原家の周到な警戒の前に、祢宜家の者たちは平三の姿を掴むことができなかった。

ついに神事の当日を迎えた。冷たい朝霧が晴れると、寒川の空には雪が舞い降りる前の静けさが広がっていた。舞殿には寒川中の人々が集まり、厳かな太鼓の音が神社の空気を引き締め、観衆の視線は一斉に舞殿へ向けられた。
「若宮が舞を披露する」
との知らせはすでに広まっており、人々の期待は高まっていた。観衆の中には、祢宜家の久雅を始めとする厳しい目が光っていた。舞殿の裏で、平三は若宮の装束を身にまとい、仮面をつけたままじっと目を閉じていた。薄暗い舞殿の裏手に立つ彼の手には汗が滲み、肩は小刻みに震えていた。
「怖い……本当に俺ができるのか。」
平三は自問しながら深く息を吸い込んだ。祈るように目を閉じたその瞬間、微かな風が舞殿を通り抜けた。冷たくも優しいその風に、彼の耳元で声が聞こえた気がした。
「平三、お前ならできる。」
その声は確かに若宮のものであった。平三は驚いて目を開けたが、周囲には誰の姿もなかった。それでも、心の中に響く若宮の声は、彼の恐れを一瞬で消し去った。
「若様…。」
まるで若宮の生霊が平三に宿り、背中を押しているかのようだった。その感覚に背筋を伸ばした平三は、装束を整え、舞殿の中央へと歩み出た。

平三が舞殿の中央に立つと、観衆のざわめきが完全に消え、神社全体が静寂に包まれた。冬の冷たい空気が舞殿を流れ、彼の装束は白銀の光を受けて神々しい輝きを放っていた。
「若宮だ……!」
誰かがそう呟き、観衆の視線が平三に釘付けになった。彼の姿は若宮そのものに見え、まるで雪の中に現れた天上の舞人のようだった。厳かな太鼓の音が響き渡り、平三は静かに一歩を踏み出した。その瞬間、彼の体は自然と動き出し、滑らかで力強い舞が紡がれていった。
「若様……あなたが舞っている。」
平三の心は若宮に完全に重なり合い、彼自身も自分が踊っているのか、それとも若宮が踊らせているのか分からなくなっていた。彼の動きは稽古で繰り返された若宮の教えそのものでありながら、どこかを超越していた。その時、空から静かに雪が舞い落ちてきた。初めは粉雪のように小さなものだったが、次第に花弁のような形となり、舞殿を包み込むように降り積もっていった。平三が腕を伸ばすたびに雪が舞い上がり、彼が足を踏み出すたびに白い花弁が風に乗って宙を漂った。観衆はその光景に息を呑み、誰一人として言葉を発することができなかった。
「平三、よくやった。お前ならできる。」
若宮の声が平三の耳元に響き、木花咲耶姫を舞う彼の動きはさらに神秘的な力を帯びていった。舞殿全体が彼の動きと呼応し、天と地が一つに結ばれたかのようだった。平三の心には若宮の姿がはっきりと浮かび上がり、彼は心の中で語りかけた。
「若様……僕は今、あなたと一緒に祈りを捧げています。この舞は、あなたと共にある。」
舞が進むにつれ、観衆の間からすすり泣きが聞こえ始めた。神聖な舞に心を奪われた人々は、ただその光景に圧倒されるばかりだった。祢宜久雅もまた、最初は冷静を装いながらその舞を見つめていたが、次第に胸が締め付けられるような感覚に襲われた。目頭が熱くなり、ついには涙が頬を伝い落ちた。
「これほどの舞を踊れる者がこの世にいるとは…。」
彼は呟き、胸の内で膨れ上がる疑念を押し殺した。
「若宮は病で伏せていると聞いていた……。だが、これが若宮でないとしたら、一体誰が――」
その問いを口にすることさえ、久雅には叶わなかった。舞に込められた神秘的な力が、その疑念を押し流していったのだ。太鼓の音が静かに止むと同時に、平三の舞も終わりを迎えた。彼は静かに頭を垂れ、深い一礼を捧げた。その瞬間、空から降り続けていた雪が一斉に舞い上がり、舞殿全体を白銀の光で包み込んだ。深い静寂が舞殿を支配し、観衆は誰一人として動けなかった。やがて、一人が呟いた。
「雪の貴公子が舞った…。」
その言葉は観衆の間を静かに広がり、誰もが頷くようにその言葉を受け入れた。あのような舞を踊れる存在が他にいるはずがない――そう誰もが信じた。祢宜久雅もまた、涙を拭うことなく静かに頭を垂れた。その顔には、かつてないほどの敬意が浮かんでいた。舞殿を包み込んでいた冷たい空気は、いつしか温かさを帯びていた。観衆が拍手を送ることすら忘れるほどの深い感動の中、舞殿全体が静かに浄化されていくのが感じられた。平三は、若宮と共に舞ったその感覚を胸に抱きながら、舞殿を後にした。その背中には、ただ一人で立った時よりも、どこか確かな力が宿っているように見えた。

