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阿野全成伝 第一章第5話:芙蓉のまなざし
第1章「醍醐の萩花、悪禅師参上」全10回
🌟 原則 毎週日曜日 22時更新! 🌟✨(全50話予定)✨
月光が御簾越しに差し込む醍醐寺の大広間。かすかに漂う香の煙が空中でたなびき、琴と笛の音が重なり、宴の雅な空気を際立たせていた。中央には几帳が立てられ、その奥、舞台に立つ若者の姿が浮かび上がる。長い袖を風のように翻し、舞うのは毘遮王。その舞はまさしく「黒胡蝶」だった。
闇に浮かび上がるような薄絹の衣が光を受け、蝶の羽ばたきのように空間を切り裂いていく。彼の踊りはどこかこの世ならぬものを感じさせる。時は嘉応元年(1169年)の夏。大納言・藤原成親は、盃を口に運ぶ手を止め、じっと毘遮王を見つめていた。その鋭い眼光は、ただ美しい舞いを見るだけのものではない。どこかに漂う異様な気配、そして毘遮王自身の持つ謎めいた空気。
「あの者…ただの稚児ではない。」
そんな成親の胸中の疑念が渦巻く中、宴の終わりを告げる鐘の音が響き渡った。
夜も更け、宴は終わりを迎えつつあったが、大広間にはまだ余韻が漂い、賓客たちは名残惜しそうに盃を重ねている。その中心で、毘遮王は最後の舞を披露していた。薄衣が宙を舞い、優美に広がるその姿は、まさに夜風にたゆたう胡蝶そのもの。客人たちは皆、息を飲んでその動きを見守っていた。拍手の中、舞を終えた毘遮王が静かに息を整えると、一際目立つ影が彼に近づいた。甲鷹王である。
「夢幻(まぼろし)だな。中身がない」
挑発的な言葉を投げかける。その目は毘遮王の舞を否定しながらも、何かを探るような鋭さを持っていた。毘遮王は微笑を浮かべながら答える。
「お前の目じゃ、現(うつつ)には見えないさ」
二人の視線が絡み合う。甲鷹王の嘲りに満ちた態度に、周囲の空気は一層張り詰めたものとなるが、毘遮王はその場を立ち去り、月明かりに溶け込むように去っていった。
「なに、姫と侍女が誘拐されたと?」
突然、宴が騒然となる。成親の次女の成姫(なるひめ)と侍女のたもつが何者かに誘拐されたとの報せが入ったのだ。客人たちが一斉にざわつく中、成親は蒼白な顔で立ち上がり、声を荒げていた。
「姫を何としても無事に連れ戻せ!」
毘遮王は、扉の陰から成親の慌ただしい姿をじっと見つめていた。自分の役目はここで終わったはずだ、と頭では理解していたが、足がその場を離れるのを拒む。
「盗賊か…」
彼は小さく呟き、もう一度自分に言い聞かせるように口を閉ざした。そして、ふと顔を上げ、仲間たちの方を振り返る。早丸(はやまる)と坊丸(ぼうまる)である。
「兄貴、どう動く?」
坊丸が訊ねる。
「行くぞ。」
言葉少なにそう告げると、毘遮王はすぐさま行動を開始した。宴席に仕えていたほかの仲間たちが音もなくその後に続く。黒い衣をまとった彼らは、風のように醍醐寺を抜け、夜の闇へと溶け込んでいった。
藤原成親の娘、成姫と侍女のたもつは、山奥の洞窟に囚われていた。洞窟の中には、盗賊たちの笑い声と酒の臭いが充満している。二人は縄で縛られ、冷たい岩壁に背を預けながらじっと耐えていた。
「たもつ…、どうするの?」
成姫が震える声で尋ねる。
「心配なされるな、姫様」
たもつはまだ幼さの残る顔をぎゅっと引き締め、盗賊たちの様子を窺った。
「隙を見つけて、必ずここを抜け出します」
その言葉に反して、たもつの心は焦りに満ちていた。目の前にいる盗賊たちは、簡単に出し抜けるような相手ではない。外は崖のような険しい地形で、逃げ出したとしても追っ手を巻くのは難しいだろう。その時、洞窟の外で、かすかな羽音が聞こえた。盗賊たちが動きを止め、耳を澄ます。何事かと見上げると、闇夜に黒い影がいくつも舞い降りるのが見えた。
「なんだ、あれは…鴉天狗か!?」
黒装束に身を包んだ毘遮王とその仲間たちが、音もなく盗賊たちを囲み込んでいた。毘遮王は、手に持った太刀を一閃させると、近くにいた盗賊を一瞬で制圧した。
