【特別掲載4/5】三秋縋『あおぞらとくもりぞら』(原作版)
三秋縋さんのサイト「げんふうけい」と同時掲載。
※こちらの原稿は、初期バージョンから大幅に加筆・修正が施された改稿バージョンとなります。
★最初から読む場合はこちら ⇒ 【特別掲載1/5】三秋縋『あおぞらとくもりぞら』(原作版)
★loundrawさんによるコミック版はこちら ⇒ 第一話「Blue sky?」
『あおぞらとくもりぞら』
三秋 縋
88.
目を覚ますと、緑が一杯でした。
頭上から声がしましたが、上手く聞き取れませんでした。
徐々に、意識の焦点が合ってきました。
僕は自分が地面に横たわっていることに気づきました。
眼前に広がる緑は、敷地に生い茂る雑草でした。
「おい、大丈夫か?」と頭上で誰かが言っています。
ゆっくりと起き上がると、立ち眩みがしました。
上手くいったみたいだな、と僕は一安心します。
「よかった、生きてたか」
僕を救ってくれた農作業着の男は言います。
片手には、剪定ハサミが握られています。
そのハサミで、僕を吊っていた縄を切ったのです。
89.
彼が僕を見つけたのは、もちろん偶然ではありません。
首を吊る直前、お喋りをして時間稼ぎをしているあいだに、
僕はこの男を操って近くまで呼び寄せておいたのです。
上手い具合に、意識を失った直後に助けてもらえるように。
近くの倉庫にあった剪定バサミを握らせて。
後任の掃除人は、僕が死んだと思い込んだことでしょう。
これで、しばらくは時間が稼げるはずです。
もっとも、時間を稼いだところでどうなるという話でもないのですが。
90.
僕を助けてくれた初老の男は、困ったような顔で言います。
「なあ兄ちゃん、そういうのはよそでやってくれねえかな。
こんな近所で自殺なんかされちゃ迷惑なんだよ」
僕は首に巻きついていた縄を外し、ふうと溜め息をつきました。
それから男に礼も言わず、足早にそこを立ち去りました。
正確に言えば、僕は礼を言わなかったのではなく、言えなかったのです。
操作に逆らったせいで、体のあらゆる部位がずきずきと痛みました。
特に、無理に喋り続けたせいで、発声器官が軒並みやられていました。
白い陽炎の中をふらふらと歩きながら、
僕がぼんやりと考えていたのは、やはり青空のことでした。
彼女はもう、殺されてしまったのでしょうか。
91.
アパートに着き、自室の鍵を開け中に入ると、
服も脱がずにベッドに体を投げ出しました。
部屋はひどく蒸し暑いのですが、
冷房をつける気力さえ残っていません。
からからに喉が渇いていましたが、
体を起こして台所に行くのさえ億劫でした。
痛みと疲労が、世界のすべてみたいに思えます。
それ以外については、何も考えられませんでした。
こんなことなら大人しく殺されておけばよかったかな、と後悔しました。
なんだったら、後続の掃除人に殺される前に、自分から死んでしまおうか。
長いあいだ、僕は身じろぎひとつせず、死んだように停止していました。
青空、と僕は無意識に彼女の名前をつぶやきました。
「はい」と返事が聞こえました。
92.
僕は痛みも忘れて跳ね起き、辺りを見回しました。
玄関口に、見慣れた女の子の姿がありました。
彼女は後ろ手にドアを閉めると、僕の目を見て微笑みます。
「お久しぶりです、くもりぞらさん。
私のこと、覚えてますか。あおぞらですよ」
そう言うと、我が物顔で人の部屋を歩き回り、
冷蔵庫から勝手に缶ビールを取り出して飲み始めます。
僕は安心して、再びベッドに横になりました。
全身の力が抜けていくようでした。
青空はビールのロング缶をひとつ空にすると、
ふらふらとした足取りで僕に近寄ってきます。
顔はうっすら赤く、酔っ払っている様子です。
「くもりぞらさん、最近ぜんぜん姿を見せないから、
私の方から会いにきちゃいました」
93.
「……なんか、今日は元気ないですね?」
ベッドの端に腰かけた青空は、僕を見下ろして言います。
「私と会えなくて寂しかったんですか?」
僕は「後で見てろよ」という目で青空を睨みます。
「睨んでも怖くありませんよ。動けないんでしょう?
