姿を現す声に触れ 「爆撃の記録」から
「何も見えなかった」という体験
資料には声がある。「特別展示 藤井光 爆撃の記録」を訪れて、一枚の資料が印象に残った。それは1999年に計画が凍結された「東京都平和祈念館(仮称)」に向けて集められた証言映像の語りを数百字に要約したものだった。
「火を見すぎたため、朝、明るくなってもしばらく目が慣れるまで、何も見えなかった」。1945年3月10日の朝方まで、空襲と火災を見続けた、ひとりの女性の語りは、このような言葉で結ばれていた。
わたしは、それほどまで火を見続けた経験はない。それでも文字を目で追いながら、視界が閉ざされるような息苦しさがよぎる。同時に自らの想像の及ばなさに、それが「体験」から生まれた言葉だと実感する。
資料には、証言者のプロフィールも記されていた。黒塗りされた名前の下に続く「性別 女」「年齢 82」「生年 1917年」「現住所 豊島区」「被災地 墨田区」という情報から、当時のことを語っている女性の姿を思い浮かべる。
記載された情報は少ない。それでも一枚の資料という「もの」に向き合うことで、その声が再生されたかのように想像力が起動する。それは、ここが展示室だということも影響しているのだろう。
聞き手の能動性を求める展示
小さな展示室には真っ白な展示台が整然と並んでいた。台の上には等間隔で資料が置かれている。資料には透明なアクリル板が載せられている。天井の蛍光灯は明るく、資料に目を落とすと、強い光源が時折アクリル板に映りこむ。これは単に「東京都平和祈念館(仮称)」の資料展示ではない。アーティストの藤井光の名を冠した「爆撃の記録」という作品展示だ。視覚的に展示物を際立たせる「作品」展示の手法は、そのことを思い起こさせる。
象徴的なのは資料の扱い方だ。どの資料も同じサイズで並んでいる。大きな図面は真っ二つに断ち切られ、間隔を置いて隣り合うものとして展示されていた。ひとつの情報として読むためには、頭のなかで全体像を組み上げなければならない。文章が途切れた資料の場合も同じだ。この展示では、資料と向き合う能動性が求められる。
何か伝えたいとき、声を大きくすればいい訳ではない。分かりやすい言い回しが、必ずしも功を奏する訳でもない。大事なことは呟きのような小さな声で語られることも多い。物事の伝達は、話し手の技術だけではなく、聞き手の態度に左右される。
資料から体験者の声は、聞こえるか? その声を記録し、伝えようとした人たちの姿が、見えるか? 静かに突き放すような展示は、そう問いかけてくる。そして、その声が「永久に封印」されたことを、どう考えるのか? と。
「継承の生態系」を育むために
美術館の入口で渡されたA4両面印刷の配布資料には、本展企画協力の居原田遥と学芸員の岡村幸宣の文章が掲載されていた。ここでは言葉を抑えた展示を補完するように、展示の意図や背景が詳らかにされていた(本展サイトでPDFが読める)が、ふたりは戦争の「記憶の継承」という問題意識で呼応し、藤井の表現に社会課題の「問題提起のあり方の更新」(居原田)を期待したことが記されていた。
美術館の外では、本展に併走するように社会学者・キュレーターの山本唯人がウェブサイト「東京都平和祈念館アーカイブズ」を立ち上げていた。展示を「スタート地点」とした「もう一つの学びの場」づくりを目的に掲げ、会期中はオンラインで資料を公開し、展示を訪れた人たちの声を集めている。これもまた「更新」を目指す継承の試みだといえるだろう。
声を受け渡す—–その意思を共有する人たちが生み出す有機的な実践の連鎖—–「爆撃の記録」を巡って現れてきたのは、さながら多種多様な植物が群生するような「継承の生態系」ともいえるものではないだろうか。それを、どう育んでいくのか? 同時代を生きるひとりとして実践的に考えていきたいと思う。
『原爆の図丸木美術館ニュース』(2021年7月15日)に掲載。写真追加。
(追記)『原爆の図丸木美術館ニュース』はマンスリーサポーターや友の会会員になると手元に届く。新館建設計画も含む「原爆の図保存基金」には、6,446件・1憶7,064万3,648円(2021年6月26日現在)の寄付が集まっている。いずれも税額控除対象。