乃木坂46『考えないようにする』のMVはなぜフランス語が使われているのか
2023年8月18日、乃木坂46の33枚目シングル『おひとりさま天国』に収録される5期生楽曲「考えないようにする」のMVが公開された。
センターは冨里奈央。透き通った声のモノローグと光の散る海辺、開始1秒で幻想的な雰囲気に一気に惹き込まれる。
モノローグが30秒ほど続いた後、イントロが流れ始める。が、ここで観る者は違和感を覚えることだろう。
曲名とアーティスト名がフランス語で書かれているのだ。
筆者は大学でドイツ語を取っていたのでフランス語はサッパリなのだが(英語もドイツ語もサッパリなのだが)、前者はそのまま「乃木坂46」、後者は「考えないようにする」という意味なのだろう。ためしにDeepLにぶち込んでみたところ「何も考えていない」と出てきた。なんか違う。Reversoで英訳すると「I try not to think about」が候補に出てきた。日本語に最も近い訳はこれだろう。
それだけではない。最後に出てくるスタッフクレジットにも、「chorégraphe:Seishiro」「un film de Takuro Okubo」などとフランス語らしき言葉が並んでいる。
ではなぜ、フランス語なのか。結論から言うとそれは、我々に「pense」というキーワードを与えるためである。
カギを握るのは、ふたつの『パンセ』だ。
「植物だって」の本は何なのか
「Je n’y pense pas」のpenseは「思考する」という意味のフランス語penserの変化形である。前述のとおりフランス語はサッパリな筆者だが、「パンセ」という言葉には覚えがある。フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの著書『パンセ』だ。原題はPenséesで、日本語では『瞑想録』などと訳される。
『パンセ』に登場する「人間は考える葦である」という一節には、聞き覚えがあるという人も多いだろう。人間は葦のようにか弱い生き物だが、中が空洞の葦とは異なり、人間の中には思索が詰まっている。だから人間は尊いのだ。と、まあこのような意味だと言われている。
しかし『考えないようにする』には次のような歌詞が出てくる。
パスカルは「人間は動物と違って思考する、だから尊い」というようなことを述べているのに、ここで歌われているのは真逆の内容の本である。なぜなのか。
主人公が思い浮かべている本が『パンセ』ではないから?もちろんその可能性もあるが、筆者の考えは違う。
思うにそれは、「考えないようにするから」である。
『考えないようにする』を紐解く
『考えないようにする』は、主人公(おそらく女性)と親友(男性と女性)の3人の関係を歌っている。何をするにも3人一緒だった。いつしか主人公は、親友の男の子に淡い恋心を抱くようになっていた。しかし、彼は親友の女の子と付き合っていた。彼が私に振り向いてくれることは無い。それでも、近くにいるだけで幸せだった。はずだった。
それでも彼に対する恋心は抑えられなかった。諦めなきゃいけないのに、どうしても彼のことが頭から離れなかった。
だから、考えないようにする、ことにした。
主人公はその昔、パスカルの『パンセ』を読んだことがあったのだろう。人間は他の動植物と異なり、思索する。だから尊い。しかし、好きな人と親友との関係に揺れ動き、考えるのに疲れてしまった。だから「考えないように」した。『パンセ』の記憶も、適応障害に近い反応かもしれない、「植物だって私たちと同じ」という内容にすり替わった。「読んだ気がする」とぼかしてあるのはそのせいか。
もうひとつの『パンセ』
『考えないようにする』のMVは静岡県立美術館で撮影された。ロダン館に展示されているオーギュスト・ロダンの作品群が目玉で、『地獄の門』の前で踊るシーンや、冨里奈央が『考える人』を見つめるシーンなど、MV内でもロダンの作品が印象的に用いられている。
冒頭で筆者はふたつの『パンセ』に言及した。ひとつはパスカルの『パンセ』。そしてもう一つが、ロダンの『パンセ』だ。
