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阿野全成伝 第一章第3話:母にあずけた命

第1章「醍醐の萩花、悪禅師参上」全10回

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雪がやんだ。冷たい空気の中、常盤は三人の幼子——今若、乙若、牛若——を連れて、大和・宇陀への旅を続けていた。凍てつく道をしばらく歩くと、遠くから若者たちの楽しげな声が聞こえてきた。常盤は一瞬警戒しながらも、その声が聞こえる方へ足を向けた。若者たちは何人かで群れをなし、焚き火を囲んで笑い合っていた。その中で、ひときわ陽気な男が常盤に気づき、にやりと笑いながら近づいてきた。
「こんな寒い中、どこへ向かうんだい? 姉さん?」
常盤は子どもたちを守るようにさりげなく立ち位置を調整し、静かに答えた。
「宇陀の方へ向かっておりますが、この辺りの道に不案内でして。」
男はにやにやと笑みを浮かべながら、
「宇陀だって? 誰のところだ?」
と軽い口調で尋ねた。
「何も怖い顔をすることはないさ。俺たちは悪い者じゃないよ。」
そう言いながら男は焚き火のそばを指差し、
「さあ、ここで少し休んで温まっていきな。」
と続けた。
常盤は一瞬迷ったが、疲れ切った子どもたちの様子を見て、その言葉に従うことにした。焚き火のそばに腰を下ろすと、男は周囲の若者たちに軽く手を振り、温かな飲み物を持って来させた。
「坊やたち、寒かったろう? これでも飲んで元気を出しな。」
男は微笑みながら子どもたちに飲み物を差し出した。その仕草には、どこか人懐っこい親しみやすさがあった。
焚き火の明かりが男の顔をはっきりと照らし始めた頃、常盤がふと尋ねた。
「ところで、あなたは…」
男は少し間を置き、いたずらっぽく笑いながら答えた。
「俺かい? 俺は十郎。新宮十郎行家だ。頼政様のところでちょっとばかり働いてるんだよ。まあ、気軽に行家って呼んでくれや。」

