梶原景時外伝 雪の貴公子 <前編>
久安7年(1151年)澄み渡る秋空の下、相模国・寒川では、黄金色の田が冷たい風に撫でられていた。この地を治める寒川宮司・時継の館では、主である時継が梶原景清を縁側に招き、穏やかに麦茶を酌み交わしていた。
「実りの季節だな。」
時継は遠くを眺めながら、静かに麦茶を口に運んだ。
「今年は稲の出来も上々です。だが、戦乱の噂が立てば民も不安を抱えるでしょう。」
景清は少し眉をひそめ、頷いた。
「確かに、近年は中央も騒がしい様子だ。藤原摂関家の影響力が弱まり、院の政の陰で何が起きているのか我々にはわからない。ただ、それがいずれ地方にも波及するのは避けられぬだろうな。」
時継は茶碗を置き、景清に目を向けた。
「相模の大庭三郎殿はどうしている?あの方なら、こうした情勢をどう見ているのか聞いてみたいものだ。」
景清は少し目を細め、茶碗を片手で回しながら答えた。三郎とは大庭景親のことである。
「三郎殿ですか。あの方は相変わらず冷静だ。先日も相模の様子を語りながら、『武士の役割はまず領地を守ること。中央の争いに巻き込まれるのは得策ではない』と言っておられた。」
時継は軽く頷き、微笑みを浮かべた。
「三郎殿らしい。中央に深入りするのではなく、まず足元を固めよと。そういうお考えが、あの方の冷静な強さの源なのだろう。」
景清は静かに頷いた。
「三郎殿は確かに頼りになるお方だ。我が家の平三も、あの方の教えを受けながら武士としての心得を学んでいる。」
「平三殿があの方に学んでいるのか。それは心強い。」
景清は小さく笑い、視線を舞殿の方に向けた。
「確かに、あの方の強さは見習うべきところが多い。ただ、あまりにも割り切りが良すぎて、情というものが感じられぬ時もある。」
時継はその言葉に少し考えるような表情を浮かべた。
「武士としての非情さは時に必要なものだが、そればかりでは民もついてこないだろうな。三郎殿ほどの方でも、民心を掴むためにどれほど努力されているのか、興味があるところだ。」
景清は頷きながら、舞殿の方を見やった。
「そうだな。三郎殿には非情さがあるが、それゆえに領地を守る力が強い。だが、あの冷静さを我が家に当てはめるのは難しい。」
そして、少し目を伏せるように言葉を続けた。
「うちの景実は優しすぎる。それが我が家の良さでもあるが、時にその優しさがこれからは武士の道にとって重荷になるのではないかと懸念している。」
時継は再び麦茶を口に運びながら、柔らかく微笑んだ。
「景実殿は、兄として弟たちをよくまとめておられると聞く。家督を支える立場として、その優しさは弟たちの誇りでもあるだろう。」
景清は少し間を置いてから頷いた。
「確かに、景実は弟たちには良い兄だ。平三は特に景実を慕っており、兄の姿を真似ることも多い。だが、それが家全体を背負う力になるかどうかは、まだわからぬ。」
時継は深く頷き、遠くの田んぼを眺めた。
「人の道は、時に予想しない方向へ向かうものだ。景実殿の優しさが、いずれ新しい力となる日が来るかもしれない。」
景清はその言葉に小さく頷き、再び舞殿の方に目をやった。
「さて、平三はどこだ?」
時継は微笑み、遠く舞殿の方から聞こえる笑い声に耳を澄ませた。
「どうやら神社の境内で舞を真似て遊んでいるようだ。無邪気なものだ。」
景清は深い溜息をつき、苦笑いを浮かべた。
「まったく…。三郎殿が見たら叱り飛ばされるところだ。」
その頃、兄・景実は寒川神社から七八町ほど離れた一之宮天満宮の厩でため息をついていた。
「また平三のやつ、どこへ行ったんだ。」
弟がどこかでまた悪さをしているのではないかと、心配半分、苛立ち半分の気持ちで足を踏み出した。神社へと向かった景実は、舞殿から聞こえてくる笑い声に気づき、眉をひそめた。
「まさか、また…。」
彼が声をかけようとしたその時、一人の少年が静かに舞殿へ歩み寄る姿が目に入った。