『パンセ』のモデルとなったのは、ロダンの弟子であり、愛人でもあったカミーユ・クローデルという女性だ。ロダンには無名だった頃から苦楽を共にしてきた妻のローズがいたが、カミーユの才能に惚れ込んだ彼は、カミーユとも関係を持ってしまう事になる。長らく愛人関係にあった二人だが、三角関係に苦しんだカミーユは、自身とローズのどちらを取るかロダンに迫る。ロダンはローズを選び、離別したカミーユは統合失調症を発症。施設でこの世を去ることになる。
『考えないようにする』の主人公も、三角関係に苦しんでいる。好きな人と親友には幸せになってほしい。それでもどこか諦めきれない。素直に祝ってあげられない。けれど、「醜くはなりたくない」。
主人公は、自身とカミーユとを重ね合わせていたのではないだろうか。
カミーユは妻も子もいる師と関係を持った。15年も関係を続けた。しかし最後には捨てられ、精神を蝕まれ、寂しくこの世を去った。
統合失調症を醜いとか言いたいわけではない。あくまでここで言う醜さとは、友を憎み、好きな人を奪ってしまう、そんな自分の未来だろう。ただ不貞行為の末に心を病んで寂しい最期を迎えることが、少なくとも三角関係に悩む身からすれば「なりたくない」結末であることは想像に難くない。
だから、考えないようにする、ことにした。
タイトルのとおり、『パンセ』のカミーユは考えている。ロダンの事か、ローズの事か、これからの事か。考えた末に、寂しい最期を迎えた。主人公にとって思考とは、醜い自分となりたくない結末の象徴だ。だからカミーユのようには、考えないようにした。それでも……。
考えなくていいように、喋る。それでも考えてしまって、黙る。
悩んでいる姿には気づいてほしくない。あなたが振り向いてくれたら、私はきっと、醜くなってしまうから。
それでも、あなたの近くにいたい。考えないようにするけれど、あなたを頭の中からは追い出すけれど、せめて物理的には、隣にいたい。
カミーユのようにはなりたくない。それでもなお、カミーユのように、考えてしまう。
『パンセ』と『考える人』
『考えないようにする』のMVには、『考える人』を見つめる冨里奈央のカットが2回、挟まれる。
MVの中で冨里は、恋愛でこそない(たぶん)ものの、人間関係に悩んでいる。
他の5期生はクラスメイトだろうか。3人ずつのグループで固まっている。時折、歌詞に沿って1人歩調が合わなくなるけれど、他の2人が駆け寄って来て、結局元の3人に戻る(余談だが、池田瑛紗と菅原咲月の仲良さげな様子を離れて眺める中西アルノの表情が、筆者は大好きだ)。
しかし、冨里はどこにも所属していない。「同調とバラバラ」。これが彼女を悩ませる。だから一人で本を読む。考えないように。それでも時々、「まただ、考えてしまう」。
だから沈思黙考の象徴たる『考える人』に問いかける。あなたは何を見て、何を考えているのか。答えは出ない。だから冨里はまた、考えないようになってしまう。
MVの冒頭で「pense」というヒントを与えられた我々は、ロダンというトリガーを経て、同じ「考えている人」である『パンセ』へとたどり着く。『考える人』を見つめる冨里は、『パンセ』のカミーユと自身を重ねてしまう主人公の暗喩なのだ。
考えてしまう
MVの終盤、冨里は井上和から声をかけられ、再びモノローグが始まる。しかし、冒頭のモノローグとは明確にトーンが異なる。「同調とバラバラ」に悩まされるのは相変わらずだが、「同調とバラバラ」が生まれるのは、仲間がいるからだと気づくことができた。
「あっ。また、考えちゃった。」
笑顔でそう語る冨里の目には、一点の曇りもない。
悩みから逃れるため、考えないようにする、ことにした。それでも考えてしまった。けれど考えたことで、まだ見ぬ景色へと至ることができた。
『考えないようにする』のMVは、パンセ、すなわち思考への誘いなのだ。
おわりに
MVの公開直後、X(旧Twitter)に次の投稿がなされた。MVを監督した大久保拓朗氏の兄、大久保清朗氏のアカウントである。
考えすぎだったようだ。
参考文献
以下に掲げるウェブサイトはすべて2023年8月19日最終閲覧である。