Episode 024 「授業中に圧倒的な屁が出た。あなたなら、どうする?」
音楽の授業に関しては、正直ほとんど記憶にない。唯一憶えているのは、ドラムセット(ドラムセットの名称。例:シンバルなど)について音楽の先生が説明をしていた際に、我々生徒に向かって質問をしているシーンである。タムタム(バスドラムの上に(通常)二つくっ付いている太鼓)を指差し、「この太鼓の名称を分かる人いますか?」という質問に対し、ベトナム人で可愛らしい顔をしたDuy(イー)という男の子が、「Tam Tam(タムタム)です」、と答えていた。因みに、私はその名称を知らなかった。
尚、演劇の授業に関しては、音楽の授業以上に、全く記憶がない。唯一憶えているのは、おそらく、人前でそんなに派手にオナラをしたのは初めて、というくらいの勢いでオナラをしてしまった事くらいだ。誤魔化しがきかない程のオナラであった。
図工の授業に関してはmetal workという、金属を扱う内容のものであったり、Wood workという木材を用いて何かを作る内容の授業であったり、また、electric workといって、電気系の作業をする内容の授業もあった。尚、electric workのとある授業で、ソフトウェア上にて配線を繋ぎ、電気を点滅させる、という内容の作業があったのだが、あまり上手くできなかった記憶がある。個人的には、wood workが好きだった。まな板を作った記憶がある。そしてそのまな板はBromptonの家(Episode013参照)のキッチンに飾ってあった記憶が、うっすらとある。まな板の他に、同じく木製のスプーンとフォークを作った。記憶が正しければ、母親はこの三点(まな板、スプーン、フォーク)を揃えてキッチンに飾っていた。赤いリボンが付いていた記憶がある。
コンピューターサイエンスの授業は、主にウェブサイトの作り方などを習うという事が本来の目的ではあったのだが、実際にはネットサーフィンをして時間が過ぎていった記憶がある。だらだらとネットサーフィンをして、数ヶ月を過ごし、クラスのほとんどが、本来提出するべき課題の作品(つまり、ウェブサイト)を完成させる事ができず、当時(その授業の)先生であったMr.Blackに怒鳴られた記憶がある。
尚、ちょうど8年生か9年生の頃にPCがガラリとアップル社のiMacに変わった。ある日学校に来ると、今までのグレーのコンピューター(つまりデスクトップ型のPC)が鮮やかなエメラルド色のiMacにガラリと姿を変えていたのである。尚、余談になるが、iMacはスティーブジョブスがアップル社に復活した際に、アップル社の生き残りを掛けて世に送り出した作品である。また、この商品の広告は素晴らしくかっこいい。このクリエイティブを担当したのは、アメリカの広告代理店TBWA CHIAT DAYだ。
尚、2021年にジョナサン・アイヴという、アップル社のプロダクトのデザインの責任者を務めていた人の書籍を読んだのだが、その(本の)中でiMacの開発に纏わる話があった。ラップトップとは異なり、iMacを含む「デスクトップ型」のコンピューターは本来「移動させる」という事を考慮して設計(またはデザイン)されていない。そんな中、iMacには「取っ手」が付いている。もちろん、その取っ手は、移動させるため、ではない。どうやら、このアイディアはスティーブ・ジョブスの考えであるらしく、つまり、それまでのコンピューターのイメージ(堅苦しく、親近感を抱き難い)とは全く異なるものを目指していた、との事である。「手に取って触ってもらい、コンピューターというものに親近感を抱いて欲しい」という理念を形にしたものが、まさに最終的なデザインに「取っ手」をつけさせるまでになったのだそうだ。
アデレードハイスクールでは、(明確に憶えてはいないが、恐らく9年生または10年生のタイミングから)必須科目として外国語を選択する必要があり、私は中国語(マンダリン)を選択していた。先生の名は、Mrs. Eastwood(イーストウッド先生)といった。黒縁(または、赤縁だったかもしれない)メガネを掛けた、細い女性だった。しかしながら、中国語を習い始めてから少ししたタイミングで「今日から、先生の事はミス・リャングと呼んで下さい」という内容を告げられた。どうやら、離婚をして、旧姓に戻ったとの事だ。
中国語は発音が圧倒的に難しく、なかなか苦戦した。因みにだが、恥ずかしい話、私はこのタイミング(中国語を習い始めるまで)まで、日本語の基盤となっているのは中国語、という事実を知らなかった。「中国語って、日本語と似てるなぁ。(中国語と日本語における)多くの漢字も同じ意味を持ってるみたいだし」と、あたかも「偶然」かの様に捉えていた。バカの極みとは、当時の私である。
尚、クラスの殆どはアジア系(ベトナム人やカンボジア人など)が多かったが、その中で、スティーブンというオーストラリア人の、プロレス好きの生徒がおり、彼は私の隣の席によく座った。授業中、彼とはサッカーの話ばかりしていた。また、彼はなぜか各国の(サッカーの)代表のユニフォームを絵で描く事ができた。日本代表のユニフォームもスラスラと考える事なく描いていた。まるで自分の名前を書くくらい自然に。因みにその時彼が描いた代表のユニフォームは、トルシエが監督だった時(2000年頃)のユニフォームだ。
彼は、Matthew(マシュー)という他にプロレスが好きだった友達とともに、休み時間になると広大な芝生の校庭の片隅で、二人でプロレスの技を掛け合って遊んでいた。その様子が、我々がサッカーをしていた場所からちょうど視界に入るか入らないか位の場所であったのも、可笑しくて仕方がなかった。
美術の科目に関しては、確か先生(ファションなどを含む見た目)がアーティスティックな先生であった記憶がある。
この様に、正直、アデレードハイスクールに入学(Episode022参照)してから最初の数年(特に8年生および9年生の記憶)の記憶は、いささか曖昧になっている。その理由は、今になって冷静に考えるとおそらく、学校を楽しむという余裕が未だ(自分が望むより)無かったからだと思われる。多分。