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阿野全成伝 第一章第一話:悪禅師の素顔
第1章「醍醐の萩花、悪禅師参上」全10回
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元暦元年(1184年)秋。木曽義仲が京で朝廷と対立し、頼朝がその同盟を断ち切った頃、東国では新たな勢力争いが巻き起ころうとしていた。対するは甲斐源氏である武田信義。駿河国に位置する清見関は、東海道を通る交通の要衝であり、伊豆鎌倉に向かってこの関を越えた者は、必ず富士川以東の浮島沼と富士の山を目にする。そしてその向こうに広がる阿野荘の地へと足を踏み入れることになる。阿野荘を治めるのは源頼朝の弟、阿野全成。彼の存在がこの地をさらなる緊張へと導いていた。秋の澄んだ空気の中、清見関を越え、山間の道を進む太郎冠者と次郎冠者がいた。表向きは武田の使者、実は武田の間者でもある。
「武田殿もこの阿野荘にはご執心のようだな。」
太郎冠者が前を歩きながら言う。
「無理もない。このあたりは湿地も多いが、それだけ水運も整い、戦に備えるには格好の場所だ。一度は武田の土地だった。」
次郎冠者は頷きながら周囲の景色を見渡した。
「だからこそ、頼朝公が奪い、弟に下げ渡した。何しろ、阿野全成といえば京では『悪禅師』として高名な人物だ。」
「実際に富士川の戦いは…武田殿ではなく…。いや、今はやめとこう。」
二人はそんな会話を交わしながら、山道を抜けて阿野荘へと足を進めていった。遠くには田畑が広がり、その先に富士川が見える。
「浮島沼だ。水鳥が群れを成して飛び交っている。もう少し行けば市だ。清見の市より小さいが、多くの人やものが集まっているらしい。」
太郎冠者が遠くの水面を指さしながら言った。
「風が心地よいな。遠くに見える富士の山影が美しい。あの市ではどんな品が並ぶのか、少し気になる。」
湖畔の市に足を踏み入れた太郎冠者と次郎冠者。浮島沼に浮かぶ水鳥の羽ばたきが風に混じり、岸辺には農作物を並べた露店が連なっている。商人や旅人が行き交う中、二人の目に留まったのは、一人の人物だった。頭に布を巻き、観音像のように静かに立っている。肩口に流れる黒髪が揺れるたび、光を受けて艶やかに輝いていた。その人物は物静かに佇み、遠く三島の方角、伊豆半島を見つめている。
「見ろ、次郎。あの女、ただ者ではなさそうだ。」
太郎冠者が興味津々の目で指さした。
「おい、太郎。妙なことはやめておけ。ここは悪禅師殿の地、問題をおこせば…いや、考えたくもない。」
次郎冠者が眉をひそめたが、太郎冠者は意にも介さず近づいた。
「奥方、お一人とは寂しくありませんか?」
太郎冠者は笑顔を浮かべ、軽い調子で声をかける。女性は一瞬、太郎冠者を見つめると、布の奥から微笑みを覗かせた。その笑みは柔らかだが、目元には冷ややかさがあった。
「市を眺めていただけです。この市も京の影響を受けていますね。」
女性は髪をそっと押さえながら答えた。
「何か召し上がりませんか?京の品もあるようです。」
女性は微笑んだが、その奥にはなお冷たい光が宿っていた。
「いえ、これから阿野館に戻ります。あなた方も阿野館に向かうのでしょう?」
太郎冠者は一瞬戸惑ったが、得意げに次郎を振り返った。
「聞いたか、次郎。これはいい兆しだ。」
次郎冠者は苦笑し、女性の道案内に従うほかなかった。
案内されるままに辿り着いた阿野館。浮島沼を見下ろす広々とした庭園を抜け、しばらく待たされたあと、二人が通されたのは奥の大広間だった。上段には一人の男が座していた。墨染めの衣をまとい、片膝を立ててくつろぐ姿には、どこか粋な風情があった。指先で茶碗を軽く転がしながら、二人から受領した書簡に目を通しつつ、頭巾の奥から鋭い目で二人を見据える。その仕草から、ただ者ではないことがうかがえた。隣には小姓らしき若者が控えていた。主の少し崩れた笑みに合わせて口元に微かに笑みを浮かべたが、すぐに目を伏せて無表情を装った。その視線は、主の動きを細部まで観察しているようだった。彼の存在が、二人にさらに無言の圧を加えたように感じられた。
