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阿野全成伝 第一章第6話:託された秋萩
第1章「醍醐の萩花、悪禅師参上」全10回
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空は晴れ渡り、富士の山がくっきりと見えていた。収穫を間近に控えた田畑が黄金色に輝き、阿野荘の馬場では数頭の駿馬が軽やかに草を踏んでいた。その脇を、隆超の忠実な仲間である早丸と坊丸が、遠く聳える愛鷹山と広がる牧の風景を背に、颯爽と歩いていくのが見えた。富士山の頂には、かすかに煙がたなびいていた。
「ねえ、隆超。富士って、本当に大きいのね」
たもつが袖を揺らしながら、陽の光を受ける富士を見上げる。彼女の白い肌にそばかすが浮かぶが、秋の光がその輪郭を柔らかく映していた。
「お前、何度も言ってるな」
「だって、見飽きることがないんだもの」
たもつはくすくすと笑いながら、草むらに腰を下ろした。
「富士みてると安心しない?」
「安心?」
「そう。どんな風が吹いても、どんなに雨が降っても、煙はいたままそこにあるでしょう? 変わらないのよ」
たもつは指を空へ向ける。
「私たちも、そうなれたらいいわね」
隆超は視線を上げ、黙って富士を見つめた。そのとき、屋敷の方から足音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくるのは成親だった。
「富士は良いな」
彼は二人の様子を見て微笑みながら、ゆっくりと腰を下ろす。
「京の空も悪くはないが、こうして遥かに富士を望むのも悪くない」
そして、盃を持ち上げ、ぽつりと呟いた。
「それに、たまには若夫婦の顔を見ておきたくもなる」
たもつがくすくすと笑う。
「わざわざ、私たちのために?」
「まあな」
成親は盃を口に運び、目を細める。
「阿野荘での暮らしはどうだ?」
隆超は盃を持ち直し、静かに答えた。
「静かで、穏やかで…けれど、考えることも多い場所です」
「ふむ」
成親は頷いた。
「そうだな。お前にとっては、学ぶことばかりだろう。馬の生産、田畑の管理、商いの流れ…。戦とは違うが、これもまた知略の要る世界だ」
隆超はその言葉にゆっくりと頷いた。
空が茜色に染まり、阿野荘の庭には静かな風が流れていた。成親は庭に隆超を呼び寄せ、足元に咲く萩の花を指さした。
「お前のように目立つ力は、やがて敵を招く」
成親の声は低く、しかし確かな響きを持っていた。
「覚えておけ。夜の闇では黒胡蝶として舞い、昼には萩のように静かに根を張れ」
隆超は成親の横顔を見た。その言葉は、まるで未来を予見するような響きを持っていた。
「醍醐の黒胡蝶…」
「お前のことだ」
成親は、萩の花を指で軽く撫でる。
「私は、かつて芙蓉と呼ばれていた」
その言葉に、隆超は目を細めた。
「確かに、派手ですね」
「派手で、華やかだ。しかしな、隆超――芙蓉は、触れればすぐに散る」
成親の手が、ふっと萩の花を離す。花びらは風に乗って、儚く宙を舞った。
「芙蓉は宮中で映える花だ。美しく咲き誇るが、雨に打たれればすぐに萎れる。私はその華やかさゆえに、時の権力の流れに翻弄された」
成親は、ゆっくりと懐から和紙を取り出し、広げた。そこには一首の歌が書かれていた。
――闇に舞う醍醐の黒の胡蝶かな…風にしづもる秋萩の花――
隆超は静かに歌を読んだ。
「これは…」
「お前に託す歌だ」
成親は、隆超の目を見据える。
「黒胡蝶として舞うならば、いつか風に沈む萩になれ」
「…」