屋敷の門をくぐると、一人の僧侶が立っていた。その姿を見た瞬間、常盤は目を見開き、驚きの声を上げた。
「お兄様…! 能恵兄上!」
そこに立っていたのは、常盤の異母兄であり、宇都宮を出て高野山で修行を続けていた僧侶・能恵だった。能恵は静かに微笑んで迎え入れた。
「常盤、よくここまで無事に。さぞや辛い旅路であっただろう。」
常盤は安堵しつつも、驚きの言葉を口にした。
「でも、兄上は高野山にいらっしゃるはずではありませんか?」
能恵は少し目を細め、囲炉裏の方を指差して促した。
「行家から聞いていないのか? 私は頼政様のご指示を受け、この宇陀を拠点として動いている。この地は、高野山と熊野を結ぶ要所に位置し、興福寺や熊野別当家の助力を得て、多くの者を導く役割を担っているのだ。」
常盤は驚きながら尋ねた。
「熊野別当の方々まで、この動きに関わっておられるのですか?」
すると、行家が焚き火に薪をくべながら、にやりと笑った。
「その通りさ。この宇陀はただの山間の地じゃない。高野山や興福寺、熊野三山に繋がるこの地は、山と海、そして都を結ぶ要所だ。そして、俺の姉が熊野別当家と深く関わっているおかげで、こうして俺たち源氏も支えられている。」
「宇陀は南都、つまり奈良の外れに位置している。南都といえば興福寺や東大寺のような大寺院が力を持つが、周囲の山間部には、修験者たちや物流の要所が点在している。この宇陀を押さえる者は、都と山、そして熊野を繋ぐ力を手にすることになるのさ。」
能恵が静かにうなずき、補足した。
「南都の大寺院の力は武士にも劣らない。それゆえ、熊野別当や興福寺との縁は、一族を守るために重要なものとなった。我らがこうして繋がりを持ち続けられるのは、源氏の長い歴史の中で培われた信頼があるからだ。それが、今もこうしてお前たちを守っている。」
行家は少し笑みを浮かべて言った。
「そして俺の姉が熊野で力を持っているからこそ、俺も動ける。そしてその力が、俺たち河内源氏を繋ぎ、支えているんだ。」
今若が問いかけた。
「行家殿、どうして天狗さんの格好をしているのでございますか?」
「天狗さん…。」 
どこかいたずらっぽい表情を浮かべている行家は長い黒髪を束ねた姿に、頭に頭襟をつけ、柿渋の装いには数珠をはじめ、護符や鈴が揺れている。
「まあ、そう見えなくもないが、これは山伏の装束だ。これを着ていると、どんな山の中でも動きやすいし、どこの村でも怪しまれずに入れるんだよ。」
今若は興味津々といった様子で尋ねた。
「では、天狗さんは実際にいるのですか?」
行家はわざとらしい口調で言った。
「おいおい、そんな野暮なことを聞くなよ! 天狗ってのは、山で妙なことが起きたときに作られる噂話さ。たとえば、俺みたいな山伏が山中を素早く移動するのを見たら、『あれは天狗だ!』って騒ぎになる。つまり、天狗ってのは俺たち山伏のことなんだよ。」
「では、行家殿は天狗さんのように空を飛べるのですか?」
行家は一瞬真剣な顔をしてから、突然吹き出した。
「おいおい、俺が空を飛べたらこんなところで囲炉裏に当たってるわけがないだろう! 飛べるのはせいぜい、危ない崖を飛び越えるくらいのものさ。」
「行家、あまり子どもたちをからかうものではないぞ。」
能恵が微笑みながら口を開いた。行家は肩をすくめて言った。
「まあまあ、こうやって子どもたちに夢を見させるのも俺の役目だろう? それに、山伏が天狗みたいに見えるのは、悪いことじゃない。時に人を怖がらせ、時に憧れを抱かせる。それが山伏というものさ。」
焚き火の光を受けながら、行家は一瞬真剣な顔をして答えた。
「飛べるかもしれないな。」
今若が驚きの表情を浮かべる中、行家は続けた。
「だが、それは単に空を飛ぶということではない。我々源氏の武者修行には、自然と共に生き、自然から理を学ぶ教えがある。例えば、風の流れを読み、その流れに乗るように動けば、戦場では風そのもののような動きができる。」
能恵が静かにうなずき、言葉を添えた。
「源氏の子らは、母が違えども一族の誇りを守るために同じように育てられる。山伏や修行僧たちが各地子供たちのところを巡り、自然の理を教え、心と力を鍛えるのだ。」
行家は焚き火に薪をくべながら微笑んだ。
「天狗ってのは、山伏が山中で動き回る姿を見て生まれた話さ。俺たちは山そのものになり、風の気を取り込む。ただし、覚えておけ、これらの技は心が澄み、己を無にしてこそ真の力となる。」
今若は目を輝かせ、その様子を見た行家は笑いながら言った。
「まあ、お前もいずれ、その意味が分かる時が来るだろう。」
その時、奥の間から足音が聞こえてきた。静かだが威厳を感じさせるその足取りに、居合わせた人々が一斉に頭を下げる。現れたのは、この屋敷の主である源頼政だった。
「これは常盤殿、よくぞここまで無事にたどり着かれた。」
頼政は穏やかながらも力強い声でそう言うと、囲炉裏のそばに腰を下ろし、子どもたちに優しい笑顔を向けた。その夜、囲炉裏を囲んだ席で、頼政と能恵、行家が交わす話を聞きながら、常盤は自分が背負う命の重みを改めて感じながら、子どもたちの寝顔にそっと目をやった。

宇陀の山々に囲まれた頼政の邸宅での日々は、常盤とその子どもたちにとって束の間の安息をもたらしていた。焚き火を囲み、頼政やその仲間とともに語り合う穏やかな時間が流れていた。しかし、その平穏は突然破られることとなる。その夜、頼政が深刻な表情で常盤の前に現れた。その緊迫感に常盤の心は凍りついた。
「常盤殿、聞いてほしい。」
頼政の低く重い声が夜の静けさを切り裂く。
「お母上、関屋殿が平氏の手に落ちた。」
「母上が…?」
声にならない声を絞り出す。
「だが、それだけではない。悪源太義平が…1月19日、六条河原で処刑された。最後まで『斬り損ねたら喰らいつく』と抵抗した。」
「そして…美濃の青墓で捕らえられた頼朝様も…。命が助かる保証はどこにもない。それから…駿河国香貫荘に匿われていた源五修羅丸も、1月25日、母方の叔父・藤原範忠により朝廷に差し出された。」
頼政は常盤の表情を見つめ、言葉を選びながら続けた。
「四郎義門の行方も未だ知れぬ。そして、頼朝の姉、坊門姫はすでに一条能保の妻であるが、夫婦ともに都で匿われている。彼らも、その安全が長く続くとは思えぬ。」
「頼政殿、清盛様のところへまいります…」
その場にいた行家が、軽い口調で割り込んだ。
「姉さん、俺が何とかする。清盛なんぞ、俺の口先でうまく丸め込んでやるさ。」
しかし、能惠が厳しい表情でそれを制した。
「行家、冗談はやめろ。清盛相手に軽率な行動をとれば、かえって事態を悪化させるだけだ。」
その時、今若が突然声を上げた。
「お母様、僕たちは死ぬのですか?」
その言葉には恐怖と困惑が滲んでいた。
常盤は今若の目線にしゃがむと、手を取り目をみつめていった。
「今若よくお聞き。もし私が行かぬとすれば、すべてが絶たれてしまう。母の命も、お前たちの命も。おじい様おばあ様、定綱、辰若、犬若、ここにいるおじ様たちの命も。私が行けば、まだ見ぬあなたたちの兄や姉も助かるかも。それには私が命を懸ける覚悟を示さねばならない。」
常盤は静かに続けた。
「今若、私にその命をあずけてほしい。」