「武田殿も、京での動きが気になって仕方ないのだろう。」
男は薄く笑みを浮かべ、頭巾をぬぎ、顔を拭うとその素顔をあらわにした。
「ようこそ、阿野館へ。わしが阿野全成だ。」
その声に太郎冠者と次郎冠者は息を呑み、同時に全身が強張った。目の前の男は、先ほど市で出会った女性と同じ髪、同じ鋭い目を持つが…いや、その女そのものだ。本人だ。今やその威圧感と笑みの裏に隠された冷たさが、二人を凍りつかせた。
「あなた様が…あの!」
墨染めの衣を纏った男が胸元に流れる黒髪は、わずかに揺れるたび浮島沼の光を受けて静かに輝いていた。その動きは落ち着きと余裕があり、鋭い目元は全体を見渡しながらも、冷静さと威厳を漂わせていた。驚きの表情を浮かべる二人に、全成は微笑みを浮かべながら続けた。
「遠路はるばるご苦労だった。今宵はここでゆっくり休むとよい。」
その言葉を聞いても、二人の緊張は解けなかった。太郎冠者は思わず次郎冠者の袖を引っ張り、小声で囁いた。
「こ、ここで俺たち…解体されるんじゃないか?」
次郎冠者も青ざめた顔で答える。
「静かにしろ!そんなことを言ったら本当に…。」
すると、部屋の奥から一人の女性が現れた。甘ったるい声と柔らかな物腰で、その場を包む空気を変えた。
「全成殿、またいたずらをして客人を怖がらせたのね。」
それは全成の妻である保(たもつ)だった。のちの阿波局である。彼女の言葉に、全成は肩をすくめて微笑みを浮かべた。
「悪かったな、ちょっとした遊び心だ。」
保は二人に向き直り、優しい声で言った。
「とって食べたりするようなことはないから、今夜はとまっていきなさいな。この人いつも悪ふざけがすぎるのです。渡邊殿、客人を案内してください。」
渡邊と呼ばれた小姓が一歩前に進み、その端正な顔立ちに凛とした雰囲気を纏いながら深く頭を下げた。
「かしこまりました。」
渡邊は長身で引き締まった体躯を持ち、その動きは無駄がなく洗練されていた。墨染めの衣ではあるが、小さな刺繍がいくつか施されており、控えめながらも品格を漂わせている。彼もまた鋭い目線と落ち着いた表情で、一目でただ者ではないことを感じさせる。
「どうぞ安心してください。」
保がほほ笑む。
「せっかくの遠路だ、実はいつも小さな宴を用意してある。ほかの客人とも語らうがよい。この地のうまいもの食えるぞ。」
全成の声は穏やかだったが、その目笑うことはなく、計り知れない威厳が宿っていた。
駿河湾の海の幸、愛鷹山の山の幸。豪華な料理が並ぶ部屋に案内された太郎冠者と次郎冠者は、その美味しそうな匂いに警戒心を忘れかけていた。この館は東国と西国をつなぐ旅人が多いのだろう、その時にいあわせた人々で席を同じくし、食をともにする。そして情報交換をする。その会話に耳を傾ける全成が軽く杯を掲げる。
「皆、楽しんでいるようだな。しかし——」
突然、全成の目が鋭く光ると、にぎやかだった部屋が一瞬で静かになり、緊張感に包まれた。
「この中に、わしの目を欺こうとする者がいるようだ。」
その言葉にざわめきが広がる中、奥の座敷から不穏な男たちが現れ、宴席にいた悪党たちが次々と立ち上がった。太郎冠者と次郎冠者は顔面蒼白になり、身動きが取れない。
「な、なんだこれは!」
太郎冠者が声を上げた。全成は腰に手を当て、にやりと笑って立ち上がる。
「悪禅師と呼ばれたわしを相手に、謀略を仕掛けようとするとは。愚かな。」
彼は床の間から一本の長い杖を取り出すと、勢いよく振り下ろした。瞬間、男たちは一網打尽にされ、次々とその場に崩れ落ちた。周囲には全成の威圧感が充満し、その後誰一人として逆らう者はいなかった。
「これが、この地を乱す者たちへの罰だ。わしが治める地だ。法はわし、わしが正す。」
その光景に、太郎冠者と次郎冠者は震えながら座り込んでいた。
「さてと、不埒ものもいなくなったゆえ、引き続き宴を楽しんでくれ。」
倒れた男たちが宴席から運び出されたあと、観音様もかくありなんと思わせるほど、全成は妖艶な微笑みを浮かべた。
翌朝、昨夜の恐怖を引きずりながらもなんとか寝られた太郎冠者と次郎冠者は、朝の光に誘われ、館の縁側から外を見下ろした。
「何だ、あれは…?」