「お前は、俺よりずっと強い。だが、それゆえに危うい。世の中は、華やかに舞う者を好むようでいて、同時に排除しようとする。黒胡蝶の名は、やがて権力者の耳に届くだろう。お前が闇の中で自在に舞えば舞うほど、その姿を煙たがる者が現れる。俺がそうであったようにな」
隆超は、じっと成親を見つめた。その言葉の意味を噛みしめながら。
「だからこそ、お前は萩でなければならない。萩は地を這うように広がり、強く根を張る。風に揺れてもしなやかに耐え、決して枯れはしない。宮中の花ではなく、大地に生きる花として生きろ」
萩の花が、風にそよいでいる。隆超は、手のひらでその小さな花をそっと包んだ。その夜、隆超は屋敷の縁側で静かに空を見上げた。
「黒胡蝶として舞うならば、いつか風に沈む萩になれ」
――黒胡蝶の運命を背負いながら、萩のように生きることができるのか。月光が庭を照らし、萩の花を銀色に染める。その光の下、隆超の瞳だけが闇の中で静かに光を帯びていた。
嘉応元年(1169年)12月。冬の阿野荘は、冷たく澄んだ空気に包まれていた。愛鷹山の麓には、馬の牧場が広がっている。冬枯れの草が風に揺れ、馬たちは鼻息を白く立ち上らせながら地面を踏みしめていた。
「隆超様、こちらをご覧ください」
隣に立つ渡邊が、軽く手を挙げて馬場を指さした。中年の彼は地元でも名の知れた名士であり、阿野荘の運営を支える実力者でもある。
「この馬は、あと三月もあれば仕上がります」
「ならば、次の市には間に合うな」
隆超は静かに答えた。渡邊は少し考えるように頷いたあと、眉を寄せた。
「ただ、最近の市では馬の値が上がっています。次もこのまま高値が続くかどうかは分かりません」
隆超は、その言葉に目を細めた。
「では、次の市の相場に左右されない仕組みを作ればいい。今売る馬だけでなく、まだ成長途中の馬を見せ、先に予約を取るのはどうだろう」
渡邊は一瞬目を丸くした。
「馬の予約、ですか?」
「そうだ。契約だけ先に交わしておけば、納品は馬が育ちきった後で済む。それなら、次の市の相場を気にせず、安定して取引ができるだろう」
渡邊は唸るように口元に手を当てた。
「なるほど、面白い考え方ですな。都の貴族や大寺院が年貢の収穫を見越して先に契約を結ぶように、馬でも同じことをすれば、生産と販売の流れが効率的になります」
隆超は軽く頷いた。
「馬の生産には時間がかかる。だからこそ計画的に進めないと、馬が不足したり、逆に余ったりしてしまう」
「若いのに、よくそこまで考えられますな」
渡邊の声には、感心の色がにじんでいた。それでも、まだ17歳の隆超の顔には少し不安が浮かんでいる。
「俺はまだ未熟です。ただ、都で学んだことをどうすればこの土地で役立てられるかを考えているだけです」
渡邊はその答えに満足げに頷いた。
「それで良いのです、隆超様。領主は常にこの土地の未来を考えねばならない。物を売るだけではなく、土地を豊かにし、人の流れを作ることが肝心です」
渡邊の言葉を聞いて、隆超は静かに息を吐いた。目の前に広がる牧場を見つめながら、彼は阿野荘がさらに繁栄する未来を描こうとしていた。
「成親様が…」
時政が、酒の盃を置きながら低く呟いた。
「昨年から延暦寺の僧兵どもが京の街を荒らし回り、朝廷も手を焼いておったが、成親様は強硬策を取ろうとして、結局、排除されたわけだ」
阿野荘の屋敷に冷たい風が吹き抜け、庭先では紅葉した木々が風に揺れ、萩の花びらがひらひらと舞っている。隆超は、しばし沈黙した。
「義父上(ちちうえ)は…京には戻れないのですか」
「戻れるものか。あのお方を庇う者はもう誰もおらん。配流が決まるやもしれんが、それもまだわからん。京の公卿どもは、こういう時だけはやけに冷たいからな」
時政は苦々しく言いながら、盃を口に運んだ。