白い装束をまとったその少年――寒川宮司の息子である若宮だった。優雅な所作と涼しげな表情で、彼は舞殿に立つ平三たちを鋭い眼差しで見つめていた。
「若宮…。」
景実は息を飲み、その場で足を止めた。
「見てろよ、これが天女の舞ってやつだ!」
平三は、あめのうずめの舞を真似るような滑稽な動きで笑いを誘った。集まった若者たちは腹を抱えて笑うが、少年は表情を変えずその様子を遠くからじっと静かに見つめていた。そしてすっと歩み寄り、彼らの笑い声を遮った。
「君、その舞は何のつもりだ?」
若宮の冷たい声が響き渡り、平三はぎくりと振り向いた。
「べ、別に…ただの冗談だよ。そんなに怒ることないだろ。」
平三は戸惑いながら口ごもった。だが、若宮の鋭い眼差しに圧倒されて言葉を失った。
「これは神々に捧げる祈りの舞だ。それを冗談にするとは、君は神に対して無礼を働いている。」
若宮の言葉は冷ややかだったが、その瞳にはどこか期待するような光が宿っていた。
平三がたじろいでいると、若宮は口元を緩め、小さく笑った。
「だが、動き自体は悪くない。君、素質があるな。」
「…え?」
平三は驚いて顔を上げた。若宮は一歩近づくと、平三の肩に手を置いて言った。
「あめのうずめらしい動きだ。陽気さと柔らかさ、それに力強さも少し見える。だが、君には軸がない。だから滑稽に見えるんだ。」
そう言うと、若宮はスッと手を引き、表情をきりっと引き締めた。
「君が本当にこの舞を踊りたいなら、少しは真剣にやってみせろ。」
平三は若宮のきりりとした表情に一瞬圧倒されたが、同時に胸の奥が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、教えてくれるのか?」
平三は思わず口にした。若宮は少し驚いたような顔をしたが、やがて静かに頷いた。
「いいだろう。だが、神に捧げる舞だということを忘れるな。それができないなら、この場から立ち去れ。」
その場で平三は真剣に頭を下げた。若宮は満足そうに頷くと、舞殿に向かって歩き出した。
「ついてこい。君に、本当の舞を見せてやる。」
舞殿を見上げながら若宮の後ろについていく平三を、景実はその場でじっと見つめていた。
「平三…やはりお前は、俺の想像を超えるものを掴むのかもしれないな。」
兄の目には、弟への期待と複雑な感情が入り混じっていた。
境内の舞殿は、秋の日差しを受けて清らかに輝いていた。澄み渡る空気の中、若宮は静かに装束の裾を整え、舞殿の中央に立った。木々の間から差し込む陽光が、彼の白い衣を輝かせ、神々しい雰囲気を醸し出していた。
平三はその姿に圧倒され、思わず息を呑んだ。これまで若宮の舞を遠くから見たことはあったが、こうして目の前で見るのは初めてだった。
「よく見ていろ。」
若宮は振り返ると、目を閉じ、静かに動き始めた。その舞は、平三がこれまでに見たどんなものとも違っていた。一つ一つの動きに力強さがあり、同時に神聖な静けさを湛えていた。手を上げるその仕草ひとつひとつに、天と地を繋ぐ祈りの力が込められているようだった。舞殿全体が、彼の動きと共に呼吸しているように感じられる。
「すごい…」
平三は、思わず呟いた。
舞が終わり、若宮は彼の方を振り返り、微笑みを浮かべた。
「これが、神に捧げる舞だ。」
その言葉は静かだが、鋭い響きを伴っていた。
「お前があの舞を真似しているうちは、この域には到底届かない。」
若宮の言葉に、平三は反論することもできず、ただ頷いた。その厳しい言葉の奥に、彼を導こうとする優しさを感じ取ったからだ。
「俺にも、できるかな…」
平三は不安げな表情で呟いた。すると若宮は、彼に一歩近づき、真っ直ぐに目を見据えながら言った。
「できるかどうかではなく、やるんだ。舞は、己の心を捧げるものだ。お前がそれを覚悟するなら、必ずできる。」