街道沿いの浮島沼の奥に目を凝らすと、串刺しに見える何本もの杭が立ち並び、その先端に吊るされた布が風に揺れていた。それは人の形を模しているかのようで、影が長く引き伸ばされて不気味な光景を作り出していた。太郎冠者と次郎冠者は全身が震え、息を呑んだ。
「まさか、昨夜の悪党どもの末路がこれか…?」
次郎冠者が青ざめた顔で呟いた。
「お、俺たちも、ああなっていたかもしれない…ということ?」
太郎冠者が震える声で答えた。その時、背後から全成の静かな声が響いた。
「どうだ、この光景を見て、何を思う?」
背後から全成が現れると、二人は振り返った。全成は小さな包みを差し出しながら、にこりと、しかし冷静な声で言った。
「もう出立するのだろう。途中で食え。手土産だ。おいしいぞ。」
包みを受け取った二人は、礼もそこそこに館を飛び出した。街道を進む途中、浮島沼に並ぶ杭の影が長く伸び、揺れる布が人の形に見えた。その光景に、二人は息を呑み、震えながら足を速めた。処刑場のように感じたその情景は、二人の心に深く刻み込まれた。
「昨夜の…悪党どもの末路だというのか…。」
次郎冠者が声を震わせた。館を出て秋の風を浴びながらも、二人の頭には浮島沼に揺れる影の光景が焼き付いていた。
「ここは、俺たちがいるべき場所じゃない!」
「まったくだ、甲斐に帰るぞ!」
二人は脱兎のごとく全速力で街道を進み、振り返ることなく阿野の地を後にした。
あの市のはずれ、湖畔にある宿「瑞端(みつはし)」。ここは旅の芸能者や修験者がしばし足を休め、簡素な酒と肴ともに芸能者や修験者たちが旅の話を交わす、そんな宿だった。一人の『女』が全成の前にひざまずいていた。
「持者(ぢしゃ)たちへの御慈悲、一同感謝しております。」
彼女は大松(おおまつ)と名乗り、低く通る声で続けた。この宿の主人らしい。その堂々たる体躯と落ち着いた佇まいが目を引く。広い肩と豊満な巨躯はすでに場を圧し、結い上げたたっぷりとした黒髪の整った姿と、ゆったりとした仕草からは堂々たる包容力が滲み出ていた。
「持者とは、元の性を離れ、己が願う姿を生きる者たちにございます。市では占いや祈祷、芸能を生業としてその地位を築きますが、世の偏見や差別の中で命を縮めることも少なくありませぬ。先夜、命を落としたあの者も、まさにその犠牲にございます。」
「仇の悪党どもは昨夜成敗されましたが、これで終わりではありますまい。」
全成は静かに頷いた。
「持者たちは野に咲く花だ。花ですらないと蔑む者もおろう。その命を無碍にする者を見逃せば、やがて大きな災いとなる。その災いはこの阿野荘全体、いや、日の本四海の世そのものを脅かすであろう。」
その声は低く静かでありながら、冷徹な鋭さを含んでいた。
「法をもって治めるのが我が務め。この地を乱す者を許せば、秩序は保たれぬ。」
全成は一度視線を落とし、深い沈黙を挟んでから、再び話し始めた。
「だが、この阿野荘に平穏をもたらすのは、わし一人の力では叶わぬ。そなたたち持者たちも、知恵と誇りをもって共に秩序を築いてほしい。」
彼はゆっくりと立ち上がり、鋭い眼差しを外の景色へと向けた。
「わしは『悪禅師』と呼ばれる男だ。善には仏の教えを、悪には断固たる裁きを。この地を乱す者がいれば、わしは必ず正す。」
「全成殿、われら持者の尊厳をお守りいただいたこと、心より御礼申し上げます。」
「この地を訪れる者たちに、この阿野荘が秩序と平穏を守り抜く地であると、そなたたちが示してくれ。」
「禅師公殿よ。やりすぎではないか?あの島は風葬の地だろう。ただの墓場、ただの墓標だ。なのにとんでもない噂が広まっているぞ。」
阿野館の縁側にて、阿野全成と梶原景時は並んで月を眺めながら酒を酌み交わしていた。涼やかな秋風が吹き抜け、浮島沼に浮かぶ島々が幽かに白く光っている。全成は笑みを浮かべつつ、杯を持つ手を緩めた。
「とんでもない噂、とは?」
「『悪禅師殿』がその法力で駿河の風と浮島の幽鬼どもをあやつって阿野の地を支配していると。」
ははは、と母常盤御前譲りの美貌に似合わぬ表情で豪快に全成は笑う。
「噂とは面白いものでな。真実が半分も混じれば十分だ。それで敵が近寄らぬなら、それに越したことはない。」
