【2つめのPOV】シリーズ 第6回「しがみつく」パターンA〈ユスタシュの鏡〉[side:D] まとめ記事 (No.0240)




 ジリジリジリジ


私は時間通りに鳴り始めた目覚ましを素早く止めた。


現在マルロクマルマル時。


この長く使っている古めかしい目覚まし時計は、今朝もきちんと努めを果たしてくれた。


頭にベルが付いて赤い塗料がぶ厚く塗られたこのドッシリと重いゼンマイ式目覚まし時計は、本日も私の期待に応えて問題なく努めを果たしてくれた。


まだまだ使える。


私は新しい物よりも、きちんと使える事が証明されている中古品の方を重用することを信条としている。


こいつにはもっと頑張ってもらうつもりだ。


私は目覚ましを置き、すぐに食事の準備にかかった。


冷蔵庫を開けて、昨夜から用意しておいた四角いアルミ製の飯盒を取り出した。飯盒の中には既に白米と麦が水と一緒に入っている。
これもいつもどおりだ。


歩くとタプタプと中の水が揺れて零れそうになるのを意識しながら、狭い台所へ行き、本来ガスコンロが置かれる場所に用意してあるアウトドア用の五徳の上に飯盒を置いた。


手が空くと、今度はコンロ下の収納からポケットストーブとアルコールストーブ、消毒用エタノールのボトルを取り出した。


大きめのトランプカード束のような形のポケットストーブを真ん中から開き、上向きに空間の空いたコの字型に変形させる。次にオートバイのガソリンタンクの蓋みたいな形のアルコールストーブの中にボトルから水で薄めたエタノールを注ぎ入れ、ポケットストーブの中に置く。


五徳に置いた飯盒をポケットストーブの上に移し、マッチでアルコールランプに火をつける。


これでよし。


このまま飯盒は放っといて次にシャワーを浴びる。


シャワーを終えバスローブを羽織ると、アルコールランプの火は消え、飯盒の側面には新しい吹きこぼれ跡が出来ていた。


私はバスローブのまま、手製のミトンを付けた手で飯盒を再度五徳へ移してランプ類を収納へ戻した。


そして同じ収納にしまってある、アウトドア用カトラリと裏地にタオルを当てた帆布製の袋、そして藤カゴにズラリと並んだレトルトパック類の中から本日は親子丼をひとつ取り出し、まとめて飯盒と一緒に袋の中へ入れた。


レトルトと一緒に入れる事で袋に遊びが無くなり飯盒は揺れず、飯盒内の米も自身の予熱で蒸しあがるしパックも温まるのだ。


続いて電気ケトルで湯を沸かし朝食の準備をする。
今炊きあがった飯盒飯は昼飯用である。


玄関を開け今朝配られたばかりの牛乳を取り、冷蔵庫からはまんじゅうを2つ出して朝食を始める。


朝はいつもこれだ。


今時、宅配の牛乳を契約するのも珍しいかも知れない。しかも私のような貧乏な独身の男がだ。


だが新聞を取るより余程良い。契約している牛乳屋とは近所で親しくしているし、経営者も信頼できる男だ。


地元を守る為にも、今後も契約は続けるつもりだ。


牛乳なんて何処で買っても同じだと言うのなら、こうして購入しても問題は無い。


さっくり食べ終えると湧いたお湯でマグカップと水筒にお茶を入れる。水筒はいつも必ず2本用意する。ひとつは蓋がコップになる旧式のタイプ。こっちには熱いお茶を入れ、もうひとつのマグボトルタイプには冷蔵庫で冷やした水を入れる。


食後のお茶を飲み終えたらマグカップと牛乳瓶を流しで濯いで、逆さにしておく。


よし。


私は着替えると、飯盒を入れた袋と水筒を机に置いた。


読書や物書きに使うその机には、既にズラリと様々な物が並べてある。


これもまた、いつものことである。


私はいつも、外出時に持っていく物はカバンに入れっぱなしにせず出して並べておく。


財布ヨシ、携帯ヨシ、タオルヨシ、歯磨きポーチヨシ、弁当ヨシ、水筒2本ヨシ、ICレコーダーヨシ、ボディカメラヨシ、リモコンヨシ、デジカメヨシ、ノイズキャンセリングイヤホンヨシ、COB型LEDライトヨシ、ウインドブレーカーヨシ。


指差し呼称を終えたあと、荷物を机の下に置いてある四角いリュックサックにしまい込む。


財布と携帯はズボンのポケットへ入れ、ボディカメラは上から羽織ったパーカーの腹のあたりに自分で縫い付けた手製のポケットに装着した。


そのボディカメラのリモコンは、キーホルダーのようにベルトループにカラビナで引っ掛ける。


うん。出来た。


準備完了。


これからいつもの平日通りにバイト先へ向かう。


キャップを被りリュックサックを背負うと、いつもながらその重さに物々しさを覚える。


バイトに行くだけなのに、これだけの重装備がはたして必要なのだろうか?


その気持ちが一瞬よぎるが、必要なのである。


残念ながら、今の私には、いや今の時代には必要なのだ。


必要になってしまったのだ。


かつてはそんな事はなかった。
アルバイトへ行くだけなのにボディカメラまで取り付け、遠隔で素早く録画出来るようにリモコンをぶら下げて生活する必要なんか無かった。


だが今はそれが必要になってしまった。


数年前に起きたウイルス騒動から、こんな装備が必要な世界に変わってしまったのだ。


騒動が始まった当初から、私にはそれが大嘘であることが分かっていた。

だがそれは私が特別なことをした訳ではなくて、普通にスマホで調べたり常識的に考えたりしただけだった。

そして日が進むにつれ、次々と誰の目にも明らかに嘘であるとしか判断出来ない情報が飛び込んでくるようになったのだ。

私はそれほどITに詳しくないしスマホも四六時中眺めていないが、それでも造作無く正しい情報が得られ、そこから答えを簡単に導き出せた。


明らかに政府はその騒動を広めようと煽っていたし、マスコミはそれを拡大させる大きな役割を積極的に果たしていた。


残念ながらこれもいつもどおりであった。
100年近く前と全く代わり映えの無い光景である。


だから私は初めから一度たりとも、そのウイルス騒動に恐れを覚えたりはしなかった。ただただ呆れていたし、騒動に乗じている者たちに怒りを覚えていただけだった。


煽る者たちや、騒動に乗っかって小銭を稼ごうと藻掻く連中を侮蔑の視線で睨んでいただけだった。


しかし、それに気を取られているがあまりに、大切なことに気づくのが遅れてしまったのは私の油断であった。


その大切なこととは、これが "戦争" であるという事実だ。


この騒動は世界規模で同時に巻き起こされたものだが、国や地域によって対応や振る舞いが違った。


考えてみればおかしな話で、同じウイルスでトラブルが発生しているのにどうして対応が変わるのか?


私は自分の周りの連中を睨みつけているうちに近視眼的になってしまっていたせいで、考えがそこまで及ぶのに時間がかかってしまったのだった。


政府が煽り、マスコミが乗じて、国や地域で態度が違う。


この状況はまさに戦争だった。


そしてそれに気づいた瞬間から、私の生活は今のように物々しい装備に変わったのだ。


身体に装備した様々な道具は、言わば兵器、武器である。


何しろ今は平時ではないから。


ここは戦場だから。


空手で生活することはありえない。


しかし実は、現在はそのウイルス騒動も収縮し沈静化しているのだ。


つまりこの戦争は、今はもう終わりに向かっている状況なのだ。


ウイルス騒動を煽りに煽った者たちが敗走し、責任を逃れ罪を擦り付け合う醜い振る舞いが、誰の目にも触れられるようになった。
マスコミのウソを本気で信じ込み恐れていた人たちも、既に顔から汚らしい雑巾を剥ぎ取り出したのだ。


連日、政府自治体から各家庭のポストへ投函されるワクチン赤紙も、誰もがただのゴミとして扱うようになった。
毒物であるとバレたことで、心を動かすものはいなくなっていたのだ。


ただ、この数年間の騒動のなか、マスコミによる情報工作作戦によって、無残にも自分たちの考えや、これまでの人生観や常識を破壊された被害者たちは少なくない数出てしまった。


その人たちは我先にと積極的に毒物を自分に、家族に、親に、そして子供に、果ては赤子にまで打ち込んでしまったのだ。


その人たちは、もうそれから何年も経っているが現在もベッドで苦しんでいる。その毒に耐えきれない身体の人は既に死んでしまった。


この人たちは毒物で殺された。


だけど本当はそうではない。


彼らはこの戦争の敵国である『上級国民軍』による ”無差別情報絨毯爆撃” によって思考と情感を爆殺され、それが命を奪ったのだ。


正しい思考と情感を破壊される事で、人は誤った行動を起こすようになる。


嘘、偽り、デタラメ…


それが人を過ちへと進ませ、そして自ら滅びに向かうのだ。


この戦争に宣戦布告は無い。
いやすでに何度と無くされてきたと言っても良い。
それも、いちいち粒立てすることが出来ないほどの回数である。


この戦争は『上級国民軍』対『下級国民軍』による世界全面戦争である。


でも考えてみればそれもまた別に珍しいものではない。
いつの戦争だってそうなのだから。一見、国対国や人種対人種のように見える戦争だって、そのように教えられてきた歴史だって、上の組織や人間同士は常に繋がっているのだから、結局はどの戦争も今回と同じ構図なのだ。