清盛の邸宅の大門に着くと、常盤はその堂々たる構えに一瞬立ち止まり、深く息を吸った。そして、門番に静かに声をかける。
「私は常盤と申します。平清盛様にお目通りを願いたく参りました。」
門番が驚いたような表情を見せた後、中へと案内された。門をくぐると、雪が光を反射する広大な庭と邸宅が目の前に広がり、冷たい朝の空気が張り詰めていた。広間に通されると、そこはざわめきで満ちていた。家臣たちが低い声で話し合いながら、時折常盤たちを興味深げに見つめている。広間の奥に平清盛が座していた。その左右には家臣が控え、厳粛な空気が漂っている。常盤は子どもたちを伴い、深々と頭を下げた。広間が静まり返り、すべての視線が彼女に集まった。
「常盤殿か。よくここまで来たな。」
清盛は鋭い目を向けながら低い声で言った。
「さて、何用でこの場に現れたのか、申してみよ。」
常盤は震える心を必死に抑えながら顔を上げた。
「平治の乱の際、夫・源義朝が人の道を誤り、多くの方々に迷惑をかけました。その罪深き行いを詫びるとともに、私の母とこの幼い子どもたちの命をどうかお助けいただきたく……。」
今若が周囲を見渡しながら、緊張のあまり小さく息を吸い込んだ。清盛を取り巻く威圧的な空気や家臣たちの視線が、まるで重い壁のように感じられる。乙若もまた、母の裾をぎゅっと掴んで離さなかった。清盛は常盤の言葉を聞き終えると、ゆっくりと彼女たちを見渡した。
「その子らか。」
清盛が低く言うと、乙若が思わず一歩前に出た。広間のざわめきが一瞬止まり、全員の視線が5歳の幼い少年に集中した。
「僕たちのお父様が悪いことをしたなら、その罰を僕たちが受けるべきです。でも……お母様やおばあ様を助けてください。」
乙若の小さな声が広間全体に響き渡った。その言葉に清盛はわずかに表情を変えた。驚きというよりは、何か興味を引かれたような様子で、しばらく乙若を見つめていた。そして低い声で言葉を発した。
「面白い子だな。まだ幼いというのに、そのようなことを言うとは……。」
清盛は常盤に目を向け、間を置いて続けた。
「よかろう。お前たちの命を救うことを許そう。それだけではない。この子たちの未来も守ると約束しよう。母を守るためにここまで来たお前たちを、私は認める。」
その瞬間、家臣たちの間に低いざわめきが広がった。常盤は涙を浮かべながら深く頭を下げた。
「ありがとうございます……ありがとうございます、清盛様……。」
清盛はそれ以上何も言わず、ただ立ち去るよう合図を送った。家臣たちが常盤と子どもたちを見送りながら、その背中にはどこか敬意を含んだ視線を向けていた。常盤は邸宅を後にする際、乙若の手をしっかりと握り、小さく囁いた。
「乙若、本当にありがとう。」
乙若は小さく頷き、静かに答えた。
「僕はお母様を守りたかっただけだよ。」

その夜、常盤を清盛がお忍びで訪ねてきた。今若は聞き耳を立てる。
「常盤殿、少し話をさせてもらいたい。夫君・義朝殿のことだ。」
清盛の厳かな口調に、常盤は深く頭を下げた。清盛は静かに語り始めた。
「義朝殿はすでに討たれた。その手を下したのは、かつて義朝殿が信頼していた尾張の家人、長田忠致という男だ。忠致を信じ、その館に身を寄せたが、あの男は恩賞を目当てに義朝を入浴中に襲撃し、その命を奪った。」
常盤はその言葉に目を伏せ、震えるように拳を握った。清盛は続けた。
「忠致は義朝殿の首を持参し、恩賞を求めて参内してきた。そして、与えられた恩賞にも満足せず、さらに高位の官職を求めたという。主を裏切って討ち、その上で褒美をせびるとは……。」
清盛の目が鋭く光り、その声には冷たさが滲んでいた。
「奴はその傲慢さを許されるべきではなかったが、謝罪して求めを撤回したため、命だけは拾った。それが戦場の現実だ。」
常盤は静かに目を閉じ、清盛に深々と頭を下げた。清盛は一瞬その姿を見つめ、最後に付け加えた。
「お前たちが負うた運命を理解している。だが、これから先、お前たちの選ぶ道は決して一つではない。義朝殿が生んだ命を絶やすな。それが、今のお前にできることだ。」
今若はその名を胸に刻んだ。
「父の仇、尾張の…長田忠致…。」