「成姫と侍女を解放しろ。さもなくば、ここで全員討ち取る」
静かながら、鋭い声音に盗賊たちは圧倒され、その場に立ち尽くした。
「逃げ道はないぞ」
毘遮王は静かに言い放った。その声は深く、崖の上で緊張していた空気をさらに張り詰めさせる。盗賊たちの中には「たかが舞手だろう」と高を括る者もいたが、次の瞬間、その考えは打ち砕かれる。毘遮王の仲間たちが音もなく動き出し、風のような速さで盗賊たちを次々に制圧していったのだ。鈍い金属音が響き、刀や槍が地面に転がり落ちる。
「くそっ、なんなんだこいつら!」
盗賊たちは混乱に陥り、崖から退却しようとするが、どこを見ても逃げ道はない。毘遮王は微動だにせず、目の前の盗賊の頭目に向き直った。
「おとなしく縄にかかるなら命だけは助ける。だが、逆らうなら…」
言葉を切り、毘遮王は崖下を指差す。その静かな威圧感に頭目は身震いした。
成姫とたもつは、そのすきに逃げ出した。だが、気づいた盗賊たちに崖の上まで追い詰められていた。たもつは、縄で縛られた成姫を背後にかばいながら、小刻みに震える手で足元に転がる石を掴み取った。崖の向こうから、盗賊たちがじりじりと距離を詰めてくる。たもつは一歩後ずさりしながら、小さな体を精一杯張り、怒声を張り上げた。
「これ以上近づいたら、この石を蹴り落とすわよ!」
盗賊たちは一瞬動きを止めたが、すぐに笑い声を上げる。
「たったその小さな石で、俺たち全員どうにかできると思うのか?」
その声に負けじと、たもつは声を張った。だが、その声は震えている。
「小さい石だからって、侮るんじゃないわよ! この石ひとつが他の石を巻き込んで…やがて、でっかい崖崩れになるんだから! そしたら、お前たち全員、まとめて谷底に叩き落ちるの! ふふ、見てみたいでしょ、そうやって一網打尽になる自分たちを!」
言いながらも、その小さな体は震え、心臓は大きく鼓動していた。しかし、たもつの瞳には怯えとともに、必死の覚悟が宿っていた。盗賊たちはその場で顔を見合わせ、どうするべきか逡巡している。崖の地形を熟知している彼らだからこそ、その言葉がまったくの虚勢ではないことを理解していたのだ。一瞬の静寂が場を包む中、たもつは石を握りしめたまま、必死に耐えていた。その時、背後から風を切る音が響き、空に黒い影が舞い降りた。
「お前たち、もう終わりだ。」
それは鴉天狗のような装束に身を包んだ毘遮王とその仲間たちだった。毅然とした声が夜闇を切り裂き、盗賊たちを完全に威圧する。たもつが握りしめていた石が、ほろりと手から落ちた。毘遮王とその従者たち、そしてもう一人――小蓮であった。長い黒髪が風に揺れ、黒装束にまとわりついている。
「姫様を解放しろ!」
低く鋭い声が響き、小蓮は一歩前に踏み出した。その手には短刀が握られている。彼の気迫に盗賊たちは一瞬身を引く。隙を逃さず、毘遮王の太刀が輝き、夜空に剣閃が走る。盗賊たちは次々と制圧される中、小蓮は成姫とたもつのもとに歩み寄り、その小さな肩を静かに抱きしめた。その黒髪が月明かりの中で揺れ、二人の少女を守るように覆った。
「…助かったの?」
たもつは息を切らしながら振り返り、立ちはだかる毘遮王の背中を見つめた。
「これで終わりなの…?」
たもつは自分に問いかけるように呟いた。背後で成姫がそっと彼女の肩に手を置く。
「たもつ…ありがとう」
成姫の優しい声が耳に届いたが、たもつはただ毘遮王の背中を見つめていた。やがて盗賊たちの制圧が終わると、毘遮王は振り返り、たもつと成姫に近づいた。たもつは目を見開きながら、その凛とした顔を見上げた。
「怪我はないか?」
毘遮王の低い声に、たもつは慌てて首を振った。
「い、いえ…大丈夫です」
毘遮王は彼女をじっと見つめ、静かに微笑んだ。
「お前、よくやったな。怯まずにあいつらを止めた。誰にでもできることではない」
その言葉に、たもつは胸が熱くなるのを感じた。
「私は…姫様を守るため…」