何も変わっていない。大昔と何も。


そう思える。


いやそう思えたのだ。


それは私達『下級国民軍』もだが、敵国の『上級国民軍』もそう思っていたのだ。


だが、それが間違いだった。大きな間違いだったのだ。


これは敵国にとっては痛い事実だ。だから彼らは気づけなかった。


誰でも自分の弱い部分には目をつぶるようにする。
だから自分で気づくことが出来ないが、他人にとってはその部分が嫌と言うほど目に着く。


この戦争はこれまでとは全く違った。


我々『下級国民軍』には、これまでの時代では絶対に得られなかった
最大最高の『武器』が、タダ同然で与えられていたのだ。


私はそれを得た。


この戦争が始まる前から貰っていた。


だから開戦しても動じることはなかった。
気づくのに遅れたのは失態だったが、なにぶん宣戦布告と受け取れるものが世の中に溢れすぎていて目移りするほどだったので、いつ火蓋を切ったのかと言われてもなかなか線引きが難しかったのだ。


開戦の前から私の生活は今のようになっていた。
生活はシンプルで自炊中心になった。


シャンプー、洗剤、歯磨き粉などの消耗品の類もほぼ購入しなくなり、クエン酸や重曹、粗塩、にがり、マグネシウムペレットなどを常備し、必要な品を自作するようになった。


そして日々、外へ出歩く際に、それが近所であっても重装備で移動するようにもなった。当然である。
一見外は何気ない日常に見えるが、そこはいつでも戦場なのだから。


ガチャガチャと様々な道具が歩くたびに両肩に存在を主張する。
その多くの機能がスマホ一台で成立するものばかりだ。だから多くの人はそのようなことをしない。それはそれで素晴らしいことである。
これもまた、過去の戦争とは全く違う『我々』の強力な武器である。
現代だけが使える武器である。


しかし同時に、昔から「餅は餅屋」という。
案外私はこの言葉を重く受け止めていたのだ。
それは自分でも気づけなかったことだった。


なかなかに古臭い格言だが、いざこの戦争の存在に気づき、自分たちの周りが完全に "戦場" であることを認めたときに、このカビの生えた言葉に行き着いた。


何かを兼ねた物はとても便利だ。
スマホはあらゆる機能を兼ね備えた万能の道具だ。
それは素晴らしいし私も大いに利用している。


だがこの世界にはルールがある。


それは「単純なものほど壊れにくい」というルールである。


ものは複数の部品から出来ているが、その部品が少なければ少ないほどに壊れにくいものである。


これはあくまで原則なので複雑であっても頑健なものは存在する。それは確かだが、この原則を基準にすると悩むこと無くすぐに判断が出来る。


そして機能がまとまったものはあくまでそれ一つであるが、バラバラの機能をそれぞれもったものはその数だけ存在する。


つまりはスマホを一つ無くしただけ、壊しただけで全てを失うが、デジカメやICレコーダーやLEDライトや小銭や札やカード類や鍵をバラバラに持っていれば、たとえそのうちの一つを失っても他は問題ない。
何でもそうだが、一つにまとめるというのは危険なのだ。


それに、まとめられたものは使いづらいのだ。
本当に信頼してその機能を使おうとすると、やはりそれぞれ単体の機能を持ったもののほうが圧倒的に使いやすく信頼出来る。


繰り返すが現在は平時ではない。戦時だ。


ならばどういう判断をすればいいかは明白で、当然扱いやすく信頼が出来、そして破損や紛失も警戒した状態が望ましいのだ。


準備は済んだ。
ではこれから移動を行う。


私は玄関で靴を履き、目の前にあるドアと向き合った。


「ではこれより戦闘開始。 今から一切の油断を禁ずる。 正義を信じ恐れを抱かず戦い抜き、本日も無事に帰宅できることを祈る。」


開戦以来、この瞬間に覚悟を決めることが習慣になった。


ガチャリ


まだ初夏と呼ぶには早い時期にも関わらず、外はもうすっかり明るかった。
古びたにも程があるこのアパートの二階角部屋。
玄関を開けると、目の前には腰程度の高さしか無い鉄柵があり、一歩前へ出るとそのガバガバの隙間から階下の自転車置き場が足元に見える。


私は目線を自転車置き場の手前から右に折れたすぐにその先、アパート敷地から出た狭い道路を挟んだ向かいにある、陰気な一軒家に向けた。

その家の壁沿いをなぞるように視線を動かす。


誰もいない。


あるのはそのくすんで苔の生えたコンクリブロック塀と、そこに貼られた色褪せて腐ったポスターだけだった。
階段を降りる前にこうして確認することもまた "開戦 "以降は習慣となった。


しかし、この習慣にはきっかけがある。

そのきっかけとは "開戦" 以前からこの向かいの家主たちが、私や他の住人たちに対して 仕掛けていた "攻撃" であった。


当時、このアパートへ引っ越したばかりの頃はそのことにまるで気が付かなかった。
確かに毎日そこの家主の老人は日がな一日、家の周りをウロウロとし続けていたが、特に何も不思議に思わずにいた。
ごく当たり前の日常に見えていた。


はじめの頃、私はその家人と思しき老人の顔を見かけると、軽く会釈したり挨拶で声をかけたりしていた。


だが、彼らはまるきり私のことを無視し続けた。


その家はどうも老夫婦のもので二人暮らしのようだった。
家と同じくらいの陰気な老人が、毎日何度となく出たり入ったりを繰り返していた。
しかし、その夫らしき方にも妻らしき方にも、そのどちらにも私の挨拶は袖にされ続けたのだ。


私も近所とはいえそこまで相手にする必要もないと思い、何度か無視されてからは声をかけなくなっていった。


だがそのうちに、この老夫婦の行動に違和感を覚えるようになった。


私はこのアパートへ越したあと、何度となくバイトを変えている。
出勤時間帯もその時のバイト次第でまちまちだったので、夕方出勤で深夜に帰宅したり、夜勤で朝方に帰宅という生活もしてきた。


でもそういう風に生活を変えても、私は出勤や帰宅の際にこの老夫婦のどちらかと接触することが普通にあったのだ。


流石に深夜帰宅のときは出会わなかったが、それ以外はかなりの頻度で出くわした。


更に面白いのは、外出する私と入れ違いのようにして当の老人は家に入ってしまうのだ。
この奇妙なタイミングの揃う偶然が続いていたことを、私はその生活の中に見つけた。
それは開戦よりずっと前のことだった。


そして"開戦" となった。


みんなして何処へ行くにも、顔に "汚い雑巾" を付けるようになった。
当然だが私は一切付けなかった。


私も騒動を起こすことが目的では無いので、任意の場所やバイト先では付けたりもした。だが公共の場では付けなかった。

それ故に揉めることもあったが、当然だがこの騒動は嘘である。
そんな病気などハナから存在しないし、その顔雑巾にはネガティブな意味は無数にあれど、ポジティプな効果はひとつも無い。
科学的にも医学的にも法的にも、付ける意味も義務も責任も一切無いのだから付けなかった。

何よりもその姿が子どもたちに与える悪影響は計り知れない。
そんなことに加担するなんて絶対にゴメンだ。

電車でもバスでも図書館でも市役所でも警察署でも、当然路上でも付けずに過ごしていた。


私はそのころは一応カバンの中に使い捨ての顔雑巾を持ち歩いてはいたが、しかしまず使わなかったし、家を出てバイト先で着替えるまで一切付けることはなかった。その時のバイト先には職場で用意されたものがあったので業務中はそれを付けて過ごしていたが、帰宅時にはその使ったものは職場で捨てていき、家に着くまではやはり通常通りにいただいたままの素顔で過ごしていた。


しかし、それからだった。

例の向かいの家の老夫婦の行動が目に着くようになったのは、そうした生活が始まってからだったのだ。


ある日、私がアパートの敷地を出て狭い道路から駅へ向かう通りへ抜けるとき、その家の壁沿いを歩くわずか十数メートルの間に、唐突に


ドカン!


という物音を耳にするようになったのだ。


はじめてその物音を耳にしたとき、私は思わず音の鳴る方へ顔を向けた。
そこには例の家の陰気なコンクリ壁とそれ以上に不潔なポスターがあった。

立地的に、私が物音を聞いたその汚い壁の向こうには、この家の庭に当たる部分がある。それはのちに、アパートの手すり越しに上から確認したので間違いなかった。


「なんだろう?」


と、一瞬気を取られつつも、私はそのままバイトへ行った。


そして帰宅時、私は既に今朝の出来事をすっかり忘れていて、頭の中は帰りがけに買った食材を使った夕飯のことでいっぱいだった。


だがアパートの敷地に入るその手前で、今度は


バダム!