「成親様は後白河法皇の寵愛を受け、院近臣として権勢を振るっておられた。だが、延暦寺の強訴により、誰も助けることができなかったのだ」
「そもそも、何が原因でこのような事態に?」
「発端は、美濃国平野荘での小さな争いだ。成親様の弟、尾張守・藤原家教の目代である藤原政友が、延暦寺の神人と衝突した。事件自体は些細なものだったが、美濃国には延暦寺の荘園が多い。彼らは成親様の配流と政友の禁獄を求め、強訴に踏み切った」
「そんな些細なことで…」
「些細なことで済めばよかったのだがな。延暦寺は自分たちの権益を守るためならば、何でもする。朝廷は成親様を庇おうとしたが、他の公卿や平氏の協力を得られず、結局、解官と配流を決めるしかなかった」
時政は、盃の縁をゆっくりと指でなぞった。
「そして、成親様が手を回していた駿河目代も解任された。代わりに来るのは橘遠茂という男だが、こいつがどうにも胡散臭い。貴族の坊っちゃん育ちで、政の何たるかも知らん。しかもだ、その男の側に長田忠致の倅がおるらしい」
「…長田の?」
隆超の目が鋭くなる。
「景致とかいう名の若造だ。聞いた話では、気が短くて何かと絡んでくる厄介者だそうだ。まあ、親が親なら子も子よ」
隆超はじっと時政を見つめた。
「長田忠致といえば、かつて源義朝公をだまし討ちにした仇ではありませんか。その息子が駿河に来るとは…」
「そうだ。父親譲りの狡猾さを持っているかもしれん。駿河はしばらく荒れるぞ。阿野荘も無関係ではいられん」
盃の中の酒が、淡い月光に照らされてゆらめいている。隆超は静かに息を吐き、庭へ目を向けた。――成親が失脚したことで、京との繋がりが断たれる。新たな目代と長田親子の影がちらつく。秋の終わりを告げる風が吹き抜け、萩の花を揺らした。
「隆超、焦るな。今は動くべき時ではない。状況を見極め、慎重に対処するのだ。お前の力を必要とする時が必ず来る。その時まで、心を静めて備えよ」
時政の言葉に、隆超は拳を握りしめた。ここが、静かに根を張る萩のような場所でなくなりつつあることを、隆超は肌で感じていた。嘉応元年(1169年)12月、世にいう嘉応の強訴であった。
遠くから蹄の音が近づいてくる。何頭もの馬が駆ける音が屋敷の外で止まる。隆超は視線を戻し、静かに立ち上がった。廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいた。扉が勢いよく開く。
「失礼します!」
家人の水野口が、小声で息をのんだ。
「目代の橘遠茂様が…お連れの方と共に」
その声に、時政は盃を置き、隆超も静かに座を正した。客間の中央に、遠茂がふんぞり返るように座っていた。その傍らには、もう一人。長田景致――父・忠致は源義朝を裏切り、だまし討ちにした張本人。その息子が、阿野荘きた。
「お久しぶりですな、四郎殿」
遠茂が上機嫌に笑った。
「いや、ようやくお目にかかれた。何かと忙しくてな」
隣で景致が、にやりと口元を歪める。
「まったく、貴族というやつは、やたらと形式張った礼儀ばかり気にして、肝心の実務がなっちゃいない。まぁ、俺たちがその辺、手直ししてやるって話だがな」
水野口は扉の脇で息を殺していた。隆超は微動だにせず、二人を見据える。
「それで、今日は何の用で?」
遠茂は袖を払うと、気安げに言った。
「阿野荘の目代として、今後の方針を決めるために来たのだよ」
「方針?」
「ああ、簡単なことだ」
遠茂は軽く扇を広げ、言った。
「これからはもう少し、やりやすいやり方にする」
隆超の眉がわずかに動く。
「それは、つまり?」
「決まっているだろう。余計な計画は全部取っ払う」
景致が薄ら笑いを浮かべ、口を挟む。
「ようするに、堅苦しいことは全部やめだ。馬がいるなら、必要なところに回す。それだけの話だ」