景時は頷きつつ、遠くの浮島沼を見据えた。
「処刑場、悪禅師、風葬の地――すべてがこの荘を囲む砦となっておるな。守りを固めるには妙手だ。」
「恐れる者には恐れを。敬う者には敬いを。それだけだ。」
全成の言葉にはいつもどこか冷徹さが混じる。
「阿野全成――いや、『悪禅師』か。この地を危険な場所とする噂を自ら広めることで、近寄る者を遠ざけているのだな。」
「わしは何もしておらぬよ…ま、心にやましいことがあれば、心のままにみえる。なければ…そういうことさ。」
景時は笑みを浮かべ、盃を傾けた。月の光が二人の影を長く引き伸ばし、静寂の中に次なる動乱の気配を漂わせていた。
「全成殿、その才覚、いずれ御所様にも響くだろう。」
景時の口元の薄い笑みが消える。彼は盃を静かに置きながら口を開いた。
「禅師公殿、わかっておろうな。」
景時は鋭い目で全成を睨みつけ、その声には容赦ない威圧がにじんでいた。全成は冷静に月を見上げ、笑みを浮かべた。
「なにか問題でも?」
景時は眉を寄せながら表情を崩さず、遠く浮島沼を見つめた。
「敵ばかりか、味方も恐れを抱いておる、ということよ。だが、これも禅師公殿のやり方か。御所様に報告する際には、面白い話の一つとして付け加えさせてもらおうか。」
「処刑場、悪禅師の法力――そうした噂は、敵だけでなく味方にも警戒心を抱かせる、といいたいのだな。」
全成は盃を置き、月を仰ぎ見た。その目にはわずかな冷笑が浮かんでいる。
「噂が恐怖を生むのなら、それもまた一つの力だ。御所様のもとでこの地を守るためには、時に真実以上のものを広める必要もある。」
景時は静かに頷き、盃を傾けた。
「それで守れるものがあるのなら、構わぬ。しかし、禅師公殿よ、噂は時に刃となり、思わぬ方向に飛ぶものだ。それが御所様の元に届く時、どう響くか――その先を見据えておけ。」
全成は月の光を受けて輝く浮島沼を見つめ、静かに答えた。
「響かせるべきは、この地を守り抜くための覚悟。それだけだ。」
「阿野全成の才覚、しかと見させてもらおう。噂の裏に隠された真実が、鎌倉にも届く日が来るだろう。」
景時は盃を置き、月明かりに照らされた浮島沼を見据えた。
「明日は出立だ。平家追討のため、西国へ向かう。そなたの末弟の…あの若殿と共にな。」
「教育係、お目付け役と聞いております。」
全成は微笑を浮かべながら、盃を傾けた。
「少し彼と話したが、不安がある。心が重い。」
全成は静かに盃を傾ける。
「不安、ですか。」
全成はゆっくりと景時の顔を見据えた。
「だが、それは当たりかもしれぬ。わが弟は才に溢れておる。が、その刃がいずれ誰を切り裂くかも…な。」
一瞬の緊張が訪れた。その沈黙には、どこか冷たい静けさが漂っていた。全成は再び盃を取った。その手の動きは無駄がなく、儀式めいてさえ見えた。
「いずれにせよ、平三殿のお役目だ。」
「夜も更けた。月も見納めといたそう。」
景時は立ち上がり、んーと、伸びをする。
「禅師公殿も、そろそろ寝所へ。」
「平三殿、御助言、かたじけのう存じまする。」
全成は静かに盃を置き、景時が去った後も一人、縁側に残った。月明かりが浮島沼を照らし、浮島がぼんやりと浮かび上がる。
「この噂で、敵が足を止めるなら、それもよし。だが、守るためにわしは手段をえらばぬ。」
全成は静かに呟くと、再び盃を手に取り、月に向かって微かに掲げた。冷たい秋風が彼の袖を揺らし、胸元に流れる黒髪も風にそよぐ。浮島沼の静寂が夜を包み込む中、彼の目は遠くを見据えていた。
「阿野の地は、まさしく豊かで美しい。表向きはな。その美しさを守るためにどれほどの犠牲を払ってきたか、武田殿には分かるまい。」
ふふっと全成は笑った。
(了 作:伊東 聰、2025年1月5日日曜日)
<作者紹介>伊東聰
阿野全成を追いかけて32年。阿野館こと沼津市井出の大泉寺にて、2021年より原則土日祝日に観光ガイドを行っています。機会があればぜひ足をお運びください。
※不在の場合もありますので、確実にお会いしたい方は事前にご確認ください。※
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