舞を終えた平三は、観衆の拍手に包まれる舞殿を静かに後にした。彼の足は観衆の誰にも見られることなく、裏手の小道を急いだ。その歩みは速く、息を切らせながらも平三の胸には一つの思いしかなかった。
「若様に、舞が成功したことを伝えなければ…。」
平三の心の中には、若様が微笑みながら自分を待っている姿が浮かんでいた。それが彼の疲れた体を突き動かし、冷たい夜風をものともせず、若宮の館へと駆け続けさせた。館にたどり着いた平三は、すぐに異変を感じ取った。使用人たちは誰も顔を上げず、伏し目がちに黙り込んでいた。その様子に、平三の胸には嫌な予感が広がった。
「若様は……どこですか?」
平三は震える声で問いかけた。重い沈黙が流れる中、やがて時継が静かに歩み寄ってきた。その顔には深い悲しみが刻まれていた。
「平三殿……若宮は、今息を引き取られた。」
その言葉を聞いた瞬間、平三の体から力が抜けた。耳鳴りがして、時継の声が遠のくように感じられた。信じられなかった。つい先ほどまで、若様の声を耳にしていたのだ。彼が共に舞を踊ったと確信していた。それなのに――。
「嘘だ……若様がそんなはずはない。きっとどこかで僕を見ている……!」
平三は叫ぶように呟きながら若宮の部屋へ駆け込んだ。

部屋の中は蝋燭の光に照らされ、穏やかな静寂が漂っていた。そこには、若宮が布団の上で静かに横たわっていた。その顔は穏やかで、まるで舞の成功を知って満足しているかのような表情を浮かべていた。
「若様…。」
平三はその手を握り、膝をついた。手の冷たさに、若宮がもうこの世にはいないという現実が突きつけられる。
「若様、僕は…あなたの代わりに舞いました。でも、まだ僕はあなたに追いついていない。」
涙が彼の頬を伝い落ちた。若宮に伝えたかった言葉が喉を塞ぎ、胸を締め付けていた。嗚咽が体全体を震わせ、呼吸が浅くなり、胸が押し潰されるような痛みに襲われた。顔は真っ青になり、胃がひっくり返るような感覚に耐えきれず、その場で嘔吐した。
「若様……!」
声にならない叫びと共に、平三は床に倒れ込んだ。その小さな体は力を失い、冷たい床に横たわったまま微動だにしなかった。
「平三!」
景実が駆け寄り、弟を抱き上げた。彼の体は驚くほど軽かった。景実の胸に、重い後悔が押し寄せた。
「こんな重い役目を…俺たちのせいだ…。」
景清も平三の顔を見つめながら低く呟いた。
「平三は……本当は繊細な子だったんだな。」
普段の威厳ある父親の面影はなく、自らを責める後悔の色が濃かった。
「あいつがどれだけ優しく、繊細な心を抱えていたかに気づけなかった…。」
景実の拳が震えた。
「平三は、若宮のためにここまで自分を削ったのだ。あいつは…武士としての強さを持ちながら、誰よりも優しい心を持っていた。それが今……あいつをここまで苦しめるとは…。」
布団に寝かされた平三は、父と兄の声を静かに聞いていた。静かに目を開けた彼は、小さく息を吸い込み、そっと布団を出た。冷たい床に足をつけ、ふらつく体を支えながら部屋を抜け出す。蝋燭の光が揺れる中、部屋の隅に置かれていた若宮の装束を手に取った。平三は若宮の装束を手に取り、肩に掛けた。彼は静かに扉を開け、父と兄の会話が続いている部屋を後にした。二人に気づかれることなく、寒川の夜へと足を踏み出した。

冷たい夜風が頬を撫で、雪が静かに舞い降りていた。平三の足元には白い雪が積もり、月光がその上を優しく照らしていた。ふらふらとした足取りで歩きながら、平三は目指す場所を見つめていた。それは、若宮と共に何度も稽古をした舞殿だった。舞殿に着いた平三は、装束を抱えたまま中へ入った。満月の光が舞殿全体を包み込み、白銀の世界が広がっていた。板張りの床が冷たく輝き、静寂がその空間を支配していた。平三はゆっくりと舞殿の中央へ進むと、若宮との日々を思い返した。初めて舞を教わった日、何度も叱られた稽古の日々、そして褒められた時の嬉しさ――それらが鮮明に胸に浮かび上がり、涙がまた頬を伝った。
「若様…。」
その名を呟いた瞬間、微かな風が舞殿を通り抜けた。それは、まるで若宮がそこにいるかのような感覚を平三に与えた。平三は肩から装束をそっと下ろし、布を両手で丁寧に広げた。それは、若宮がいつも纏っていたものであり、二人が共に過ごした日々そのものを象徴していた。
「若様、ありがとうございました。」
彼は装束を舞殿の中央に静かに置いた。そして、稽古で使っていた道具を一つひとつ並べていった。それは、若宮との絆と、自分自身の子供時代の象徴でもあった。
「これで…僕は、あなたの舞を心に留めて、武士として生きます。」
平三の声は静かでありながら、確かな決意が込められていた。彼は拳をぎゅっと握りしめ、若宮の装束と道具に向かって深く一礼した。雪の中を歩く平三の背中は、もはや少年のものではなかった。彼は子供時代の記憶を舞殿に置き去りにし、新たな人生を歩む決意を胸に抱いていた。その背中には、これまで以上の強さと覚悟が宿っていた。