隆超は腕を組み、じっと二人を見据えた。
「馬は生き物だ。すぐには育たない…。計画的に…」
遠茂は鼻で笑った。
「計画、計画って、そんなものは役人どもの言い訳だ。商いは勢いが大事。使えるものは使う。それでいいだろう?」
景致が、馬鹿にしたように付け加える。
「計画通りなんて、できるわけがないだろうよ」
水野口がわずかに身じろぎした。隆超の拳が、わずかに握られる。沈黙が広がる客間で、遠茂が扇をゆったりと仰いだ。
「隆超殿、あまり堅苦しく考えなさんな。目代としての決定だ。阿野荘の仕組みは、これから我々が整える」
景致が膝を崩し、くだけた笑みを浮かべる。
「つまりだな、俺たちのやり方に従えってことだ」
水野口が、戸惑いの色を隠せないまま立ち尽くしていた。
「たとえば馬の管理だ。今までのように、馬の数を計算し、年貢を気にしていたら、儲かるものも儲からん」
「それで?」
隆超は表情を変えずに尋ねる。
「簡単なことだ」
遠茂がにこりと笑いながら続ける。
「この土地にある馬は、必要なところへ優先的に回す。取引相手だの、市場の値段だの、そんなものを気にする必要はない。必要なものを必要な時に、ただ使うだけだ」
「計画的に生産しなければ、いずれ破綻するぞ」
隆超の声には、淡々とした響きがあった。
「計画、計画って、そんなものは役人どもの言い訳だ」
遠茂は笑いながら扇を閉じた。
「商いは勢いが大事だ。使えるものは使う。それでいいだろう?」
景致が口の端を歪めて付け加える。
「計画通りなんて、できるわけがないだろうよ」
隆超は黙って二人を見つめた。その沈黙が、かえって冷たく重いものとなる。水野口は一歩下がり、時政も腕を組んだまま何も言わない。遠茂はそんな空気など意に介さず、立ち上がると衣を払った。
「とにかく、これからは今までのやり方は通用しない。我々が阿野荘を導く。そこのところ、お忘れなきよう」
そう言い残し、景致と共に客間を後にする。しばし静まり返る。水野口が肩の力を抜き、そっと息を吐いた。
「…これは」
時政がゆっくりと唇を開いた。
「厄介なことになったな」
隆超は、拳をゆっくりと開く。
「…これからが、本当の戦いだ」
阿野荘の秩序が、音を立てて崩れ始める。翌朝、隆超はいつものように牧場を見回るために屋敷を出た。しかし、そこに広がる光景は、見慣れたものではなかった。
「…どういうことだ」
牧場の柵に繋がれているはずの馬が、予定よりはるかに少なかった。家人たちは皆、浮かない顔をしている。
「水野口」
隆超が低く呼ぶと、水野口はすぐに駆け寄り、苦い顔で報告した。
「長田殿が、昨夜、急に馬を持ち出しました」
「…持ち出した?」
「はい。遠茂様が、都の貴族への手土産にすると…」
「手土産?」
隆超は、しばし沈黙した。
「一体、どれだけの馬を持ち出された?」
「十五頭です。うち三頭は、来月に取引を控えていた馬で…」
水野口の声が、言葉を詰まらせる。隆超の目がわずかに細まった。計画が狂い始めている。阿野荘では、馬の生産・管理を慎重に行い、すべての取引を緻密に計算していた。急な徴発は、その均衡を崩す。さらに悪いことに、馬は単なる財産ではない。武士や貴族にとっては、戦や儀礼に関わる重要なものだ。取引先の信用を損なえば、今後の契約に響く。
「長田殿は、この件について何か言い残していたか?」
「…『俺たちのやり方に文句があるのか?』と」
「…そうか」
隆超は静かに目を閉じた。これでは、商いの信用が失われる。だが、それは始まりに過ぎなかった。翌日、さらに状況は悪化した。
「隆超様!」
慌てた様子で飛び込んできたのは、村の世話役の一人だった。
「どうした?」