という強い音が背中から響いたのだ。

振り返るまでもなく、その音は例の家の玄関を締める音だった。


それは決して珍しいものではないし、何処でも耳にする音だった。


しかし、私はその音ですぐに今朝のことを思い出していた。

そしてやはり、その奇妙なタイミングに疑問を持ったのだ。


私は家に入るなり夕飯の支度よりも先に、このことを日記に記録した。



それから毎日、この音が発生する度に


日付、曜日、時間帯、周りの様子、天候、その日の時事


を、スマホや日記に記録するようにした。


そうやってデータを取ってみると、これは偶然ではありえないという事が分かった。
そもそも、これまではそんなことが無かったのだから、調べるまでもなくどうみてもこれは故意である。


そうなると当然だが犯人である老夫婦は、明らかに私を監視し、私の行動を記録していることになる。

そしてそれに合わせてこの騒音動作を行っているのだ。


にわかには信じがたいくらい陰湿な結論である。
私としてもそれは信じたくなかった。さすがに気持ち悪すぎる。


だから私は確かめることにした。


それから毎日、私はあえて決まった時間に出勤し、決まった時間に帰宅する規則正しい生活に切り替えたのだ。


これまでのように帰りに寄り道をしたりせず、きっかりの時間に行動するようにした。


そうすることで彼らに私の行動予測を容易にし、攻撃を "させ易く" してあげたのだ。


2週間続けた。


バイトは平日だけだったので、平日はきっちりとその生活を守った。
そしてその間、当然のように彼らのその "攻撃" は続いた。


そして3週目の平日。


その日、私は普段の出勤時間より1時間早く家を出た。
そしていつもとは反対の方向へ歩き、ぐるりと一周回るようにして駅への大通りに出た。そして大通り沿いの喫茶店でモーニングを食べながら時間を潰し、いつもの出勤時間の10分前までそこで待機した。
そして時間になって店を出ると、今度はその大通りから逆に進み、いつもの通りから小道の角まで戻り、そこから例の家を観察した。


いつもとは違い、今度は手前に例の家が見え、そしてその家越しに私のアパートが見えた。


私の部屋は道路側の角部屋なので、ここからでも人の出入りはもちろん壁沿いの窓も見える。カーテンは付けていたが、遮光ではないし、これなら中で何をしているかは第三者が簡単に確認出来る。


そのまま5分ほど待っていると、例の家から老人が出てきた。
老人は道に出て、アパートの方をしきりに見ている。


私は時計を見た。
時間はちょうど出勤時間になっていた。


私はスマホを取り出し、動画撮影を始めながらアパートへ向かって歩き出した。件の老人はその道の真ん中で私に背中を向けている状態である。


私は左手で撮影しながら、右手でポケットのなかを探った。
そこには昨夜こさえた紙鉄砲が入っていた。


私は背を向ける老人の後ろで、その紙鉄砲を思い切り振り下ろした。

その日は湿度も低かったせいか、まだ朝方で周りの騒音も少ないからなのか、私の想像を超えて、紙鉄砲は勢い良く破裂音を鳴り響かせた。


パァンッッ!!


その強烈な音に、老人は文字通り飛び上がって驚いた。

彼は音のした後ろを振り返り、そこに立っているターゲットである私を見つけるなり、更に飛び出さんばかりに目を剥いた。



私は、


「おはようございます。すごい音がしましたね。最近はこの時間になると不思議なことに大きな音がしますよね? 何かご存知ありませんか?」


と、笑顔で挨拶した。


当の老人は目をひん剥かせたまま完全に硬直し、一切返答は無かった。

私は笑顔を崩さぬまま、老人の横を通り過ぎ、ポケットに両方の道具をしまった。


角を曲がる際にチラと振り返ってみると、老人は未だに硬直して呆然と立ちすくんだままだった。


それ以来、例の音は無くなった。
行きも帰りも。


残念ながら、私の答えは正しかったのだ。
本当に残念ながら私は監視されていたのだ。
そして計画的にその攻撃は行われていたのだった。


私はこの一件でそのことが確認出来ると、こういったことが他にもあるのではないかと思い立ち、調べ始めた。

するとそれは実に一般的に、長い歴史を持って実践され培われてきた
"確立されたテクニック" であることを知ったのだ。


この"テクニック" は、あらゆるところで行われ続けてきた
 "伝統的な攻撃法" だった。
ときに形を変え、大きさも変えて。


このことは現在では心理学などという、堅苦しい学問から学ぶよりも、一般販売されている書籍のほうがより簡単に知ることが出来る。
調べた限りだと、この手の情報を扱った書籍のタイトルには


"心理テクニック"  "洗脳"  "深層心理" 


などの文言が多く使われていた。

これらの本には実に様々な "テクニック" という名の ”攻撃方法” が紹介されているのだ。


こうして書くといかにも恐ろしいが、実際にはその多くが良いものとして書かれている。

自己鍛錬が目的であったり、営業利益の向上や気弱な人に自信をつけさせたり、長年の心の傷を癒やし克服させたりと、そんな耳心地の良い言葉で紹介されているものがほとんどだった。


しかし、その情報を得る前から私は知っていた。
それらの言い訳は嘘であると。

顕教や密教のように、表と裏があるのだ。
片方しか教わっていないものと両方を知っているものとでは、仮に同じ動作をしていてもその意味は違ったものになる。

一般的な書籍では書けないような "使用法" が存在するのだ。


例の老夫婦が私に向けた "攻撃" は『アンカリング』を使用した "兵器" である。『アンカリング』とは条件反射といったもので、早い話がパブロフの犬の話だ。
ある行動に対して、特定の動作や情報が組み合わされることで、対象者の行動や情動を操作することが出来るというものだ。

食事の時に合図としてベルが繰り返し鳴らされると、やがて合図が鳴るだけで犬がヨダレを垂らしだす。
この有名な話ならば、食事という行動の奥にある食欲という情動、これがベルを鳴らす動作や情報によって操作出来てしまう、となる。


いかがわしさが拭えないので私は好きではない言い回しだが、要するに無意識などという言葉で語られる部分に、その "テクニック" という名の "兵器" は影響を与えるのだ。


この "兵器" は、我々の敵である『上級国民軍』の下等兵士たちに "標準装備" として配備されている。

扱いが容易で安価、マニュアルすら不要な "バカでも使える武器" である。

一応、使い方は訓練されている。しかしその訓練内容は大したことはない。


"ある特定の条件の人物に対して、特定の動作を行うこと"


大体がそれだけで、その対象や動作が時期によって変化する程度だ。


今回の私の件は、その "攻撃方法" のなかでもかなり広範囲に使えるもので、大昔から綿々と伝わる "古代兵器" といって良い代物だ。


暴走族が発生させる暴力的な騒音
暴力組織の人間が放つ、凶暴な発声による発言や生活音
机を叩く音や椅子をガタガタ鳴らす音、グラスを置く音、咳やくしゃみ、
舌打ち、ため息…



これらは全て "合法" である。


これらの行為を取り締まることはまず出来ないし、仮に対処する法律があったとしても実際には適用されることはなく野放しである。

しかもこれらの行為を指摘すると、今度は逆に言いがかりだと揚げ足を取られ、相手に暴力を振るう言い訳を与えることにもなりかねない。


これらの行為は人間として、倫理としてある程度許されている部分がある。何故なら誰でも不意に物音を立てることはあるからだ。
それは時として、人に迷惑を与えるほど大きいときもあるのだが、それは仕方のないことだと誰もが考えて許容するのが社会の常識となっている。


しかし、『悪』というのは、その部分に "旨み" "弱み" を見出す。


この社会の営みとして存在する許容範囲を、都合よく限界まで拡大解釈し、常識を遥かに超えた量と回数を "意図的に実行" する。


これが最悪なのは、この "意図的" という部分である。

この範囲を "攻撃" として悪用する者たちは、意識してわざとやっていながらも偶然の範囲内であると主張するのだ。
この都合の良い二枚舌こそが彼らの "武器" だ。
これを下地にしてバリエーションを増やしている。


こうした物音ひとつでさえも長い長い歴史があり、途方もない実戦経験を経て磨き上げられているのだ。


単純で明快、すぐに実践に配備できる安価な兵器。


しかし、この兵器。何かに似ていると思われるかも知れない。



そう、『威嚇』だ。


つまりこれは、獣でもやっている威嚇動作そのものなのだ。


そのことが分かると、逆にこの武器の恐ろしさがよく理解出来る。

動物や虫同士でさえも通用するこの "兵器" は、それほどに広範囲に使われ、そして何よりもあらゆる条件下で確実に『結果』を出せることが証明済みなのだ。


だが、人間が使うときは少し勝手が違う。

獣が使うときは、あくまでも自分たちの身の危険や生命に関わるときに使うのみだが、『悪』が使う時はそうでは無い。
とことん汚らしく姑息なのだ。


利益のため、損得のため、快楽のため…


つまり、この "兵器" を使う兵士たちは "獣以下" ということだ。


本来人間は、このような獣以下の振る舞いをすることを誰もが嫌がる。


こんな不潔で惨めな事はしたくない、と誰もが首を横に振る。
たとえ敵と直接戦う必要性が生まれたとしても、もっと正々堂々と戦うことを望むものだ。それなのにこんな無様な武器で戦うことを命じられる。
そんなのやってられない、と思って反抗するのが普通である。


私は自分で調べてそのことを知った当初は、たしかにそう思っていた。
だから何故そんな小汚い行為が平然と出来るのか不思議だったのだ。

だが、違った。
それは、前提がそもそも違っていたのだ。


つまりこの "兵器" を日常的に使用する『上級国民軍』の下等兵士たちは、最初からこのような汚らしい武器を、平然と "非戦闘員" にまで使用出来るほどに 「腐りきって」いたのだ。