そう呟くと、毘遮王は優しく頷いた。
「その心があれば、もう十分だ」
盗賊たちは縄で縛られ、毘遮王の仲間たちによって山を下ろされていった。成姫とたもつもまた、毘遮王と共に山を下る道を歩んでいた。夜明けの光が山肌を染める中、たもつは何度も毘遮王の方を振り返って見た。その背中はまだ遠く感じるが、彼女の心には一つの強い思いが芽生えていた。毘遮王は振り返ることなく、静かに山を下っていく。たもつの小さな決意と感情は、まだ本人の胸の中に秘められたままだった。
醍醐寺へ戻った成姫とたもつを迎えたのは、激しい足音と共に駆け込んできた北条時政だった。武士然としたその佇まいは、賑やかな平安貴族の中でも異彩を放っている。
「たもつ! 無事か!」
声を張り上げるや否や、時政は愛娘を抱き寄せた。
「父上…私は無事です。姫様もお怪我なく戻られました」
時政はたもつを強く抱きしめた後、すぐ成姫の方へも頭を下げる。
「成姫、どうかお許しください。娘がそなたと共に囚われるという失態を演じました…」
「いえ、たもつがいなければ、私などどうなっていたかわかりません」
成姫が静かに答えたその横で、時政の視線が毘遮王に向けられた。
「して、このお方が…?」
毘遮王は一歩前に進み、落ち着いた様子で頭を下げた。
「毘遮王と申します。偶然にもこの山で盗賊を見つけ、助太刀をいたしました」
時政はじっと彼を見つめ、すぐにその若さと鋭い眼差し、落ち着き払った態度に感心したように口を開いた。
「なんと見事な働きか。年若きながら、堂々たる器量を持つ。そなたのような者が、なぜこのような場におるのか…」
毘遮王はその言葉には何も答えず、静かに時政を見返した。そこには何も語らずとも、ただならぬ過去を感じさせる何かがあった。
藤原成親は成姫とたもつを無事に連れ帰った毘遮王に深々と頭を下げた。
「これほどの力を持つ者がいるとは…礼を言う」
毘遮王はそれに対して短く
「当然のことをしたまでです」
とだけ答えた。その一言に成親はますます興味を抱く。
「この者はただの稚児ではない。いったい何者なのだ…?」
成親はそれ以上を聞こうとしなかったが、その目には明らかな疑念が浮かんでいた。
その夜大納言・藤原成親と北条時政は、成親の屋敷の縁側で静かに酒を酌み交わしていた。
「毘遮王という若者…あれほどの力を持ちながら、醍醐寺の稚児たちの陰に隠れるようにして生きているとは、不思議なことだ」
成親がそう言いながら盃を傾ける。
時政は眉間に皺を寄せながら答えた。
「あの若者、ただの舞手ではない。武芸、知略、そのどれもが一流であるように見える。だが、あの目には影がある」
成親は黙って頷いた後、ふと口を開いた。
「実は、あの毘遮王の出自について、少し気になることがある」
「気になること?」
「平治の乱の後…あの義朝公の御子が、どこかに隠れ住んでいるという話を耳にしたことがある。あの若者、源氏の血筋ではないかと思えてならぬのだ」
時政はその言葉に驚きを見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「もしそれが真実ならば、我らの時代が大きく動くかもしれん…」
成親は無言でうなずいた。
その夜、北条時政は娘と二人きりになると、柔らかな笑みを浮かべて話しかけた。
「たもつ、お前もよくやったな。逃げ場もない中、よく成姫を守った。」
たもつは照れくさそうにうつむきながら、小さな声で答えた。
「でも…父上、私だけでは、あの場を切り抜けることはできませんでした。毘遮王様がいなければ、今頃…」
時政はその言葉に少し意外そうな顔を見せた。「毘遮王か…あの者、確かに只者ではないな。」そう言って一度口を閉じ、遠くを見つめるような目をした。
「だが、たもつよ。お前が成姫を守ろうと奮い立った気持ちが、彼を動かしたのではないか?」
たもつはその言葉にハッとして、父の顔を見上げた。
「…そうでしょうか。でも…父上、あの方は特別です。きっと、私がどれだけ努力しても…」