平三はその言葉に力を得て、小さく頷いた。
その頃、景実は館を離れ、寒川神社の森の中を歩いていた。彼は梶原家の長兄として、弟たちを支える責任を果たしていたが、その胸には絶えず迷いが渦巻いていた。戦場での非情さを求められる一方、彼の優しさは、それを重荷と感じさせていた。
道中、彼は突然、奇妙な男に出会った。男は長い杖を手にし、粗末な衣を纏いながらも、風雪に鍛えられたような威厳を漂わせていた。
「お前…その器では武士には向かぬ。」
山伏は立ち止まり、景実を鋭い目で見据えながら、静かに言い放った。
「何を根拠にそんなことを言う。」
景実は思わず眉をひそめた。その男の目には、ただの放浪者にはない力が宿っていた。
「お前の目には迷いがある。その迷いでは、この先、血を浴びる戦場では心が耐えられまい。」
その言葉に景実は沈黙した。迷いを見透かされたことに驚くと同時に、その核心を突いた言葉が胸を締め付けた。
「俺は、家を支える兄だ。迷いがあろうとなかろうと、それが役目だ。」
景実は毅然と答えたが、胸の奥ではその言葉が虚ろに響いた。
山伏は静かに頷き、厳しい表情を崩さないまま言葉を続けた。
「伊豆山権現に来い。お前のような迷いを抱える者は、仏のもとでこそ道を見つけられる。」
「伊豆山…?」
その名を聞いた景実は、少しの間考え込んだが、やがて首を振った。
「いや、俺には弟たちがいる。平三の成長を見届けるまでは、そのような道を選ぶわけにはいかない。」
山伏は深い目で景実を見つめ、やがて静かに頷いた。
「それもまたお前の道だ。ただし、覚えておけ。己の心の声を無視すれば、いずれそれが刃となりお前を貫くことになる。」
そう言い残し、山伏は再び杖を突きながら静かに去っていった。
その夜、景実は館の庭で剣を磨いていた。夕闇の中、焚火の炎が剣身に反射し、彼の顔を照らしていた。剣を磨くその手には迷いがあり、彼の心が安らぐことはなかった。そこに、泥だらけの姿で平三が帰宅した。額には汗を光らせ、口元には満足げな笑みが浮かんでいる。
「兄上!今日は若様に褒められたんだ!」
平三は誇らしげに言った。その目は、まるで何かを成し遂げた少年のように輝いていた。景実は剣を置き、微笑みながら弟に目を向けた。
「そうか。それは良かったな。」
その言葉は短く、平静を装っていたが、胸の内では複雑な感情が渦巻いていた。弟の成長を喜びつつも、自分がどこに進むべきなのか、答えを見つけられないでいる自分がいたのだ。
正月の寒川には、白い雪が静かに降り積もり、田畑を覆っていた。その一方で、村々では不穏な噂が囁かれていた。疫病が流行している――高熱と赤い発疹を伴うはしかが、子供や若い者たちを次々と蝕んでいたのだ。
「また一人倒れたらしい。」
「疫病神が取り憑いているのではないか。」
村人たちの怯えた声は、冷たい風に乗って若宮の館にも届いていた。
その日、平三は稽古を終えた後、若宮を訪ねた。彼の家の様子がいつもと違うことに気付く。普段は活気に溢れている館が、どこか重苦しい沈黙に包まれていた。
「若…宮様は…いま、どうしている?」
平三が使用人に尋ねると、返ってきたのは沈痛な表情だった。
「若宮様はお休みになっております。」
「え、どういうこと?」
平三が詰め寄ると、一人の侍女が小声で告げた。
「実は、若宮様が倒れられました…。」
その言葉に、平三は衝撃をうけ、信じられない思いで若宮の部屋に駆け込むと、そこには高熱に苦しむ若宮の姿があった。
「若様!」
平三の叫び声に、若宮は微かに目を開けた。普段の威厳に満ちた面影は消え、呼吸も浅かった。それでも、その瞳にはまだ力が宿っていた。
「平三…来てくれたのか。」
かすれた声で若宮が言うと、平三はその枕元に跪いた。
「若宮様、何があったんですか?どうして…。」
若宮はわずかに微笑み、震える声で答えた。
「どうやら、この身体も限界らしい。」
