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阿野全成伝MAKINGその1「常盤御前と佐々木定綱──姉弟関係の謎に迫る」
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中世史を読み解く際、その時代の人物相関図はしばしば現代の我々にとって謎めいたものとして映る。特に、拙稿による「常盤御前が佐々木定綱の姉である」という設定は、歴史愛好者や研究者の間で議論を巻き起こす要素と考える。この物語を読み進める読者の多くも、「このような関係性は果たして史実と整合するのか?」と首をかしげることだろう。
平安末期から鎌倉初期にかけての社会背景を考えるにあたり、一族間の血縁関係は複雑極まりない。特に、河内源氏は、その存立基盤を京都の宮廷社会と地方豪族との二重構造に依拠していた。そのため、婚姻や養子縁組による関係構築が頻繁に行われていたことは周知の事実である。このような社会的背景を踏まえると、常盤御前が佐々木定綱の姉弟であるとする解釈は、物語として十分に成り立つ可能性を秘めている。
実際に、佐々木定綱が大泉寺開基である可能性を示す彼の戒名と吾妻鏡をはじめとする資料には、宇多源氏佐々木氏との関係性が反映されている。系図では残念ながら佐々木氏の記録は男子のみが多いが、1名の女子を記録している系図もある。これが常盤御前ではないかと想像することはできる。常盤御前は平治の乱(1159年)には22歳とされているため1137年生まれ、佐々木定綱は1142年、佐々木秀義の長子、母は源為義の娘?ということになる。
一方、史料上では検証に耐える明確な証拠が乏しいため、これを歴史的事実として断定することはできない。しかしながら、当時の家族構造や社会的通念を考慮すれば、この設定が生み出す物語的な説得力を否定することは難しい。
読者諸氏においては、これを「歴史の可能性」として捉え、物語の舞台をさらに味わい深く楽しんでいただきたいと思う。本作が描く常盤御前と佐々木定綱の絆は、ただの創作を超えた中世日本の一断面として、我々に新たな考察を促してくれるだろう。
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昭和6年の資料と阿野全成の母
昭和6年9月30日に編纂された「旧村地誌二」に登録されている「浮島尋常高等小学校」の記録によれば、阿野全成(幼名・今若丸)の母親について注目すべき記述が見られる。彼の母は「宇多源氏の娘」とされており、「大和国の住人宇多左衛門尉源某の女で、九条院の雑仕常盤」と記録されている。この伝承は、平安末期から鎌倉初期にかけての源氏一族の複雑な血脈を読み解く上で重要な鍵を握る。宇多源氏といえば、その血統は鎌倉時代の政治や武士階級の構築に深く影響を与えた。
その候補は二つ考えられる。一つは、佐々木四兄弟で知られる佐々木家。そしてもう一つは、北条義時の代わりに三代将軍源実朝とともに公暁に討たれた源仲章である。この二つの家系のうち、どちらが常盤御前の出自である可能性が高いのかを探るために吾妻鏡を読むと、佐々木家との「ただならぬ関係」に目が向かざるを得ない。
この口承伝承には間違いもあるが、「左衛門尉」は佐々木定綱の役職である。
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1 阿野法橋全成
全成は当村井出大泉寺の開基である、幼名は今若丸といひ左馬頭 源義朝の七男である、母は大和国の住人宇多左衛門尉源某の女九 条院の雑仕常磐といひ仁平三年三月七日に生る、少きより醍醐寺 に入り出家し禅師公全済といった性悍人と呼んで醍醐の悪禅師 といつた、兄頼朝の兵を挙ぐるや起つて之に応じた、功あり後当 国に下り阿野庄井出に居り一庵を創建して祖先の霊を安んじた、 後之を大泉寺といつた、駿河の阿閣築といひ後法橋に転じ全成と 改めた、右大臣実朝夢去するや謀反を企て事頭はれて建治三年五 月武田五郎信光のために虜はれ常陸国に配されしが同年六月八日 右衛門知家のために下野国にて誅された時に年四十九才、其墓所 は子時元と共に大泉寺後方にある。
「右大臣実朝夢去するや謀反を企て事頭はれて建治三年」は
「右大臣頼朝夢去するや謀反を企て事頭はれて建仁三年」の間違い
箱根山中での行動
