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コーリヤマさん

新世紀を迎えようとする18世紀終わりのロシア帝国に、エレナ・ミハイロヴナ・コーリヤマは、ドイツ語を話す母と、天文台で星を探す父との間に生まれた。彼女が数理物理学で示した叡智は、後世の様々な分野に多大な影響を与えた。というのは嘘で、20世紀後半、日本の南の港町にいた小学生を描いた話である。

コーリヤマさんは、聖エリザベト小学校(仮名)4年2組の委員長だった。
私の記憶にある彼女は、休憩時間、本を読んでいた。厚みのある本だったので、何を読んでいるのか訊ねて見せてもらうと、シャーロック・ホームズの推理小説で、トゥルゲーネフの初恋ではなかった。

私は勉強はせず、世界をからかうように過ごしており、いたずらばかりしていた。

先生が黒板に向かっているとき、私は口を閉じたまま、鳩か何かしれない動物の声を発してみせた。現在も変わらないが、教室でペットを飼うのは禁じられている。
先生はふりかえり、何だ、と言った。何の音だ? 音源地を探すように見回した。
私は不思議な表情で先生を見て、それからとなりのタチヤマに顔を向けた。タチヤマは、わたしは何も知りません、と意思表示するように硬い顔で前を向いていたが、頬が赤かった。彼女は、春から私の横で過ごしていて、その時、あと少しすれば訪れる夏休みを思っており、席替えのある二学期がはやくくるのを祈る気持ちで待ち望んでいた。
先生は、一方の眉をナイキのロゴにしてまた黒板に向かった。
・・・音 
何だ?
静寂
黒板

誰だ?!
静寂
黒板

私はおまえだろとチョークを投げられる前に鳴くのを止めた。

コーリヤマさんとは3年生で初めて同じクラスになった。彼女と他の生徒には、私は災いでしかなかった。
4年生になって、木造からコンクリートの校舎に変わった。
私は授業中、わからない問題があっても、あとでコーリヤマさんにきけばいいと気軽に授業を受けていた。退屈を感じるとタチヤマの顔をガン見した。
彼女は気づかないふりをしたが、視線に耐えられなくなり、何? と苛立って言った。
何も、#別にのMrs.エリカのように私が言うと、見ないで、とタチヤマは言ってノートに黒板の文字を写した。
課目の内容が分かりずらいと、他の生徒も休憩時間にコーリヤマさんの席へ行き話を聞いていた。当時は子供の手にデバイスはなく、ChatGPTが質問に答えてはくれなかった。サム・アルトマンも生まれていない。

ある日、いつもの調子で、コーリヤマさんに算数の問題の解き方を訊ねた。
彼女は、私を見ずに何も答えなかった。読書に集中しているようだった。
コーリヤマさん、と遠慮気味に声を低くしてもう一度呼んだ。彼女は読書を続けた。いくら声をかけても反応しなかった。
私は焦り、不安になった。

彼女は、誰に対しても平等だった。
私は、いたずらをして、教師にどれほど叱られても懲りなかったが、彼女の沈黙は苦しく、痛かった。彼女だけは敬称をつけて呼んだ。
彼女に、それまで軽蔑や憤りの感情を見たことがなかったので、何がそういう態度をとらせるのか、悪童は自分の行動や言葉をふりかえった。いくつかのこれかもしれない原因が、風船になって頭のまわりに浮かんだ。
それであってほしくないものに、私はタチヤマの容姿をからかった。彼女は顔を赤くさせて言い返した。
コーリヤマさんに私がタチヤマに投げた言葉が聞こえていて、その理由で反応しないでいるのなら、私は彼女にどうしていいか考えられなかった。子供ではあったものの自分がどうしようもない人間のように思えた。
コーリヤマさんは沈黙をして、私が誰かを傷つけているのを教え、許されることではないのを示した。
その日、コーリヤマさんは私に口を開かなかった。私は午後の休み時間には友達と騒いではいたが、タチヤマとコーリヤマさんが気になった。結局私はタチヤマに謝りはしなかった。
翌日か、何日か経ってからか憶えないが、コーリヤマさんは私に口を開いてくれた。彼女は普段から柔らかい顔をしていたが、以前とかわらずに私の冗談に付き合ってくれた。

タチヤマに翌日の朝ぎこちない態度でいると(あれは忘れて下さい)、彼女は私の雰囲気がいつもと違うのをすぐに感じとり、気色悪ッ、っと言わないばかりの目でチラッ、チラッ、...チラッと私を見て、2センチくらい椅子を私から離した。君はそんなに繊細だったのか?  私は言いたかったが黙っていた。
だが、一日に一度、授業中タチヤマの顔をガン見する習慣を私は止めなかった。

二学期になると、私は教壇の向かいの一列目に座った。タチヤマは私の後ろだった。1時限に一度、問題用紙を彼女に渡すのがひそかな楽しみとなった。

コーリヤマさんとは、中学も同じだったがクラスは3年間別だった。タチヤマとは1年同じになった👍😮‍💨賑やかな生徒と聡明な生徒は、振り分けられていたかもしれない。
だから中学時代、コーリヤマさんと接した記憶がない。
卒業後、彼女たちと私は違う高校へ通い、それから二人を目にしてはいない。人づてに、コーリヤマさんは国立大学の法学部にいったと聞いた。

私は生まれた町を離れて私立大学の社会学部に入ったがキャンパスが合わず中退し、アルバイトで生計を立てて過ごした。節目の時に帰らず、親類縁者への礼を欠いた。

働き始めて数年ぶりに家に戻った。
部屋の机の引き出しを開けると、小学校の卒業文集が入っていた。おそらく母が整理のために収めたのだろう。
私は箱から出してそれを広げた。
ラグビーボールの形の枠の中に生徒会長のコーリヤマさんの顔写真があった。そうだったな。私は穏やかな顔をたしかめて思った。
彼女は、わたしたちの未来に向けて言葉を記していた。彼女の手書きの文字が印刷されていた。
失わないでね、とコーリヤマさんは書いていた。今ここに文集はなく、何についてそう言ったのかも思い出せない。 
けれど、12歳の彼女の眼差は想像したい。それができる記憶は残っている。

もし、コーリヤマさんに会えるのなら、あの出来事から7年後の高校1年の夏休みに入るまえ、会社員として働く自分の姿がどうも想像できず、大学受験のための勉強を放り投げ、物語や思想の本を読み始めたのを伝えたい。それらの本が、私に思いと感情を言葉に換えて整えるのを教えた。















      







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