もっといえば、それくらい腐りきっていなければ、彼ら『上級国民軍』の下等兵士は務まらないのだ。


そのことに気づいた私は、呆れながらも


「よくもまぁ、そんな連中ばっかりかき集められるもんだ」


と感心したが、その時にふと例の老夫婦を思い出した。



彼らの顔
彼らの見た目
彼らの生活 振る舞い
彼らの目
彼らの家
彼らの服装
彼らの靴
そして 彼らの



私は初めてこの "攻撃" を受けたときに、思わず音のする方向へ顔を向けた。

そこには汚い壁と、更に汚らしい『ポスター』が貼ってあった。


私はそれを思い出し、そしてついに理解した。


彼ら『上級国民軍』に所属する下等兵士たちの正体とは、カルト宗教の信者たちだ。

なるほど。
それなら納得出来る。
これだけの汚らしい攻撃を無差別に実行出来るのも当然だ。

長年に渡って散々狂った『悪』の教えに付き従い続けてきたのだから、何の抵抗も感じない理由も分かる。

カルトに入信しているということは、当然その入信時点で気違い寸前の状態だったはずだし、そこから更に "英才洗脳調教育" が毎週毎週施される。

彼らはそこで学んだ "技術" を近所の人間だけでなく、職場や街中の "現場" で数々経験を積んできている。特に選挙期間での実戦経験はかなりのものだ。

相手だって穏やかな人物や弱い人、子どもたちまで範囲を広げ、配備された武器の実践練習の "的" に使ってきている。兵隊にはうってつけである。


"兵隊は何も考えない" などという暴論を耳にしたことがあるが、実に都合の良い、いや虫の良い言葉である。
「考えない」のではなく「考えられない」だけだろう。そして考えられないのはその個々人の能力と人格の問題だし、ただの逃げ口上と言っていい。

考えようが考えまいが関係なく、おこなった行為から生まれた結果の罪は、どう足掻いても実行した人物にのしかかるのだ。


しかし、この手の下等兵士たちはそうは教わっていない。
彼らは『アンカリング』という武器にしても、その特定の使用法しか訓練されていない。だから心理学的なメカニズムなどまるで理解を出来ていない。
まさに "考えない" のだ。


顕教と密教の話のように、片方しか知らないものはその本当の姿に行き着けない。全体を把握することが出来ない。
仮に片方しか知らない者の中で、頑張って全体の理解に努めようと努力する奇特な下等兵士が現れたとしても、絶対にその答えには行き着かず、彼はその殊勝な精神を混乱させ消耗させるだけである。

そして消耗が激しくなれば、『上級国民軍』の立派な下等兵士と成れるのだ。


要するに気違いにならないと成立しないということだ。

その気違いに、単純で不自然な行動を取らせる。それが "兵器" なのだ。


その兵器の中には、彼らの家に欠かすこと無く貼り出されているグロテスクなポスターがある。
これも立派な "兵器" だ。
こうして貼り出し続けることで、この汚物のような彼らの存在が日常と同化される。人間は慣れてしまうと、それを良いものとして認知しだす習性がある。これはその習性を悪用した "指向性地雷型情報兵器" なのだ。


しかも厄介なことにこの兵器はかなり強い。
とても安価でありながらも、存在が社会的に肯定されているため、破壊して排除することが困難である。
一度設置したら24時間365日、一切の動力を使わずに作動し続ける。

これだけ強力であるが故に、彼らはこの兵器を使い続けている。
全くよく出来たものである。


しかし、この兵器には大きな弱点も存在する。
それもこの弱点は現代になって、より強力に我々に働いてくれている。


その弱点とは、地雷が設置されている民家やビル、店舗の人間は『上級国民軍』の関係者であると宣言したことになる事実だ。


基本的に、現在のような市街地での戦闘で、かつ長期戦となった際にはゲリラ戦になることが通常だ。
かつて人狼作戦などという呼称もあったように、ゲリラ戦なのでそれぞれの兵隊たちは多くが身分を隠し、正体を伏せて行動をする。

時に一般の非戦闘員であるように振る舞うために、装備さえ脱ぎ捨て情報収集や工作に走ることも当然のようにある。


それにも関わらず、この地雷兵器は積極的に自らの存在を、わざわざご丁寧にアピールしてくれているのだ。

これは兵士のみならず、一般の非戦闘員でさえ簡単に相手を見抜き、警戒をすることが出来る。なんと馬鹿げた兵器だろうか。

もう少し隠すことをしたらどうか?と首をかしげてしまうが、しかし敵がどう考えているかは知らないが、これは確実に我々にプラスに働いている。



"汚物ポスターがあった際には、犬の糞をまたぐように遠ざかること"
"そこの住人に対しても同じように遠巻きにすること"



これは現在の我々の軍隊内では常識となっている。
新兵訓練時にもウルサイくらいテストされ叩き込まれる。


敵側の下等兵士たちは、このポスターのある民家や店舗や施設からやってくる。だから誰が敵軍兵なのかをすぐに判別出来るので、私はどんな所にいても必ずポスターを探し、その家主や家人や店員やスタッフの姿を確認した。私はその活動を日常に取り入れるようにした。
それを繰り返すうち、敵の下等兵士たちに "共通点" があることを見出した。


私はつくづく、このことをもっと早く知りたかったと思った。
敵兵の正体を知ったのは残念なことに開戦後である。しかしこの下等兵士であるカルト信者たちの工作活動は、その遥か遥か以前から準備も含めて行われ、その間にも彼らの工作活動や攻撃の被害は発生していたのだ。
だが、誰もそのことに気づかなかった。当然私もだ。


これはとても悔やまれる事実だった。
すでにして破壊活動は行われており、様々なところに工作員が送り込まれていたし破壊兵器も配置されていたのだ。


時折、そのことをネット上でも町中でも報告する人たちが居たが、私も含めて本気に受け取る人たちはまず居なかった。だからここまで深刻化し、我々はしばらく後手に回り続けることになったのだ。


私達が、今はもうこの戦争の根拠が全くの嘘であることを知っているし、これが病気を言い訳にした大戦争であることも知っている。
それが長い時間をかけて綿密に準備されてきたものであることも知っているが、開戦よりも前にそこまで分かっている者はごく少数しかいなかった。


それぞれの出来事や時事問題や歴史問題が、学校などで聞かされてきたものだけが事実では無いことくらいは、それなりの数の人たちは認識を持っていたし、不自然な事件や事故の裏にある真実を探し出し、公開する人たちも少なくない数存在していた。


だが、この具体的な実行犯たちやその手段、そしてその組織の繋がりなどを全体的に網羅していたものはほぼいなかったし、そこに深く関心を持って、更にそれを根拠にして自身の生活に警戒心をもたせたり気持ちを改めたりする人なんていなかった。
私はというと、開戦前から多くのことを学んできた。だがそれでもやっぱり多くの出来事の裏に蠢く実行犯たちの存在までには到達出来ていなかった。


しかし一度見えてしまうと、今度はもう止まらない。

あらゆるものがドンドンと繋がり出し、オセロのように一気にひっくり返ってこれまで不明瞭だったものに光が当たるようになった。
それは個人レベルでも、社会レベルでもそうだった。




私は足元の階下を確認後、ゆっくりと階段を降り始めた。


あれ以来、もう彼ら老夫婦はほぼ姿を見せなくなった。


以前とは逆に、今度は私の移動時間に合わせて家に入るようになったのだろう。彼らの顔を見ずにすむのは喜ばしいことだが、しかしこの汚らしい壁に貼り出された汚物ポスターが目に入ることがいつだって不愉快であることには変わりなかった。


こんなに汚くて、あんなに弱々しい一味に、これまで一体どれだけの人たちが苦しめられ続けてきたというのだろうか?


私はアパートの敷地を出て、すぐ目の前にある壁と向き合いながら思った。


あの日、私はちょっと反撃しただけで、あの老人は震え上がって立ちすくみ、私の前から姿を消した。


たった一度、それだけで終わったのだ。


あの老人は下等兵士とはいえ長い経験を積んできた "ベテラン" に違いない。

これまで数えられないほど私にしたような攻撃を仕掛けてきたに違いなく、そのほぼ全ての被弾者が、反撃はおろか何処から攻撃されているのかも、その理由すらも分からずに傷つけられ倒されていったのだろう。


実際の敵兵はすぐ目の前にいても、当の被害者たちには見えなかったに違いない。


人は理解出来ないものや知らないものは目に入らないし、入っても認識が出来ない。
それらは自分の人生の範疇ではないから "存在していても存在しない" のだ。


多くの非戦闘員である一般人は、まさか人が人に対して積極的に『悪』なる攻撃を仕掛けてくるなんて考えも出来ないのだ。


それも、見たところは何の変哲も無い、自分たちと同じにしか見えない一般人がだ。人畜無害にしか感じられない人たち。それも、多くがご近所さんや顔なじみや、職場の同僚や市役所の職員や、教師や保育士だ。

