飾りじゃないのよ、頭は
こどもの頃の家族旅行と言えば、キャンプだった。
キャンプでは、テントと寝袋さえあれば、他はどうにかなる。
どんな観光地に行こうと、旅館やホテルでの宿泊よりも、ずっと安く旅行を済ませることができるキャンプは、当時の、裕福とは言えない我が家にとって、最適な旅行だったことだろう。
「お金がないから、ホテルなんかには泊まれない。」
小学生の私は、そんなネガティブな思いで、テントでの夜を過ごしていた。
しかし、大学生である今になって考えると、私の両親が経済的な理由だけで、キャンプを選んでいたとはどうにも思えなくなってきた。
それは今の私の「考える」という趣味がキャンプによって、育まれたのではないか、と思うからである。
キャンプ場に着くと私と弟は、決まって、テントの設営を任せられた。どのように建てるか、どんな姿が完成なのか、などのテント設営にとっての重要情報は、決して教えてもらえない。説明書を読んで、設営しなさい、ということだった。父を恐れていた私と弟は、
「建ててみ、じゃないと寝れんよ」
と半ば脅されながら、嫌々、テントの設営にチャレンジしていた。
もちろん、完全に放置されていたわけではない。父は、力のいる作業などでは、私たちの指示によってのみ、手伝ってくれた。また、テントが上手く建たない時には、やってみせる、という野暮な真似はしないものの、テント設営という難題に、一緒に悩んでくれた。
やっとのことで、テントを設営すると、そこでようやく遊ぶことができた。
キャッチボールやキャンプ場探索など、遊ぶことのできる自由をしばらく謳歌していた。しかし、そういった遊びも長く続けてはいられない。
「TVゲームがあれば、、」
そんな考えが頭の中で何度も行き来していたのを覚えている。
今でこそ、キャンプに行くと、
「自然の中で、ゆっくりとコーヒーでも淹れよう」だとか、
「本でも読みましょう」だとか、そういった悠々と時間を過ごすことに楽しみを見い出せるが、小学生の私はそうではない。何をやっても夕食の時間になってくれない。
退屈な時間を消費するために、持っている道具で、様々な遊びを考えた。そのひとつが、ゴルフだ。
ちょうど、野球ボールが入るくらいの小さな穴を見つけた私と弟は、持っていたバットとボールでゴルフを始めた。これが思いのほかおもしろい。父も混ぜた三人の、白熱した1ホールが続いた。当然のことながら、遊んでいる内に、コツを覚え、パーをキープできるようになってくる。そうなると、物足りない。とはいえ、穴はひとつしかないから、打ち始めの場所を穴から遠くしてみたり、穴が見えない位置からにしてみたり、そういった工夫を重ね、「原始的な」ゴルフに熱中していった。こどもの熱中には底が無く、「ご飯の手伝いをしなさい」と叱られるくらいの熱中っぷりだった。
こどもの頃のキャンプのおかげで、テントの建て方や、火のつけ方は、今でも役に立つ。ただ、キャンプで得たものはそういったものだけではないように思う。
なにかを解決するためにも、楽しむためにも「考える」。
これを常日頃から行うようになったのは、こういった経験からだと思う。やはり父は、キャンプを通して私たちに、「考える」習慣を仕込んでいたのかもしれない。
そういえば、テント設営に四苦八苦している私たちに対して父は、中森明菜の大ヒット曲になぞらえて、こんなセリフを幾度となく口にしていた。
「飾りじゃないのよ、頭は。」
ちなみにキャンプ場で、私は泣いたことがある。