「そんな…若宮様がこんなことで倒れるなんて!」
平三は声を荒げたが、若宮は静かに首を振った。
「命ある者に限りはある。それを受け入れるのも、一族を背負う者の務めだ。」
その言葉に、平三は涙を堪えた。目の前にいる若宮がすでに自らの死を受け入れていることが、胸を締め付けた。
若宮が病に倒れたことで、彼の家には重苦しい空気が漂っていた。若宮の父・時継は、深い皺を刻んだ額を押さえ、頭を抱えていた。
「神事の舞は、家運を左右する重要な役目だ。若宮以外に舞を務められる者などおらぬ。」
しかし、若宮の病状は深刻だった。高熱に苦しみ、床に伏している若宮の姿を見るたびに、時継の胸は締め付けられるようだった。何より、目前に迫った神事で若宮が舞を披露できなければ、一族の名誉に大きな傷がつく。それだけではない――この隙を狙ってライバル家である祢宜家(ねぎけ)が何か仕掛けてくることも懸念されていた。
その頃、寒川のもう一つの有力な家である祢宜家では、当主の祢宜久雅(ねぎ ひさまさ)が冷笑を浮かべながら家臣たちに指示を出していた。
「若宮が倒れたという噂は本当か?」
「はい。あの家の神事は、若宮以外に務まる者はおらぬと聞いております。」
久雅は、酒を注がせながら薄く笑みを浮かべた。
「ならば、こちらでその隙を突くまでだ。我が家の者が代わりに舞を務めると申し出て、寒川の中心に座る日が近いな。」
「ですが、あの家が黙って従うでしょうか?」
「従うも何も、若宮が舞えなければ彼らに選択肢はない。」
その夜、時継は梶原景清を訪ねた。雪の降りしきる寒川の道を馬で進み、景清の館に辿り着いた時継の顔には深い憂いが浮かんでいた。
「景清殿、どうかお力をお貸しください。」
「どういうことだ?」
景清は時継の表情に尋常ではないものを感じ、静かに促した。時継は沈痛な面持ちで口を開いた。
「若宮が病に倒れ、舞を舞うことが叶わなくなりました。このことが祢宜家に知られれば、我が家の立場は失われるでしょう。」
「では、どうするつもりだ。」
景清の問いに、時継は覚悟を決めたように口を開いた。
「影武者を立てます。若宮と似た体格の者に舞を踊らせ、それを若宮が舞ったと見せかけるのです。」
景清は眉をひそめた。
「しかし、それでは神事の純粋性が損なわれるのではないか?」
「損なわれようとも、我が家を守らねばならない。それに、適任者がいるのです。」
時継の目が平三に向けられた。景清もそれに気付き、黙り込む。
「平三殿には、若宮と共に修練を積んだ実績がある。そして、その舞の素質は若宮と肩を並べるほどだと聞いております。」
時継の言葉に、景清は平三の方を向いた。
「平三、お前はどう思う?」
平三は、驚きで声も出なかった。自分が若宮の代わりに舞を踊るなど、想像もしていなかった。あの清らかで力強い舞を、自分の手で再現するなどできるはずがない――。そう思った瞬間、脳裏に若宮の言葉が浮かんだ。
「舞は、己の心を捧げるものだ。」
「君が覚悟するなら、必ずできる。」
その言葉が胸を突き、平三は静かに立ち上がった。震える声で口を開く。
「私に…できるでしょうか。」
時継が深々と頭を下げる。
「どうかお願いします。若宮の志を継ぐのは、君しかおらぬ。」
平三は一瞬息を飲み込んだが、拳を握りしめ、深く頭を下げた。
「分かりました。僕が若宮様の代わりに舞います。」
平三の決意を受けて、時継と景清が安心した表情を見せる中、外には冷たい雪が降り続けていた。しかし、その影には祢宜家の密偵たちが暗躍し、若宮の館の様子を窺っていた。
「平三、お前に全てがかかっている。」
景清の言葉に、平三は拳を握りしめ、再び誓うように呟いた。
「若様、必ずや私が舞を成功させます。」
その時、館の遠くで低い鐘の音が響いた。平三はその音に背筋を伸ばし、覚悟をさらに固めた。
(了 作:伊東 聰)2025年正月3日初版