「徴発です! 長田殿の兵が、今朝方、村の馬をさらに持ち出しました!」
「何頭だ?」
「二十頭…いや、三十頭ほどかと…」
「…何?」
隆超は、静かに拳を握った。
「遠茂様の命令だとか…『馬は余っているのだから、出せばいいだろう』と言われたそうです…」
「…余っている?」
隆超は息を吐き、視線を落とした。このままでは、阿野荘の馬は底を尽きる。遠茂と景致のやり方は容赦なかった。目先の利益だけを優先し、信頼を食い潰す。ある取引先との交渉では、約束した報酬を一方的に値切り、笑いながら
「これが商いだ」
と言った。後日、その商人は遺体で発見された。報酬を受け取れず、関係者との揉め事に巻き込まれたのだろう。だが、遠茂と景致は何も気にしていなかった。
「儲かればいいんだよ」
承安元年(1171年)、12月。阿野荘の空は重く沈み、遠くの富士山さえ霞んで見えた。冷たい風が吹きすさび、花も葉もない庭の萩の枝がわずかに揺れる。縁側に座るたもつの腕には、生まれたばかりの赤子。娘は母の胸に抱かれ、まだ細い手を無意識に動かしながら、ぐずることなく空を見上げている。
「…父上は、どうして萩を選んだのかしら。」
たもつが、ぽつりとつぶやく。隆超は庭を見つめながら、ゆっくりと答えた。
「根を張るから、だろう。」
「でも、こんなに小さいのに?」
「小さいからこそ、強いんだ。」
たもつは赤子の小さな手を優しく包み込む。隆超はその光景を見つめながら、かつて成親が庭先で語った言葉を思い出していた。
「夜の闇では黒胡蝶として舞い、昼には萩のように静かに根を張れ。」
だが今、その言葉の重みを背負うには、あまりにも厳しい現実が目の前にあった。
阿野荘の夜は静かだった。しかし、その静けさは、かつて隆超が知っていたものとは違っていた。どこか淀んでいる。空気が重い。風が屋敷の軒を抜けるたび、板葺きの屋根がかすかに軋む。いつもは風にそよぐ草の音が心地よいはずなのに、今は耳障りだった。この屋敷の主は変わってしまった。――いや、
「変えられてしまった」
と言うべきか。長田忠致――源義朝公を裏切り、その首を取った男。その息子が、今や阿野荘を好き勝手に動かしている。最初は、些細なことだった。景致の挑発も、軽く受け流していた。それでも彼はしつこく絡んできた。
「あんたのやり方は、古いな」
「計画通りなんて、できるわけがない」
「俺たちはもっと現実的にやる」
そんな言葉を繰り返しながら、景致は勝手に馬を持ち出し、取引を仕切り直し、約束を平然と反故にした。それでも、隆超は耐えた。だが――あの日、景致は一線を越えた。景致が面と向かって言い放った。
「お前に阿野を語る資格はない」
隆超は、一瞬だけ笑った。皮肉でも、挑発でもない。あまりに見え透いた侮辱に、思わず笑いがこぼれただけだった。だが、その一瞬が景致には気に食わなかったらしい。
「何だ、その笑いは?」
景致が立ち上がる。隆超を見下ろすように近づき、拳を握る音が響いた。背は隆超よりも大きく、体格もがっしりしている。拳を握る音が聞こえた。
「やめろ!」
水野口の声が響く。だが、景致の拳はすでに振り上げられていた。隆超は、その動きを察知していた。だが、その瞬間――景致の体がわずかに揺らいだ。隆超の視界の隅で、それが静かに見えた。拳が放たれる。それを紙一重でかわす。肩越しに拳が滑り、景致の重心がわずかに崩れる。その隙を逃さず、隆超の拳が景致の顎を打ち抜いた。乾いた音が部屋に響く。景致の体がぐらりと揺れ、ゆっくりと傾いていく。目を見開き、口を半開きにしたまま、彼はまるで時間が止まったかのように後ろへ倒れていく。家人たちが息をのむ。だが、後頭部が畳に叩きつけられることはなかった。傍らにいた男が、倒れこむ景致の体を咄嗟に受け止める。だが、衝撃は完全には殺しきれなかった。景致の胸が上下する。倒れたまま、微動だにしない。畳に、ぽたり、と赤い雫が落ちた。景致が、よろよろと起き上がる。口元から血が滲んでいた。呆然と隆超を見つめ、次に自分の手についた血を見る。