あ、もしかしてあれですか? 掃除人に殺されそうになったけど、
死ぬのが怖くて、命からがら逃げ出してきた感じですか?」
僕の表情を見て、青空は自分の推測が当たっていたことに気づき、
嬉しそうに笑いながら僕の肩を人差し指でつつきます。
「やっぱり。実を言うと、私もそうなんです。
おかげで昨日は、激痛で丸一日動けませんでした。
ちょうど今のくもりぞらさんみたいになってましたよ」
いくらつついてもまったく抵抗しない僕を見て、
青空は何か思いついたように目を細めます。
「これは、千載一遇のチャンスですね」
94.
青空は僕の体を無理やり引き起こすと、
僕の背後に回り、僕の首に右腕を巻きつけました。
「首を絞められたときの仕返しです」と青空は言います。
しかしその腕には大して力がこもっておらず、
ただ後ろから抱き締められているみたいな気分になります。
以前触れたときの青空の体はひんやりとしていたのですが、
今日の青空の体はやけにぽかぽかしていました。
心地よい沈黙が続きました。
「……私、酔っ払いですから」青空は僕の耳元で囁きます。
「酔っ払いですから、これから変なこと言いますけど、
それは酔っ払いだからです。だから気にしないでください」
95.
「なんで最近、いやがらせしてくれないんですか?」
青空は僕の背中に顔を埋め、ぼそぼそと言います。
両腕はだらんと垂れて、僕の胸の前で交差しています。
「どうして私にちょっかいかけてくれないんですか?
どうして私の好きにさせておくんですか?
つきまとってくださいよ。連れ回してくださいよ。
邪魔してくださいよ。困らせてくださいよ」
青空の人差し指が、僕の胸をとんとん叩きます。
「ちょっとさみしいじゃないですか。
さみしいのが、私は好きなんですよ。
だからそれを邪魔してくださいよ。
そういうのが、くもりぞらさんの役目でしょう?」
96.
僕は苦労して身を捩り、青空と向かい合いました。
そして、今僕が一時的に発話能力を失っていて
返事ができないのだということを説明しようとして、
自身の口を指差してから両手の人差し指でバツ印を作りました。
すると、青空は何をどう勘違いしたのか、
「だめって言われると、したくなります」と言って、
僕が指差したところに自分の唇を重ねてきました。
そうやって散々にこちらの気持ちを掻き乱したあと、
すうすうと寝息を立てて眠ってしまいました。
僕は溜め息をついて、肩を竦めました。
それからひそかに、さっき死ななくてよかった、と思いました。
97.
青空の寝顔を見ながら、僕は考えます。
いつから、彼女に惹かれていたのでしょうか。
夏休みを共に過ごすうちに、情が移ってしまったのでしょうか。
いや、多分そうじゃない、と僕は思います。
僕は、最初からずっと青空に惹かれていたのです。
七人目の標的として彼女を知った、その瞬間から。
あれこれ理屈を付けて僕は青空の殺害を先送りにしてきましたが、
結局のところ、それはひとえに彼女に恋をしていたからなのです。
彼女は、”あまりにも僕にそっくりだったから”。
98.
青空の寝息を聞いているとこちらも眠くなってきたので、
彼女の頭をくしゃくしゃ撫でたあと、その隣で横になりました。
それから僕は、これまでに殺した六人の標的に思いを馳せました。
もしかすると、その六人の中には、誰かにとって大切な人——
僕にとっての青空のような人がいたのかもしれない。
そう思うと、ひどく虚しい気持ちになりました。
取り返しのつかないことをしてしまったんだな。
今さらのように、自分の罪深さを実感しました。
僕と出会った頃の青空も、きっとこんな気持ちでいたのでしょう。
目を覚ますと、体の痛みは引いていました。
僕が冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んでいると、
青空がむくりと上体を起こします。
「いつまで人のベッドで寝てる?」と僕は言います。
「おはようございます」青空は瞼を擦り、僕に微笑みかけます。
ビールを飲みながら「そろそろ帰れ」と言ってみましたが、
青空は眠たげな目で「いやです」と首を振りました。
99.