「平治の乱で失ったすべてを取り戻すため、常盤御前――わしの母は清盛に賭けに出た。その賭けは成功した。あの後、祖母・関屋は男児を産んだが、心労がたたって命を落とした。乳母が抱いた赤ん坊は相模の渋谷重国のもとへ。祖父・佐々木秀義が宇都宮へ逃げる途中で助けられとか。そこで重国の娘がに祖父嫁ぎ、叔父たち――定綱、辰若改め経高、犬若改め盛綱、そして赤子は高綱、細い命綱を繋げた。頼朝公、今の御所様。あの方は伊豆に幽閉された。源五修羅丸――改め希義兄上もまた、土佐の地へと送られた。京では今も母の美貌と決断が伝説になっている。源氏一族を救った女として語られている。が、実は…。」
建久三年(1192年)、夕闇が迫る中、全成は縁側に座り、湯気の立つ茶碗を手にしていた。目の前には、鎌倉へ来たばかりの長女の龍巳とその夫・公佐が座り、談笑が続いている。遠くで蝉の声が響き、夏の風が庭を通り抜けていた。全成は白湯を一口飲んでから静かに語り始めた。
「常盤……わしの母上は、ただ美しいだけの方ではなかった。その行動一つで、源氏一族の運命が大きく変わったのだ。」
「それは、平清盛様のもとに出向かれた時のことですね?」
公佐が身を乗り出す。全成は頷き、低い声で続けた。
「そうだ。母上は、ただ美貌を武器に清盛公の前に現れたわけではない。その背後には、綿密な計画と根回しがあった。」
「根回し、ですか?」
龍巳が驚いた様子で尋ねた。全成は静かに頷いた。
「母上は、幼い頃から清盛公と面識があった。義朝公とともに清盛公と交遊した日々、その優しい眼差しを覚えておられたのだ。しかし、それだけではない。母上は、九条院での仕えを通じ、清盛公の継母である池禅尼様や、先妻であった亡き由良殿が仕えていた上西門院の女房ら、美濃局ら親戚筋まで巻き込み、事前に道を作られていた。」
公佐が感嘆の声を漏らした。
「そのおかげで、清盛公は常盤様を許したのですね。」
「いや、反対に清盛公は許す機会が欲しかったようだ。そこに母上が…母上は単なる賭けには出なかった。勝てる戦いに挑んだのだ。清盛公の性格、周囲の勢力、そして時の運……すべてを見極めての行動だった。」
龍巳は神妙な面持ちで頷き、全成は微笑み、目を閉じた。
「あの時、母上が見せた覚悟。そして事前の準備、根回し。それがなければ、わしも、頼朝公も、佐々木の叔父たちも、この世にはおらなんだわ。でも母上に命くれといわれたときには、正直わしは『8つで終りか、人生早かったなあ…』と。」
全成は苦笑する。一瞬、蝉の声が途切れ、風の音だけが響く。全成は再び目を開け、遠くを見据える。龍巳と公佐は全成の言葉を胸に刻むように耳を傾けていた。公佐はやがて口を開いた。
「実は、身に覚えのない罪で昇殿を停められたので、御所様に頼りましたが、取り合っていただけませんでした。親戚だからと、軽々に執り成しはできないと仰せられて……。」
「そりゃ事情もわからぬのに、いきなり助けを求められても、な。御所様は、身内であっても特別扱いをなさらぬお方だ。それは公佐殿、身から出たさびというのもある。己を振り返り悔い改め、そのうえで自身の力で信頼を勝ち取ることが求められているということよ。」
「はい、そのことは理解しておりますが、どうすればよいのか……。」
全成は微笑み、優しく言葉を続けた。
「母上、常盤も、ただ美貌に頼らず、知恵と勇気で道を切り開かれた。公佐殿、自らの力と覚悟で未来を切り開くのだ。困難に立ち向かい、信念を持って行動すれば、必ず道は開ける。大丈夫、己を信じよ。」
「…お父上のお言葉、肝に銘じます。」
「期待しているぞ。」
全成は満足げに頷き、再び白湯を口に運んだ。庭には夜の帳が降り、静寂の中に蝉の声が微かに響いていた。

(了 作:伊東 聰、2025年1月19日日曜日)

<作者紹介>伊東聰阿野全成を追いかけて32年。阿野館こと沼津市井出の大泉寺にて、2021年より原則土日祝日に観光ガイドを行っています。機会があればぜひ足をお運びください。※不在の場合もありますので、確実にお会いしたい方は事前にご確認ください。※

大泉寺茶室 撮影:伊東聰


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