それが悪意を持って積極的に自分に対して攻撃を仕掛け、それで苦しむ姿を見て喜ぶなんて、普通の人は理解出来ない。いや理解したくも無いのだ。


だから彼らの姿も、攻撃手段も一切認識されなかった。


外部からは認識出来ない透明人間に殴られているようなものだ。
いわば、これは人の認知を巧みに駆使した "光学迷彩" である。

長年に渡って一般の非戦闘員たちは、この透明人間によって苦しめられ続けたのだった。


透明人間は法律で裁けない。


だから誰一人として捕まらなかったし、誰も助けてもらえなかったのだ。
被害を告発しても、誰にも信じてもらえない。


「ここに透明人間がいる!」


といっても誰にも信じてもらえず、ただただ被害者が一方的に滅ぼされていったのだ。
残酷極まりない事態である。


奴らの組織は地区ごとに担当支部が置かれている。
その支部から各戦闘員に対して "担当エリア" が割り当てられる。
そしてその担当エリア内にいる、敵対組織や人物への工作活動や攻撃指示が上層部から各支部へ命令される。

その命令を受けた現場の下等兵士であるカルト信者たちは、誰も彼もが所属支部の命令に忠実に従い攻撃や工作を実行した。

支部の命令は絶対だったから、その命令の内容がどんなに下劣で非人道的であっても即座に遂行した。
たとえ対象が女子供の "非戦闘員" であっても、奴らは容赦しなかった。


ドブネズミも吐き気を催す現実である。
だが更に恐ろく下劣な事実がある。

それは、彼らは未成年の "少年兵" まで積極的に活用したことだ。


少年兵を積極的に採用する理由はいくつもある。


まず見つかりづらく、仮にしくじっても誤魔化しや潰しが効くところ。
そして何よりも "敵側の子供を攻撃出来る" ことである。


大人の下等兵士が子供を攻撃しているところを目撃されると、さすがに言い訳が効かず不利な立場に置かれてしまう。
それを恐れた下等兵士たち "現場" の陳情を汲んだ敵国軍部が編み出した『悪』の作戦である。


子供を利用することで、子供にのみ与えられた社会的特権を最大限に活用しつつ、攻撃を加えることが出来る。


実に穢らわしい発想である。

子供のしたことに目くじらを立てることは大人気ないとされる。
つまり結果がなんであれ、極端に罪状は緩和されるのだ。

赤子に対して人が話すときは、彼らに合わせて稚拙な言葉を使うが、それと同じように子どもたちの悪事には甘味が追加され、実体は骨抜きにされる。


窃盗が "万引き" になり
集団暴行や恐喝、脅迫、強盗傷害は "イジメ" となり
集団強姦や拉致監禁は "イタズラ" になり
拷問、殺人、虐殺は、社会が原因となって "同情" に変わる



この下劣な事象の最大の功労者は、学校組織である。


省庁、教育委員会、校長、教師たちが手を組んで全力を尽くし、治外法権の "永世中立国" を捏造した。
もちろん実際は中立などとはほど遠く、どの組織にも干渉されない 『狩場』の確保に過ぎなかった。


なぜなら教育組織は、ずっと昔から『上級国民軍』の下部組織であるカルトの根城であったからだ。


そもそもの一律全体教育自体が『上級国民軍』の都合に合わせて構築された体制である。
その組織運営を自分たちの下部組織に任せるのは当然である。
そこで長年に渡って全ての個人の個性才能を根絶やしにし、無能で上の指示に逆らわない奴隷を生産し続けてきたのだ。

昔から「無能が無知に無用を詰め込むところ」と揶揄されてきたが、実体はそんな可愛らしいものではない。幼いころにその人生を、未来を完膚なきまで破壊する "ベルトコンベア式施設型爆薬" である。
ただの無差別殺戮兵器だ。
誰一人として逃さずに、運命を "爆殺" する装置だ。


誰にも止めることが出来ず、その装置が作動するところは、常に隠蔽され続けてきた。批判もまるで届かなかった。


この『悪』なる "施設型兵器" によって破壊された児童たちが、のちにこの国を作り運営していった。そして現在の "焼け野原" が誕生したのだ。


見た目には近代化した都市に映るが、その世界を日々支える人たちの人生はどん底である。
更にその救いなき奴隷人生からさえも零れ落ちたものには、一切の救済は無い。たった一晩の宿もなく、横になるためのベンチさえ取り上げられた。
体の良い言葉で取り繕って、人が、生命が育ち生活をしていく為のあらゆる環境が切り取られ "ビジネス" という "略奪行為" の餌食になった。そして破壊後の児童たちが大人になってその略奪世界を支え、加速させていった。


破壊加工を施された人間たちは、食と酒とゲームと異性だけしか分からないようにされているために、自らの生命や未来を捨て値で売り飛ばして生き続けていることに気づけない。


そのなかには、当然ながら『悪』に積極的に加担するものが現れても全くおかしくはなく、実際に多くのものたちは間接的に、ときに直接的に『悪』に協力をしている。


先ほどの "少年兵" の採用の理由はここにもあるのだ。


つまりは "英才教育" である。


少年兵として採用したものの中から、とりわけ優秀な "エリート" を見つけ、作り出す意味もあるのだ。
若い人材をまとめ上げる "優秀な人材" 。将来的には組織の上部を支える存在になるような者を見つける意味もある。


だがしかし、そんなものはごくごく一部で、その他大勢はそうご立派にはいかない。


カルト宗教が実行部隊として機能していると示したが、更にその下部、使い捨てのような末端の "傭兵部隊" には、大量に存在する加工済み市民が採用される。彼らはネットの広告で簡単に集められ、"傭兵" として登録される。
その "傭兵会社" は派遣会社などの表看板を掲げて活動している。
ちなみにこの国に存在する派遣会社の数は世界でもダントツで、全てが "傭兵予備兵" と考えてもおかしくない。


この傭兵たちに与えられた指令の多くは、ネットを使った工作活動である。


現代の最大の武器であるインターネットを使った正しい情報の拡散は、我々『下級国民軍』の最も重大な "兵器" の一つである。
かくいう私だってその兵器によって目を覚ますことが出来た。


しかし、その我々が発射する真実という武器を、破壊するための迎撃部隊が彼ら "傭兵" なのだ。

彼らネット傭兵部隊は真実にウソを混ぜ込んで破壊し、デタラメを発射し続ける。その数は大変なものだし内容は悪質極まりない。
下劣そのものである。
懸命に真実を使って戦う人たちを、このネット傭兵部隊はあらゆる手段で攻撃し破壊してゆく。
ネット傭兵たちは、一人ひとりが更にアカウントを複数作り出すことで姿かたちを変え、延々と攻撃を続けてくるのだ。


とりわけこの傭兵による攻撃は、戦争開始前後、つまり初期段階ではかなりの効果があった。


彼ら "ネット傭兵部隊" は各部隊がゲリラ戦を仕掛ける戦略を取っていた。
全員が非戦闘員や識者を装う "人狼作戦" だ。

彼らは姿を偽り、真っ当で人畜無害な人物を装って『上級国民軍』の有利になるような発言を連続した。
それによって『上級国民軍』の破壊作戦がスムースに実行できるような、世論作りという巨大な "アウトバーン" を築いていったのだ。

同時に我々の部隊が日々 "発射" する事実や真実の"弾丸" を、彼らネット傭兵部隊が嘘やデタラメや嘲笑で破壊していった。
彼らは数で我々を屈服させようとしてきたのだ。


だが戦況が進み、我々『下級国民軍』もみな一様にアカウントを作成し、兵力を増強する対策を講じ、正面から白兵戦を展開すると、事態は一変した。


まず、アカウントの数が増え戦場全体のパイが拡大されることで、アカウントごとの "重み" が重視されるようになった。
これは『何を言ったかよりも誰が言ったか』と似たような意味であり、決してそれ自体は賛同しかねることではあるが、つまりそれぞれのアカウント毎の信頼性が見られるようになったのだ。
発言したアカウントの過去の動向や、そのアカウントの賛同者たちを一つ一つ確認する "周辺調査" が一般的となった。


傭兵たちはただ金が目的で活動しているだけで、その当人の中身はどうしようもない無能である。
ネット傭兵は片手間で出来る職務性質上、その多くが在宅であったり本業の傍らで参戦している。本業の休憩時間や、少し手の空いた間を利用して情報工作を行うのだが、依頼された内容の情報以外にも、アカウント自体の信頼性を担保するための情報発信をする必要もある。
だが、彼らはみな無能で人間的魅力も正義感も信条も無い。
したがって人を引きつけ信頼を勝ち取るための "実弾" をまるで持ち合わせていないのだ。


これはこの作戦に於いてとても深刻な事態なのだが、しかしそんな傭兵たちの "弾切れ" 事情などには、彼らを雇ったカルト宗教組織や敵軍の下部組織はまるきり深刻に受け取らず、新たな教育も指示も補給支援も無かった。
所詮彼らは使い捨てだし、発生したトラブルと向き合うことは、すなわちトラブルの責任を取らされることにもなるため、本気で対策を講じる態度を取ることは組織内政治的に不利になってしまうのだ。


したがって組織内の誰もが、その自分に直接関わりのない問題について干渉せず、一人として手を差し伸べることはしなかった。


そのため困った現場の傭兵たちはどうしたのかというと、適当に普段から自分たちが行っていることを発信し始めたのだ。
これは一見するとリアリティがあるし、ネタは豊富にあるのだから上手く行きそうにも思えるのだが、前述のとおり彼らはみんな人間的な魅力に大きく欠けた連中である。まともな神経も人格も備わっていない。それを育てる努力をせずに生きてきたのだから、ネット傭兵なんていう惨めな職に手を染めても良心の呵責を感じないでいられるのだ。
そんな人間の日常が "実弾不足" の事情から "発射" されるようになった。