時政は優しく娘の頭に手を置き、微笑んだ。
「特別だからこそだ。そういう人間と巡り合うことが、人生を動かす。だから、その思いを無駄にするな。人生というものは、何がどう転ぶか、わからぬものだぞ。」
毘遮王の正体が源義朝の遺児であることを確認した成親は、醍醐寺をおとずれると、彼を静かに呼び出した。成親は無駄のない口調で言った。
「醍醐寺で朽ちるには惜しい男だ。お前には背負うべき名がある。半月だけ待て。必ず良い知らせを持ってくる。」
その声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。毘遮王は言葉少なに頷くと、成親はすぐに動き出した。彼が向かった先は、一条長成、平重盛、藤原家成、そして兄である四条隆季のもとだった。その息子隆房の妻は平清盛の長女であった。さらに北条時政も計画に巻き込み、次々と言葉を重ねる。成親の計画は緻密で、言葉の隙を与えなかった。その交渉が終わる頃には、隆季の「隆」の一字が毘遮王に与えられ、「源隆超(みなもとたかおき)」という新たな名が決まっていた。成親は満足げに息をつき、ふと視線を時政に向けた。
「たもつも、あの者のそばにいれば良い女房になるだろう。」
時政は軽く頷いたが、その表情に迷いは見えなかった。ただ、娘の未来を思いながらも、河内源氏義朝の遺児と北条家が交わることで得られる新たな絆の重さを計算していた。
元服の場は静寂の中に緊張が漂っていた。毘遮王の黒髪が一房ずつ落ちていく。その黒髪は、舞台で観客を魅了した輝きであり、稚児としての彼を囲む檻でもあった。
「惜しいもんだな。あたら緑の黒髪を。」
儀式を終えた毘遮王の後ろから甲鷹王が口元を歪めて近づいた。
「その名、似合わねえな」
と低く囁く。毘遮王、名を改め隆超は振り向きもせず、ただ
「お前には関係ない」
と短く返した。甲鷹王の目は、かつての稚児仲間への苛立ちと羨望が交錯していた。
元服を終えた隆超に、北条時政の娘・たもつとの縁談が告げられる。周囲は新しい名を称賛し、期待を寄せる。だが隆超は無言だった。その目はすでに、過去でも未来でもない、ただ目の前の一歩だけを見据えていた。たもつは、彼の隣に立つ覚悟を胸に秘めつつ、新たな人生の幕開けを静かに受け入れていった。そして二人は阿野荘へ向かう──毘遮王──改め源隆超が阿野全成となり、北条時政の次女たもつが後に阿波局(あわのつぼね)と呼ばれることになる物語の新章が、ここから始まることになる。
醍醐寺の最後の夜、隆超は運慶と重源と過ごす。
「まさか、お前がこの名を持つことになるとはな」
重源は、まじまじと隆超の姿を見つめた。
「源隆超…悪くない名だ。だが、名が変わっても、お前自身がどう生きるかが大事よ」
隆超は無言で頷く。
「それで、お前はどこへ行く?」
運慶が問うと、隆超は淡々と答えた。
「阿野荘だ。しばらくはそこで学ぶ」
「ふむ…学ぶ、か」
重源は少し考え込み、隆超の顔をじっと見た。
「俺も学びに行くつもりだ。宋へな」
「宋へ?」
「そうだ。向こうには、この国にはない技術がある。建築、仏像、土木……すべての技を身につけ、日本へ持ち帰るつもりだ」
重源の目には、確かな決意が宿っていた。
「お前の言う源氏の築城技術、その理も興味深い。俺は寺を築くために、宋の技を学ぶ。お前は戦を制するために、源氏の技を磨く。目的は違えど、道は似ているな」
「…似ているかどうかは知らん。だが、お前がそう言うなら、そうなのかもしれんな」
重源は笑った。
「それでいい。お互い学び、また会う日が来るかもしれん」
「俺も行くぜ」
不意に運慶が言った。
「お前みたいに名が変わるわけでもねえし、誰かに仕えるわけでもねえ。だけど、俺も旅に出る」
隆超は少しだけ首を傾げる。
「観音を探しに行くのか?」
運慶は肩をすくめ、苦笑いした。
「探す、というよりは…見つける、だな」
隆超は運慶の言葉の違いに目を細めた。