「…おい、やっちまったな」
静かに響いた声の主は、橘遠茂だった。彼は立ち上がり、冷笑を浮かべながら袖を払う。
「これは、面白いことになったぞ」
隆超は理解した。これは、決定的な一撃だった。これまでなんとか堪えていた均衡が、完全に崩れた。すぐに家人が駆け寄り、外にいた者が慌ただしく駆け込んでくる。そして、次の瞬間――
「待て待て!何の騒ぎだ!」
怒鳴るような声が響いた。時政が、堂々と客間に入ってきた。隆超は、拳を握ったまま、そこに立ち尽くしていた。
屋敷の一室。隆超は座したまま、じっと庭を見つめていた。彼の右拳は、まだ僅かに腫れていた。痛みはもう感じない。ただ、そこに痕跡が残っていることだけがわかった。その時、廊下から足音が響いた。落ち着いた、しかし力強い歩調。障子や襖のない板戸が、勢いよく開かれた。
「馬鹿が」
入ってきたのは、時政だった。部屋の中へ足を踏み入れるなり、隆超を鋭く睨みつけた。外の松明の灯りが、彼の影を長く引き伸ばしていた。隆超はゆっくりと目を上げた。
「…義父上」
「言い訳は聞かんぞ。やっちまったな」
時政は腕を組み、隆超を見下ろす。
「景致の親父は、あの長田忠致だぞ? お前が殴ったのは、そんな奴の倅だ」
「…あいつが、俺を挑発した」
隆超は、拳を握ったまま答えた。
「『お前に阿野を語る資格はない』と…俺は、それを黙って聞いていられなかった」
時政は、ふっと息を吐いた。
「お前の気持ちはわかる」
「だが、これは単なる喧嘩じゃない。政治だ」
隆超は、唇を噛んだ。時政は近づき、どかりとその場に腰を下ろした。
「遠茂はすでにお前を処分するつもりだ。景致が吹聴して回った。『駿河の阿野荘で、あの成親の秘蔵っ子が目代の家臣を殴った』とな」
「お前は、ここを出て行かねばならん」
静寂が落ちた。松明の火がゆらゆらと揺れる。
「これは決定事項だ。お前は阿野荘を去る。もちろん、たもつも連れてはいけない」
隆超の表情が動いた。
「たもつは北条の娘だ。このままお前と共にいれば、いずれ巻き込まれる。遠茂や長田の連中が許すはずがない。今は、たもつや娘はわしが守る。まずはお前自身を守ることを考えろ」
隆超は言葉を失った。
「醍醐寺へ戻れ。お前が今、唯一生き延びる道は、それしかない」
夜が明けた。屋敷の庭に、娘を抱えてたもつが立っていた。その目は、赤く腫れていた。
「…どうして…」
声が震えている。たもつは、彼の着物の袖を握った。
「ねえ…あなたがいなくなったら、私は…」
「生きろ。娘を頼む。生きていれば…また会える」
短く、隆超は言った。たもつの手が、震えた。そして、彼女はそっと手を離した。隆超は、振り返らなかった。ただ、背を向け、歩き出した。静かに、ゆっくりと、阿野荘を去っていく。背後で、たもつが泣き崩れる音がした。だが、隆超は振り返らなかった。もう、戻れない。もう、過去には戻れない。風が吹き抜ける。寒い風に揺れる、枯れ葉が舞い上がった。
(了 作:伊東 聰、2025年2月9日日曜日)
<作者紹介>伊東聰阿野全成を追いかけて32年。阿野館こと沼津市井出の大泉寺にて、2021年より原則土日祝日に観光ガイドを行っています。機会があればぜひ足をお運びください。※不在の場合もありますので、確実にお会いしたい方は事前にご確認ください。※
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