だが、当然だがそんなものはうまく行くわけがない。


発信する傭兵たちからしたら、迷彩として役に立っているように思えたのだろうが、傍から見ればそれは愚行以外の何者でもなかった。


彼らネット傭兵たちは、自分たちが周りの人からどのように見られているのかがまるで分かっていないのだ。

自分たちが周りからどれだけ浮いているのか、距離を置かれているのかが全く分かっていない。


人から嫌われたり、疎まれたりしているのに、それを感じ取るだけの人間的な心根がとっくに腐っているため、鼻がまるで効かないのだ。

そのことに気づける繊細な神経の持ち主は一人もいなかった。


だから、彼らが迷彩として発信する個々のアカウント毎の日常的な情報発信が、どれもこれも尽く似通ったものである違和感に気づけなかったのだ。



ゲーム , アイドル , FX , 仮想通貨 , 投資 , 在宅 , 食い物 , 酒 , アニメ…



一見、まともなことを発言しているように見えるネット傭兵たちの工作アカウントも、一枚皮を剥くとあっという間にこの手の下世話な話題で夢中になっている姿が顕になった。


だからすぐに敵国のネット傭兵であることが見抜けた。


この情報が我々によって "発射" され拡散されるようになると、いよいよこのネット傭兵部隊は役立たずとなった。

だれもこの部隊からの攻撃を相手にしなくなったのだ。


彼らがばらまく嘘の "弾丸" は、もう真実を破壊する力を失ったのだ。


こうした『上級国民軍』下部組織の敗走という結果を受けた敵国司令部は、今度は上層部の中でも顔の知られた人材を、直接 "前線" に派遣する方向に切り替えた。


この作戦変更には、下の者の責任を取る意味もあるが、しかしこれはこれで理のある作戦だった。

前回のネットを使った情報工作作戦の敗因は、無名のネット傭兵部隊による工作情報では信頼性に疑いが持たれるようになったことと、各戦闘員の能力が低かったために破壊力を得られなかったことが原因である。


したがって、予め信頼性や経験、能力のある人材を前線に送り込めば効果はあると踏んだのだ。


たしかにそのとおりだ。また、有名でありかつ肩書もある人物を採用するため、『上級国民軍』の最大組織の一つである "諜報部" の大手マスメディアが同時に活用出来ることも大きい。
特にテレビ、新聞は未だに拡散力と一般社会的信頼性が桁違いだ。


ただの一般ネット傭兵が作成したアカウントなどを大手で取り上げるのは信憑性が弱く、資金提供先のスポンサーを説得出来ないが、既に名が知られている人物ならば通りが良い。


そこで使われるのが、この "諜報部" 大手マスメディア直属の下部組織である "サーカス部隊" 、つまり芸能部だ。


名と顔が知れた芸能部の人材は、それだけで訴求力があり資金も集まるため即戦力として配備しても支障は無い。


だが『上級国民軍』の悪しき特徴はこのサーカス部隊の人材も持ち合わせており、彼らの多くもまた実際には何の能力も無く、ただ上層部との血縁関係やコネがあるだけでスポットライトを当ててもらっているに過ぎない者達ばかりだ。

従って相変わらず中身は無いに等しいのだが、しかしそれでも一応は彼らとて『上級国民軍』の英才洗脳調教育はしっかりと実装済みなので、とにかく指示に従う程度は出来る。
ごく一部の "ライター" が作成したスクリプトの通りに喋り、動き、表情を変えることは出来るのだ。それは普段から彼らが行っていることなので何の抵抗も無い得意分野である。


このサーカス部隊には芸人だけが所属している訳ではない。


ここには政治家、アイドル、スポーツ選手、アーテスト、学者、識者、文化人、歌手、役者、YouTuber、Vtuberなどがいる。


それぞれが自分たちに割り当てられた分野に対してその影響力を使い、現場の "掌握" や "攻撃" を仕掛けるように指示を受けている。


世の中の多くの人は、大抵がどこかしらの部分で、彼らサーカス部隊に間接的にでも接触する。

サーカス部隊の隊員は接触してきた人物を、見てくれやトークやネタやエログロを駆使して抱き込む。

部隊の連中に気を許し、その "ライター" が用意した "エサ" に引っかかってボンヤリした人間たちのイニシアチブを取ってしまうのが彼らの仕事だ。


いわば食虫植物のような "ブービートラップ" である。
どの部門であっても、どんな趣味嗜好であっても、どんな年齢の人物でも対象だ。


どのような思想思考の持ち主であっても "誰一人として逃さない(S.D.G.S)"
 ジェノサイドプランは、とっくの昔から展開してきたのだった。


野球好きな人専用、サッカー好きな人専用、ゴルフ好きな人専用、
将棋好きな人専用、囲碁好きな人専用、釣り好きな人専用、
アイドル好きな人専用、関西芸人好きな人専用、関東芸人好きな人専用、
ゲーム好きな人専用、アニメ好きな人専用、映画好きな人専用、
音楽好きな人専用、俳優好きな人専用、作家好きな人専用、
歌手好きな人専用、学者好きな人専用、有識者好きな人専用、
若手議員好きな人専用、話の面白い学者気取りが好きな人専用、
一見社会的に受け取れる題材の嘘知識をひけらかして頭が良さそうに振る舞う芸人出身者が好きな人専用、
肥満で変質者で前科者の銭ゲバが好きな人専用、
売国奴の派遣奴隷商人が好きな人専用、
性格が破綻し人を罵倒し蔑むことしか出来ない知識人気取りで裁判から逃げ続ける中年が好きな人専用、
排泄物の摂取を日々欠かさず行う関東の落選議員が好きな人専用、
背中に入れ墨が入っていて性格と顔の歪んだ政治家が好きな人専用、
カルト宗教専用…


どんな方向にも対応出来る、横に並んだバリエーションは勿論のことだが、彼らはその奥行きにも配慮をしている。

浅いものが好きな人専用、若いのが好きな人専用、
ちょっと難しめな言葉を使いつつも低俗な笑いをタイミングよく入れてくる程度の深みが好きな人専用、
動物並の条件反射がいい人専用、見た目以外には何も反応できない人専用…

縦方向も横方向にも対応する小部隊を編成していたので、この作戦の根は相当に深かった。


誰もが必ずといっていいほど、この中のどれかに当てはめられた。

呆れるような話であるが、しかしこの悪の網が生まれたときから存在して、自分たちの周りが全てそれを受け入れていたのなら、拒否することは出来ないし、そもそも拒否をする選択肢が自分にあることすら気づけ無いのも当然なのだ。


とりわけ、すでにこの時代では、人々の親自身がこの網に首まですっぽり引っかかっているため、その下の世代にはどうすることも出来なかった。


こうして、これまで以上に更に強力に配備されたサーカス部隊による一斉攻撃が始まった。


サーカス部隊の各工作員が持つ強力なネームバリューからくる信頼性と拡散力に加え、更に既存の "諜報部" である大手マスメディアも後押しして倍増された破壊力は恐ろしく、実際かなりのものであった。


その激烈な破壊力は、現在でも彼らに引っ掛けられた網に気づくことが出来ず取り外せなかった多くの弱い者達の命を奪っていった。


我が軍にとってはこの攻撃は脅威だった。


しかし、恐れを感じたのもつかの間、敵軍にとって肝いりの作戦も、またすぐに役に立たなくなってしまった。



なぜなら、その前線へ派遣された上層部やサーカス部隊の人材の多くは、
前線へ派兵されたその時点で既にロートルであり、これまでに散々使い倒されてきたセコハンばかりだったからである。


スネに傷持つなんてものではなく、背骨がミッシリへし折れた者まで前線へ送り込まれ続けていたのだ。


そのために大手マスメディアが一生懸命に後押しをしても、それがかえって彼らの醜態や無能ぶりを拡大してしまう結果になったのだ。


それまでは一定のカリスマ性を帯びていた者でさえも、堂々と表舞台へ駆り出されてみると、実際はみすぼらしい言い訳ばかりの中年であることがバレてしまい、唯一の売りだった知的部分も、実は底の浅い幼稚な屁理屈に過ぎなかったことが暴かれ、結果ただいたずらに人材を消耗し自滅するだけになってしまったのだった。


それほどまでに、もはや『上級国民軍』にはまともな兵力は無かったのだ。

思った以上に彼らの人材不足は深刻だった。


このような敵軍の醜態ぶりには流石に我々も驚いた。かなり研究を進め連中の実態を理解しているつもりの私達でさえも、ここまで敵側が愚かだとは思っていなかった。
そしてこの現実の情報をすぐに研究に取り入れた。


彼らは、上の人間も末端の者も関係なく、誰も彼も頭が働いていないことが共通点だった。派兵されたサーカス部隊の工作員たちは、自らで感じ取り、考えることが出来ず、まともな受け答えすら満足に行かないほど思考が停止していた。その、やらされてる感満載の言動は、かえって一般市民からも反感を買い、疑いを持たれるきっかけを作る大失態を犯したのだった。