その年の暮れ、寒川の村に盗賊が現れた。盗賊たちは田畑を荒らし、村人を脅し、家畜や食糧を略奪していた。その報せを受けた景清は即座に討伐隊を編成し、家臣たちと共に寒川を守るために立ち上がった。
「平三、お前も来い。」
景清のその言葉に彼は震える手で太刀を握りしめ、討伐隊の列に加わった。討伐の場面は混乱そのものだった。盗賊たちは必死で抵抗し、討伐隊の太刀が次々と血を浴びた。冷たい冬の空気に、太刀が打ち合う音と叫び声が混じり合った。平三の目の前に、一人の盗賊が槍を構えて飛びかかってきた。
「死ね、小僧!」
叫び声とともに槍が迫る。平三は咄嗟に太刀を振り下ろした。刃が盗賊の肩口に深く食い込み、男は地面に崩れ落ちた。地に伏した盗賊の濁った目が平三を見つめたまま動かなくなる。
「これが…人を斬るということなのか。」
平三はその場に立ち尽くした。太刀を握る手は震え、指先には自分の血ではない冷たい液体が染み付いていた。その重みが、彼の心を追い詰めた。討伐は成功に終わり、盗賊たちは散り散りに逃げ去った。だが、人を切った感触が焼き付いて離れなかった。帰路につく馬上でも、彼は一言も発することができなかった。隣を歩いていた景実が、静かに声をかけた。
「平三、それでいいんだ。俺たちはこうやって武士になっていく。」
景実の言葉に平三は小さく頷いたものの、その心は重かった。舞殿で若宮と共に舞を踊った日々の記憶が、彼の胸に蘇っていた。あの清らかな祈りの舞を捧げた自分が、今や血に塗れた手を持つ者になってしまった――その思いが平三の心を深く締め付けた。

盗賊討伐から数日後、景実は神社の森の中であのときの山伏に再び出会った。山伏はまっすぐな目で景実を見据えてこう言った。
「どうだ、お前の心の声は聞こえたか?」
景実は沈黙を保ち、しばらくの間、何も答えられなかった。やがて、静かに口を開いた。
「弟があそこまで成長している。俺がこのまま武士を続けても、あいつに追いつくことはないだろう。」
その言葉には、自らの迷いと弟への期待が込められていた。山伏は頷きながら、低い声で答えた。
「伊豆山権現に来い。お前が求める平穏はそこにある。」
景実は帰宅すると、景清の前で深々と頭を下げた。
「父上、私は仏門に入る決意をしました。」
景実の言葉に景清は目を見開き、しばらく何も言えなかった。だが、その決意の強さを悟ると、静かに頷いた。翌朝、彼はそっと寒川を後にした。
「兄上……僕が、この家を守ります。」
平三は小さく呟きながら、去りゆく兄の背中を最後まで見つめていた。

元久2年(1192年)、正月。52歳の梶原景時は、寒川の館で静かに書簡に目を通していた。
「父上! 舞殿で『雪の貴公子』の舞があるんです! 一緒に行きましょう!」
現れたのは末子の九郎、景連だった。
「雪の貴公子…。」
その言葉が、遠い記憶を引き起こした。若宮の影武者として舞を踊ったあの日、自分が「平三」という少年として生きていた時代――清らかで儚い若宮、その舞と共に雪が降り始めた舞殿。景時は静かに微笑み、書簡を置いて立ち上がった。
「行こうか。」
舞殿に着くと、白い装束を纏った子供たちが神聖な空気の中に立ち並び、一人が舞台の中央で舞を踊り始めた。その滑らかで美しい動きは、若宮とともに舞殿で踊ったあの夜を彷彿とさせた。
「父上、あれが『雪の貴公子』です。」
九郎が小声で囁いた。
「雪の貴公子?」
「はい、昔、雪の中で舞を踊った貴公子の話です。神様に愛された少年と言われていますが、誰だったのかは分かっていないそうです。」
九郎の言葉を聞きながら、景時の心にはあの日の若宮の姿が浮かんでいた。美しい装束を纏い、気高く舞殿の中央に立った若宮――その姿は、まぎれもなく「雪の貴公子」そのものだった。舞を見つめる景時の胸には、少年時代の記憶が次々とよみがえった。
「あの日、わしは『平三』を捨てた。そして若宮の祈りを胸に、梶原景時として生きることを選んだ。」
舞殿を後にした景時は、ふと阿野全成と語り合った日のことが頭に浮かんだ。
「『悪禅師』殿、静殿の舞を覚えているか? 実は若い頃、俺も神前で舞を踊ったことがある。」
全成が目を見開いた表情を思い出し、景時は微かに笑みを浮かべた。
「笑うなよ、このわしが、だ。」
景時は雪が降る寒川の夜にその言葉をふと思い返し、微かに口元をほころばせた。
(了 作:伊東 聰)2025年正月4日初版

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