Der liebe Augustin (愛すべきアウグスティン)
アウグスティンという名前の流行歌手は300年以上前ウィーンで活躍していましたが、現在でも彼のことについての民謡や伝説がよく知られています。民謡のレフレインは「O du lieber Augustin, alles ist hin(愛すべきアウグスティンよ、全てがすっからんだ)」ということです。
そのアウグスティンは毎晩酒場から酒場へ巡回しており、流しの歌を自作自演でバッグパイプを演奏しながら歌っていたそうです。彼は生きている新聞のようにウィーン市内で起きた事件を題材にして、観客におかしい出来事や珍しい出来事を知らせ、時折に人間の愚かさを嘲笑していたと言われています。
アウグスティンが登場する度に、酒場の亭主はいつも喜んでいました。なぜならアウグスティンが楽しい集いを歌や冗談でもてなすと客は皆調子に乗ってワインを沢山飲んでいました。しかし、1679年にウィーンで疫病、つまりペストが流行になって、酒場での楽しみを黙らせて、一般市民は恐怖と悲痛の中で笑いというものがわからなくなってしまったと言われています。
客は病気をうつされることを心配し、出かけないことにしました。ウィーンは一夜にして人気のないところになってしまい、通りには死者を取り集めに廻っていた車夫がしか見えなかったのです。ある場合にその車夫が病院や家の病室だけではなく外出中でも倒れた死者さえ拾い集め、墓地が狭くて使えなくなったので、町壁の前で掘られた共同墓穴に投げ入れました。その墓穴がいっぱいになったら、土砂で埋め、新しいのを掘ることにしました。
それでアウグスティンが何度も不入りの店で淋しく一人酒を飲んでおり、そしてしばしば飲みすぎ、夜遅く千鳥足で家へ帰ったそうです。ある夜にアウグスティンはまた酔っ払って帰ろうとしましたが、今回はほとんど立っていられなく、足を住まいまで運べない状態でした。しばらくの間うまくいっても、結局、足がもつれて転び、もう二度と立ち上がれなく、そのまま眠ってしまいました。
その直後に不気味な音が聞こえ、ペストの死者がいっぱいの荷車が狭い道路をガタガタと走ってきました。道路の上で横になった男を見た車夫はもう死でいたと思い、彼をもバッグパイプと共に長い熊手で荷車に積み込んで町壁の前へ運んでしまいました。現在には7区、当時には郊外にあったウルリヒ教会の後ろに掘られた墓穴へ身の毛のよだつ荷下ろしをしました。
アウグスティンはそこまで死んだように眠っており、何も気がついていませんが、夜の冷気で少し酔いが覚め、周りを見渡すと泥酔状態で寝ている飲み仲間ばかり見えたようでした。この連中がいったいどこからやってきたかと思いながら、アウグスティンは手当たり次第の手近な人を揺り起こそうとしました。
「おい、寝ぼ助、起きろう。ここはどこ、教えてくれ」と叫んでも誰も起きませんでした。
いくらでも騒いでも誰も動かないし、返事さえもこないし、その場所が墓穴のように静かなので、アウグスティンは変だなと思って、周りを確認し始めました。よく見れば仲間が皆死んでいたようで、自分が一人だけ生きていたらしい。
「ああどうしよう、どうしよう」とアウグスティンは嘆き、自分で深い墓穴から出られないので、「助けてくれ」と大きな声で叫びました。
隣人は叫び声や悪口を墓穴から聞いても恐怖で近づいてこられません。そして、アウグスティンはよいことを思いつき、バッグパイプを演奏しながら陽気な歌を歌い始めました。次に屍の積み荷をもってくる車夫はさえも笑わせ、たちまちにはしごを入れてアウグスティンを墓穴から出してやりました。
ペストとその親戚の死神はたくさんの人々をおびえて害しても、死者の中からよみがえったアウグスティンは平気で病気にかかりませんでした。しかも自分の恐い体験について陽気な歌を作り、失敗したペストと死神を嘲笑しました。それでペストが不愉快でウィーンを離れ、さらに先へ進むことになり、アウグスティンは元気で長生きして、高齢になって死んだといわれています。
愛すべきアウグスティンは困ったことがあってもユーモアを解するセンスで自分を諦めてはいけないというウィーン精神のシンボルとなっています。現在ではホームレスが編集している週刊新聞は「アウグスティン」とも名付けられています。が、浮浪者が現在の困った情勢を脱し、将来に関して希望に溢れた感じなのか、それとも現在のウィーン精神が全体的にちょっと落ちぶれた感じなのか、いったい何を表しているのか考えるべきです。