しかしそれは、彼らの組織としては当然だった。


そもそも、思考が停止していて自分では何も考えられない人間でないと『上級国民軍』としては失格なのだ。


上層部の指示に、彼らの用意した "スクリプト" に、ただひたすら忠実に動くだけの存在でないと組織全体も、そしてその後に構築する予定である、彼らが理想とする世界全体も回らないのだ。
つまるところ、この作戦による失態は必然だったのだ。


彼らは上層部のごく一部で決定した内容をトップダウンで推し進める。
その命令を受ける下のものの存在など気にもしない。


その作戦が実際の現場でどのような結果を招くかなど、彼らには想像も出来ない。ただ自分たちの傲慢な理想を力づくで押し付けるだけである。


そしてその押し付けられる対象には、敵である我々『下級国民軍』や非戦闘員の存在も勝手に組み込んでいる。

彼らは他者の個性や個人の事情など全く配慮しない。
気を配るのは自分たちの血縁者に対してだけである。


つまり『悪』の "光学迷彩" は、我々にも攻撃的に使用されている。
彼らにとって、血縁以外の存在は全て "透明人間" なのだ。





今この目の前にある、汚らしい壁の向こうで声を潜ませている老夫婦も、
今の私にはすっかり透明な存在になった。


私はキャップを深めに被り直しながら歩き出した。
通りへ抜ける間、途切れること無く横にそびえ立つこの不潔なコンクリ壁には、未だに腐りかけのポスターが貼られたままだ。


それを目にしたくなかったのでキャップのツバを目深に下ろしたのだ。


通りに出ても人影はまばらだった。
私はそのままゆっくりと駅へ向かって歩き出した。


目の前には、私と同じように駅へ向かう勤め人の姿がチラホラと見える。


背中越しなので良くわからないが、おそらく彼らは顔に雑巾を付けていないだろう。


何故ならば、もうすでに彼ら『上級国民軍』は敗走しているからだ。



前にあった、あの灼熱の真夏に開催された『悪の祭典』。
あれが最大のきっかけとなり、彼らは敗走した。


自分たちで起こしたウイルス騒動を理由に、はじめから開催を中止する予定であったこの祭典は、彼ら『上級国民軍』の内部紛争が原因でうまくゆかず、グズグズのままに開催されてしまったのだった。


もとより開催前からズタボロであったものが、いざ開催されて上手くいく訳がなく、失態に次ぐ失態、醜態に次ぐ醜態を晒すことになり、上層部は責任のなすり合いで全く機能を失ったのだ。


そしてその姿を見た、それまで未だに『上級国民軍』のプロパガンダに洗脳されてきた者たちも呆れ返り、彼らの元から離れていったのだ。


その離れていった者たちは、今まで散々彼らに奪われ苦しめられてきた反動から、一挙に我々『下級国民軍』側に付いたのだ。


そして我々はそのタイミングをつかみ、彼らに『真実』を伝えていった。


彼らは、自分たちの頭や心に入っていたものに強い疑いを持ったことで、我々の情報を実にすんなりと受け入れた。


そして彼らはその『真実』を武器に、盾にして『上級国民軍』兵と工作員たちを滅ぼしにかかったのだ。


もともと『上級国民軍』内の人間関係は金だけで成立していたので、上層部の混乱で末端の現場への賃金が滞ってしまったために、傭兵たちもやる気を失っていた。


そこへきて我が『下級国民軍』の猛烈な反撃に恐れおののき、彼らは逃げ去っていったのだった。


こうして、この数年で世界が大きく変わった。



『上級国民軍』はまだ存在している。だが、すでに事後処理のために生かされているに過ぎない。彼らはすでに力を失っている。

それまで掴んできた手綱は全て断ち切られ、彼らが今握っているものは、これまでの罪と責任だけである。


彼らは全て、これまでの罪を償うこととなった。
それもたっぷりと利子の乗った状態で。


今は、まさに世界が変わってゆく状態にあるのだ。




この歩き飽きた凡庸な道でさえも、それは数年前とはまるで違う存在になったのだ。


前を歩く男たちの顔を見ずにして、雑巾の存在を言い当てられるのはそのためである。


私は感慨深い思いを懐きながら、同じように駅へと急ぐ人たちについて歩いていると、不意に前の男が横へとずれて道を開けた。


視線を先に伸ばすと、向かいから早朝のジョギングをしている男が向かってきていた。


私はそのサングラスを付けたジョギング男の姿を確認した。
そしてすぐさま "銃火器" を身構えた。


なぜなら、そのジョギング男は "顔に雑巾を付けて" いたからだ。


そしてその男は明らかに私に対して "銃撃" しようと狙いを付けていた。
私にはそれが分かる。


ジョギング男は、私の横を通り過ぎる手前で、サングラス越しに私を睨みつけながら、



"自分の顔雑巾の位置を修正するようにグイグイッと掴んで動かした" 



私はそのジョギング男の "発砲" に合わせて、ほぼ同時に "同じ動作" を "発砲" して反撃した。


そのすれ違う1秒間に、お互いの攻撃は終了した。


ジョギング男は通り過ぎていった。それで終わりである。


この "攻撃" は、私にはもう懐かしさを覚えるものになっていた。


これは、あの向かいに住んでいる老夫婦の使ったものと同じタイプの "銃火器" で、カルト宗教所属の兵士に標準配備された "アンカリング" を使った攻撃である。


かつての開戦直後のときは、この "兵器" が戦場を制圧していた。


あの "騒音" を使ったのと同じで、要はこれもアンカリングによる「威嚇」である。



"おまえも 顔に 雑巾を 付けろ!"



と、いうメッセージの "弾丸" を撃ってくるのだ。



これまでに "被弾" した多くの人が、その銃弾の存在にも、自分が銃撃された事実にも気づけ無いために苦しめられた。


最初は大したことはない。
だが、連日何発も何発も受けていると危険である。


人はこの "合法狙撃" による攻撃を受け続けると、次第に人との接触に対して恐怖心を抱くようになってしまう。
そしてそのうちに外出が恐ろしくなっていくのだ。


この悪質極まりない攻撃法は、カルト宗教が長く積極的に活用してきた
"大量破壊兵器" である。


このテクニックは他にもバリエーションが複数あり、


道を塞ぐ
通行の妨害を行う
車のライトを当てる
すれ違いざまに呪詛を呟く
大げさに手を振り上げる
わざと隣に座る
車や自転車をわざと近くに止める
犬の糞やゴミを玄関などに置く


などがある。


そのどれもが一見何でもないものだ。
だが、この攻撃を繰り返し受け続けると、人は必ず


"何か原因があるのではないか?"


と考え出す。

そして厄介なことに被害者は



"自分を責め始めるのだ"



これが彼らの狙いである。


彼らの狙っている "ターゲット" とは、その肉体の内側にあるのだ。


そしてその "的" をコントロールすることは、まさにカルト宗教が最も得意とする分野である。

(ちなみに他にも

芸能部の失態を隠すときは、電車や公共の場でわざと大きな声を出して、都合の悪い事実を隠蔽しデタラメをバラ撒くための不自然な会話をする
敵対する店舗の場合は "少年兵" を巧みに利用し、窃盗や破壊工作をする
客商売のときは柄の悪い人間を連日送り込み、店員や客を威圧する
ネットに言いがかりやデマを書く

などがある)




これはその事実を知らないと相当に苦しめられる。
極めて悪辣な手段である。
当然だが、このメカニズムもテクニックも長く隠蔽され続けてきた。
彼らが日常的に実践してきたという事実も。


一体、どれだけの人がこれによって苦しめられ続けてきたことだろうか。


だが、もうそれは通じないのだ。


なぜならそれも既に我が軍が世の中に "発射" してしまっているからである。我が軍が彼らの兵器や戦略をすぐに研究し解明してしまっていたのだ。


この悪人たちの常套手段であるアンカリングを使った攻撃には、いくつかの "毒" が含まれている。


威嚇がそのひとつだ。
だがそれだけではない。

彼らはその一見日常的な動作の中に、複数の "メッセージ" を含めている。



"なぜ顔に雑巾を付けない⁉ バカなのか⁉ 早く付けろ!"


"みんなに合わせるんだ 
お前ひとりが勝手なことをするなんて許されると思ってんのか⁉"


"周りの人間の迷惑を少しは考えろバカ!"


