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ライターは旅をする

僕は人生で一度も消しゴムを使い切ったことがない。

今はなにか書く時は、ほとんどがボールペンになってしまったから、鉛筆もシャーペンも使うことはないが、高校生の頃までは、筆箱には消しゴムをふたつは入れていた。なぜか最後まで使い切る前には、どこかに行ってしまうから、なくしても困らないように。

今まで、いくつの消しゴムを買い、どれほどの消しゴムを使ってきたかなんて覚えてはいないけれど、10年以上は消しゴムを使う日々を過ごしてきたことを考えると、どれだけの消しゴムが世の中に消えて行ってしまったのだろうか。苦楽を共にした大勢の白い長方形たちに対して、申し訳なささえも感じる。

インドにいると、ライター貸して、と頼まれることが多い。インドで出会った日本人から、もちろんインド人からも、貸してと頼まれるものだから、一日に一度くらいは貸していたと思う。自分が使う機会より、誰かが使う機会の方が多いんじゃないか、と思う日もあった。

ある日、ライターをなくしてしまい、僕自身も借りる側の人間になってしまった。借りる側の人間になってしまったことに、どこかインドへ適応している自分がいるように思えて、少し誇らしい気もしていた。ちょうどそのくらいの時に、ある日本人(Hくん)に出会い、とても仲が良くなった。ライターを貸して、と頼まれた時に僕もなくしてしまったことを伝えると、博多弁で僕にニコっとしながらこう言った。

「そうよね。たぶんライターも旅しよるっちゃん。なくなったライターも誰かが使いよるかもしれんし、もしかしたら、インド人が使いよるかもしれん。バラナシ(滞在していた街の名前)の一部になったんかもね。」

衝撃的だった。一度もそんなことを考えたことがなかった。「モノをなくす」という概念そのものが打ち壊され、自分がひどく狭い世界に生きているような気がした。その時から所有欲というものがあまりなくなった。自分のモノも、家に置く権利にお金を払っているのだと思うようになったし、誰かが持っているライターも、その人がポケットに入れておける権利にお金を払っただけ。僕のモノはみんなのモノ、みんなのモノも僕のモノ。まあ、世の中そんなに甘くはないけれど。

ただ、僕はそうであって欲しいと願っている。というよりも祈りに近いかもしれない。

僕のもとから旅に出たあのライターも、使い始めてすぐどこかに消えて行った消しゴムも、いつの日か自販機に忘れた100円玉も、どこかで誰かの役に立っているのかもしれない。

そんなことを言ったって、もちろん魔法のように火をおこす力を持たない僕たちは、周りをくまなく探し、火をつける手段を考えた。誰かが落としたであろうライターをようやく見つけ、誰が置いて行ったんだろうね、などと白々しくも、想いを馳せながら、火をつけた。

「ライターも旅をする」

良い言葉だな。
Hくんがライターを持っているのを一度も見たことがないけれど。

文:かわづりん instagram
絵:NINA instagram

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