「前に、お前の姿を彫りたいと言ったな?」
「言ったな」
「だが、俺はまだ本当の観音を彫れてねえ」
運慶は握りしめた拳を開き、空を仰ぐように息をついた。
「まだ、俺の中に『観音』がいねえんだよ」
「…なるほどな」
隆超は微かに笑った。
「だから、俺も行く。いろんなものを見て、俺の中の観音を見つける。いつか、本当の観音像を作るためにな」
その言葉を聞いて、重源がふっと笑った。
「まったく、全員が旅人か」
隆超は静かに視線を落とし、呟いた。
「それぞれの道がある」
重源が静かに立ち上がり、ぽつりと呟く。
「また会うさ。それぞれの道の果てでな。」
運慶は拳を軽く握る。
「その時までに、俺は俺の仏を刻んでおくぜ。」
月明かりの下、それぞれの影が別々の道へと伸びていった。
夜が明け、隆超が早丸、坊丸を含めた仲間たちと成親の迎えの者たちとともに醍醐寺を出発しようとしていた。門前に立つ甲鷹王が、その姿を見送っている。
「行くのか。」
甲鷹王が低く呟いた。隆超は歩みを止めず、冷静に答えた。
「それぞれの道がある。」
甲鷹王はその言葉に一瞬だけ眉を寄せ、苦笑混じりに呟く。
「それぞれの道か…。だが、お前の道には『源義朝の遺児』って看板がある。俺には…そんな後ろ盾はない。」
隆超は何も答えず、そのまま前を向いたまま歩を進めた。甲鷹王は視線を地面に落とし、わずかに拳を握りしめる。
「俺は…俺には甲斐源氏の誇りだけだ!」
拳を握ったまま声を低くした。
「この甲鷹王が、たとえどんな道を選ぼうと、俺の名を中央に轟かせてやる。」
隆超は振り返らずに足を進めるが、その背中に向け、甲鷹王は最後に言葉を投げかけた。
「俺は俺なりにやってみせる。俺自身の力でな――」
甲鷹王の声はどこか寂しげでありながら、静かな決意を宿していた。隆超は振り返ることなく歩み去り、甲鷹王はその背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
醍醐寺の門前、牛車の轅(ながえ)が軋む音を響かせた。隆超は振り返らずに牛車に乗り込んだ。隣にはたもつが座り、小さな体を大きく見せるように背筋を伸ばしている。その瞳には、これから始まる人生への不安と決意が交じり合っていた。隆超はゆっくりと牛車に腰を下ろすと、遠く月に照らされた醍醐寺の山並みを眺めた。この山で過ごした日々の数々が、一瞬のように頭を駆け巡る。牛車は静かに動き始めた。轅が山門を超えたその時、隆超は視線を横に向けた。木陰の中に、一つの小さな影がじっと佇んでいるのが見え、はっとした。墨染の衣、剃髪した頭。幼さを残しつつも、まるで山に溶け込むかのようなその姿は、間違いなく小蓮だった。彼もまた、声を発することなく、ただこちらをじっと見つめている。その瞳には何も語らない。揺れる松葉の下、凛とした佇まいで静かに彼を見送っている。隆超は視線を戻し、前を向いた。小蓮は牛車が完全に消え去るまで、その場を動かなかった。まるで山の一部であるかのように、背筋を伸ばしたまま、黙って立ち尽くしていた。やがて、小蓮はゆっくりと踵を返し、醍醐の山中へと歩みを進め、やがて完全に山の奥へと消えていった。車の中で隆超は目を閉じ、静かに息を吐いた。小蓮の姿が瞼の裏に浮かぶ。しかし、今は振り返ることは許されない。隣にはたもつが座っている。彼女の幼い顔には、不安ながらも隣にいる彼を信じようとする気持ちが読み取れた。隆超は小さく頷き、前を向いた。
「これでいい」
新たな世界が、これから始まる。
小蓮は山の風景に溶け込み、隆超とたもつの牛車は山道を進む。それぞれの道が分かれ、それぞれが新たな運命を歩み始めた。
(了 作:伊東 聰、2025年2月2日日曜日)
<作者紹介>伊東聰阿野全成を追いかけて32年。阿野館こと沼津市井出の大泉寺にて、2021年より原則土日祝日に観光ガイドを行っています。機会があればぜひ足をお運びください。※不在の場合もありますので、確実にお会いしたい方は事前にご確認ください。※