青空はベッドの上に三角座りすると、
しばらくのあいだ、じっと黙り込んでいました。
眠りに落ちる前の自分がした一連の行為を思い返しているのでしょう。
青空は急にしゅんとして、うつむいて言いました。
「あの……さっきはなんか、べたべたしてすみません」
「おお、ちゃんと覚えてるんだな」
「あ、そっか。忘れてることにしとけばよかった」
青空はしまったという顔で頭を抱えます。
それから顔を上げ、僕のビールを指さして言います。
「くもりぞらさん、私にもお酒ください。
今度は酔ってて覚えてないことにして、色々するので」
「そろそろ帰れ。時間が時間だ」
「時間が時間で時間ですね」
青空はそう言って一人で笑います。
「いやです。帰りません」
100.
まあいいか、と僕は説得を諦めます。
考えてみれば、僕も青空も、既に死が確定した身なのです。
次の瞬間には、体を操られて自殺させられているかもしれないのです。
今さら彼女を家に帰してどうなるというのでしょう。
多分青空は、一連の行為を通して僕にこう言ってくれているのです。
「もう私たちには先がないんですから、最後くらい素直になりませんか?」
僕たちは並んでベッドに座り、壁にもたれて、
明かりを消した部屋の中で静寂に耳を澄ましていました。
「……なあ、青空」と僕は言いました。
「こんなことを訊くのは、俺が酔っ払ってるからなんだが」
「まねしないでください」青空が可笑しそうに言います。「なんでしょう?」
「俺がお前にしてやれる、一番のいやがらせってなんだろう?」
彼女は目を見開き、僕の顔をじっと見つめました。
「くもりぞらさんは、私を幸せにする方法が知りたいんですね?」
「そういう言い方もできるかもしれない」
すると青空は穏やかな笑みを浮かべて言いました。
「それはですね、くもりぞらさんが幸せになることです。
くもりぞらさんの幸せは、私の幸せです。すなわち、
私への一番のいやがらせは、くもりぞらさんが幸せになることです」
101.
それから青空は僕に訊ねました。
「ねえ、くもりぞらさん。ずっと思ってたんですけど、
私、くもりぞらさんについて、なんにも知らないんです。
そう……たとえば、私は音楽が好きです。
それはくもりぞらさんも知ってるでしょう?」
「ああ。見た。悪くない趣味だと思う」
「……くもりぞらさんに褒められた」
青空は目を見開いて大袈裟に感動します。
「——あ、ええっと、話を戻しますけど、
くもりぞらさんは何か好きなことありますか?
私も知りたいんです。くもりぞらさんを幸せにする方法」
102.
僕は口を開きかけましたが、答えらしい答えを思いつけませんでした。
この数週間青空のことしか考えていなかったので、
自分の望みや願望というものをすっかり忘れてしまったようです。
いや、そういう問題ではないのかもしれない、と僕は考えを改めます。
思えば、掃除人になる前から、僕は自分の幸せというものに無頓着でした。
楽しみらしい楽しみが何ひとつない人生を歩んできました。
二十年にわたる人生の中で、本気で楽しんだことと言えば、
青空へのいやがらせくらいのものだったかもしれません。
生まれて初めて、僕は自分の幸せについて真剣に考えていました。
103.
「仕方のない人ですね」見かねた青空が助け船を出してきます。
「なんでもいいから、好きなものを列挙してみてください」
彼女に言われた通り、僕は頭に浮かんできたものを列挙しました。
時計。観覧車。オルゴール。風車。ひまわり。メリーゴーラウンド。
青空はしばらく考え込んだ後、こう言いました。
「つまりくもりぞらさんは、ゆっくり回るものが好きなんですね」
「ゆっくり回るもの……」僕は彼女の言葉を繰り返します。
確かに、いずれも時間をかけてゆっくりと回転するものです。
「そうだな。俺は多分、ゆっくり回るものが好きなんだろう」
すると青空は自身を指さして言いました。
「私と、どっちが好きですか?」
この子は何を言っているのだろう、と僕は首を捻ります。
青空はもう一度自分を指さして言います。
「ゆっくり回るものと、私」
「ゆっくり回るもの」と僕は答えます。
「……じゃあ、ゆっくり回る私」
青空は立ち上がって、ゆっくり回り始めます。
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