吾妻鏡を読み解く中で、最も注目すべきは治承4年(1180年)における阿野全成と佐々木定綱の行動である。この年、頼朝が石橋山の戦いで敗北し、箱根山中を抜けて安房へと逃れる過程において、全成と定綱が重要な役割を果たしている。吾妻鏡を紐解くと、治承4年(1180年)8月26日、源頼朝が石橋山の戦いで敗北し、箱根山中を彷徨う中で、阿野全成と佐々木定綱が頼朝と出会い合流したことが記されている。この出来事は、全成と定綱が頼朝の再起を支えた重要な場面として特筆される。この箱根山中での一幕は、頼朝がその後再起を果たす基盤を作る上で極めて重要であった。実はここ語られる阿野全成と佐々木定綱の関係には以前から疑問を持っていた。例えばオープンしたてのディズニーランドで同級生と出会う展開は考えられるが、現実的には見知らぬ他人が偶然出会い、実は頼朝関係者であったという展開は確率的に非常に少ない。あらかじめ準備されていた行動と考える方が自然である。それが可能な関係性、吾妻鏡の記事からは、全成と定綱が単なる家臣以上の信頼関係で結ばれていたことが読み取れる。彼らの行動がなければ、頼朝の幕府樹立という未来もまた違ったものになっていたかもしれない。
この記述の重要性は、阿野全成の子頼全に関連する後年の出来事にもつながる。吾妻鏡建仁3年(1203年)7月25日条によると頼全が7月16日に京都で誅殺された際、佐々木定綱がその実行者として記録されているが、吾妻鏡における「阿野三郎入道」の登場は、頼全が実は密かに生存していたのではないかという解釈を可能にしている。
「源」の姓をめぐる謎
さらに、吾妻鏡建久4年(1193年)8月2日の条には、源範頼が「源」の姓を用いたことを頼朝が咎めた記述がある。範頼が頼朝への忠誠を誓う起請文を提出する際、「源範頼」と記したことが「僭越である」とされ、頼朝に問題視されたという。一方、義経が「源」の姓を名乗ることに関しては咎めがなかった点は興味深い。
ここで一つの仮説が浮かぶ。それは、義経が「ダブル源氏」、すなわち常盤御前自身が源氏の出身である可能性だ。もし常盤御前が宇多源氏の血筋を引いていたとすれば、義経は父の河内源氏と母の宇多源氏の血を受け継いでいたことになる。この場合、義経が「源」を名乗る正当性が説明され、範頼との違いも納得できる。
佐々木定綱と大泉寺
最後に、阿野館こと大泉寺に注目したい。本来であれば、佐々木家を調べることでこの点に気付くべきであったが、佐々木定綱の戒名は「大泉寺秀山」である。阿野全成の開基とされる大泉寺には興味深い繋がりがある可能性が高い。大泉寺が創建されたのは1200年、頼朝が亡くなった翌年であり、この寺の名称が定綱の寄進や関与によるものである可能性が高い。阿野全成単体でも開基になれるが、阿野全成が開山で佐々木定綱が開基であるとすると、単純に源氏を祀る寺ではなく、当初は常盤御前および宇多源氏を祀る寺として始まった可能性もある。
戒名に寺院名が含まれる例として、北条重時の戒名「極楽寺殿」が挙げられる。重時は鎌倉極楽寺の開基として知られ、その戒名にも寺院名が冠されている。このように、戒名に寺院名を含めることは、故人と寺院との深い関係性や、故人の信仰心、寺院の建立・支援などを示すものとして、中世以降の日本において一般的な慣習となっていた。
北条重時は、鎌倉時代の北条氏の有力な人物で、鎌倉極楽寺を創建したことで、寺院と強い結びつきを持っていた。そのため、彼の戒名にも「極楽寺殿」という寺院名が冠され、その生前の活動が後世に伝えられている。このような戒名は、単に宗教的な意味合いだけでなく、政治的・社会的な影響力を示す一つの象徴ともなっていた。
常盤御前と佐々木定綱の姉弟説
以上を考えると佐々木定綱と大泉寺との強い関わりが示唆するように、常盤御前と定綱が姉弟であるという仮説が強まる。定綱の戒名に「大泉寺」の名が含まれていることは、甥である阿野全成を通して常盤御前との結びつきを示す証拠となるだろう。また、常盤御前の母が河内源氏の出身であれば、彼女と定綱の関係は、源氏一族としての結びつきがさらに強化される形であったに違いない。
さらに、常盤御前と佐々木定綱が姉弟であるという仮説を支えるもう一つの根拠は、源氏の一族が婚姻を通じて緊密な関係を築くことが一般的であったという点にある。常盤御前が源義朝の寵愛を受けた側室であったことから、彼女が佐々木家との深い結びつきがあった可能性は高い。
結論
常盤御前と佐々木定綱が姉弟であるという仮説は、単なる創作の枠を超えて、当時の源氏一族の血統や家族間の結びつきを反映した物語として十分に成り立つものである。大泉寺の建立とその戒名に込められた意味を考察することで、二人の関係はより深い理解を得ることができるだろう。この仮説が正しいならば、常盤御前と佐々木定綱の絆は、彼らが属した源氏一族の歴史においても重要な位置を占めることとなる。
以上は、筆者の執筆の過程で得られた舞台設定である。しかし、物語が真実を発掘することはよくある。今後もそのような発見を楽しみにしている。
(了 作:伊東 聰、2025年1月13日月曜日祝日)