"俺達は常にお前を見張っているぞ"


"俺達がその気になれば、いつだってお前なんて滅ぼせるんだ"


"黙って 従え"





このような "毒物" がこの武器には含まれている。
そしてその毒は何度も攻撃されることで更に強まる。


はじめは気づきもしない行為でも、日々繰り返されることで "ダメージ" が認識されるようになる。


そしてその毒に全身を内部から侵され、苦しめられるのだ。


それまでの時代の多くの人たちは、こんな邪悪な行動が日常に存在していることを決して認めなかった。


だからその攻撃で苦しんでいる人たちは誰も救われなかったし、その苦しみを公言するだけで気違いとして扱われた。
そしてその状況はカルト宗教にとって実に都合がよいため、その土壌作りもまた彼らが同時に行っていた。


しかし実際には、このような "悪" はいくらでも存在する。
人を苦しめてもなんとも思わず、それどころか喜びに感じる者たちがそこらじゅうに居るのだ。


だが、社会は "悪" の存在を決して認めない。
だから絶対に後手に回るし対策すら講じることはしない。
全てが「偶然」で片付けられてしまう。


その理由はもちろん、『悪』は透明だからである。


カルト宗教に限らず、『悪』というものには共通点がある。

そのどれもが必ず暗闇に身を隠すのだ。
絶対に表には出ない。
表に出るのはその代理人だけだ。
だが存在はしていて、代理人を介することで活動もしている。
公的な場に姿を表せない暴力組織も、フロント企業を使うことで堂々とビジネスが出来る。銀行口座も不動産も持てる。


表の看板はいくらでもすげ替えられるので、古くなったり傷が付いたらすぐに捨てる。
先程の "芸能部" サーカス部隊はまさにその "看板" である。


扱っている組織がダメになっても問題はない。
すぐに新しい組織を見つけ "乗っ取れば" 良いのだ。


彼らは実際にそれを繰り返して生きながらえてきた。
現在メジャーなカルト宗教であっても同様で、乗っ取りを繰り返すその通過点に過ぎない。

つまり寄生虫である。


散々悪事を行い使い倒して、その挙句に手が後ろに回りそうになったら
サッサと資金を持って逃げ出すのだ。


そしてまた手頃な組織に移る。それもなるたけ効率が良くて経営陣がマヌケでスネに傷持つ連中が集まるところが良い。その方が扱いやすいからだ。



民話などにもあるように、モノノケの類が一番に恐れることは、


"自分の本当の名前を知られること"


である。


常に偽名を使い暗躍するが、一度本当の名前を言い当てられると途端に姿を消して去っていく。

『悪』というのはそういうものである。

彼らは正体を見破られることを最も恐れる。


名前、顔、経歴、家系、家柄、財産、資産、趣味嗜好、心根、目的…


「消毒には日光が一番」というのは伊達ではないのだ。


彼ら汚らしい悪人たちは日の元に晒されることに恐怖する。
腐りきった心の内を見透かされ、自分自身に突きつけられることを恐れる。

彼らは汚物そのもののような汚らわしさのくせに、その自らの内に秘めた悪意を見せつけられるのを極端に嫌がる。鏡を恐れ、その内側の醜さを決して認めないのだ。
それを認めてしまうとそれまでに嘘で築き上げた自我が保てなくなるのだ。


だから彼らは必死になって実態の無い嘘にしがみつく。
その嘘だけが、どす黒くて空っぽの中身を支える唯一の柱なのだ。


さっきのジョギング男もまさにそうだ。
現在のこのご時世に至ってさえも、未だにあんな古びた武器を奮っている。まだなんとかなると思い込んでいるのだ。


もうとっくに彼らの滅びは確定している。
でもそれを彼ら『上級国民軍』の残党たちは決して認めない。
すでに彼らの組織は機能しておらず資金繰りも破綻しているので、あのような末端の兵士たちはかつてのように賃金も得られず、自軍の組織力を悪用して国からの援助を受けて生活することも出来ないでいる。


私はあの男に見覚えはない。
だが以前からずっとこの行動を続けていたのだろうという察しは付く。


昔からカルト宗教に付き従い、毎週会合に出席しては洗脳調教を受け、身内で人の悪口を言い合い、気に入らない人間の個人情報を共有しあって、その週に自分たちがやった "手柄" を自慢し合ってきたのだ。


職場で気に入らない部下や同僚に対してやった幼稚極まりない嫌がらせ、言い寄っても靡かない異性の個人情報を流出させ、カルトへの勧誘を断る家族の幼い子供に対して、自分たちの洗脳を施した年長者をけしかけて甚振る。


彼らはその後ろ暗い心の内を、同じように汚らしい内面を持ち合わせた仲間同士で曝け出し合い、自分たちの汚れっぷりを自慢し合うのだ。


気が狂っていると言ってしまえばそれまでだが、彼らはカルト宗教という汚物を口いっぱいに頬張って飲み込み続けてきた。
だからすでにその舌は腐っているし、身体はその毒と臭気で使い物にならない。存在が目に入るだけで不潔な気分になる。

彼らはカルトに入会したばかりの頃に抱いた、組織や先輩たちへの違和感がとうに消し飛んでいる。
だから誰も、その歪んた価値観には疑問など持たない。


カルト宗教とは、言ってみれば "価値観の逆転" がミソである。

汚いがキレイとなり、悪が正義となる。
罪が名誉であって、痛みが喜びなのだ。


それをいかに受け入れ続けるのか。
その "我慢大会" の参加者たちが、彼らカルト信者たちなのだ。


彼らはみんなこぞって自分の犯した悪事を披露して自慢する。
それが彼らの価値観だからだ。
汚ければ汚いほどにポイントが加算される。

ズルければズルいほど。
醜ければ醜いほど。
臭ければ臭いほど。


そして我慢すれば我慢するほどだ。

痛くて臭くて苦しくて不愉快であればあるほど彼らはそれを喜びに変える。彼らの頭には逆さまの定規が突き刺さっているのだ。


しかしその実、彼らはそのように強制されているだけで、実際は誰もその価値観で真に喜びなぞ受けてはいない。


彼らは嘘がアイデンティティであるために、常にウソを演じて続けているだけである。


だから我慢大会なのだ。

彼らは汚くて苦しい人生を、幸福であると演じる舞台に乗っている。
そのステージが、毎週の会合が行われる集会所なのだ。


それが開かれる日曜日以外は、誰もその価値観を本当に受け入れてなんかいない。彼らは既に限界ギリギリの生活をしている。

金銭的にもだが精神的にもとっくに限界なのだ。
だから普通の人よりも常に不安や恐怖、怒りや痛みを抱え続けているし、それらにとても過敏に反応する。
その原因は自分たちにあるはずなのに、彼らは当然のように他人のせいにする。自分の責任を認めず転嫁して弱い人に当たり散らすのだ。

学校や職場、町中で常に獲物を狙う。
獣が如く値踏みを怠ること無く続け、これはイケると思った相手をトコトン付け回し食い物にする。

自分たちの都合で内面に溜め込んだ滴り落ちる汚い罪を、何の関係もない優しい人に押し付けて拭うのだ。

彼らの身体から不浄な罪の汁が溢れ落ちない日はない。
だから彼らが生き続ける限り、犠牲になる人が現れるのだ。


こういった手法を、彼らはそのカルト宗教内の組織で教わる。

彼らは入信したての時から、目上の者に同じことをされ続けるのだ。
カルト内の組織は常に徹底した上下関係が敷かれている。
上には決して逆らえない。
そのあらゆる汚らしい行為を全て我慢して受け入れるのだ。


彼らのなかで、それを『修行』と呼ぶ。


そして彼ら末端の信者たちは、自分に擦られ続けた汚い汚物を、学校や町中で "拭き取る" 。


まことに勝手極まる話である。
自分の汚れは自分で洗うべきなのに、当然だがそんな常識は通用しない。
価値観は逆であるから。


彼らは光が恐ろしいのも当然なことで、影でコソコソと勤しんできた悪事は喜びである一方で実はやはり苦しいのだ。
でもその苦しさを一言でも口にしようものなら、彼らの身内で徹底的に叩かれる。組織内の階段を一気に振り落とされてしまい、先日入信したばかりの鼻垂れ小僧に敬語を使う恥辱を味わう羽目になるのだ。


自分たちの汚い心の内をこれでもかと曝け出している仲間たちのはずなのに、結局はその "本音" のところは一言だって話すことは許されない。


それが何年も、何十年も続くのだ。それがカルト宗教である。


だから彼らは誰よりも食や快楽に依存する。
彼らの殆どが大食で病的に肥え太っている。
アルコールは連日浴びるように摂取する。
損得勘定に異常に目ざとく、僅かでも安いものを血眼になって探している。


クーポン、セール、割引、セット、おひとつ限り、
タイムセール、先着何名様まで、会員限定、ポイント2倍、
出来たて、焼き立て、今だけ無料…


こんな言葉をスマホで新聞で町中で探し回っているのだ。

彼らは周りの人間と比べて1円でも自分が得をすることで優越感を覚える。そして勝利と叫び、それを日々の絆創膏にする。
彼らの腐臭が漂うささくれたメンタルは、他人と比較した損得の秤でしか塞げない。


それを今でも続けている。
あのジョギング男もそうだ。
ジョギングだって同じように昔からずっと続けているのだろう。

だが彼はもはや何が目的でとか、それが楽しくてとか、そんなことはもう頭にはないはずだ。
ただ、それまで続けていたことに依存しているだけだ。
他のことなど考えられない。ただ惰性で続けているのだ。


彼の進むそのレールはとっくに歪んで断ち切られている。
その先にあるのは切り立った崖だけだ。
周りで同じレールの上を走っているものはもういない。
たったひとり孤独にその転落への道を進んでいる。
他のみんなは逆を歩いているのに。


でも彼は止まらない。絶対に方向を直さない。
そんなことをしたら、それまでの自分の苦労が全て無駄になるから。
自分の過ちを認めたことになるから。


だから絶対に止めない。苦しいことは分かっている。
間違っていることにも薄々感づいてしまっている。
でも、絶対に止めない。


止めた瞬間に全てが崩れるのが分かっているから。
もう自分の中にある "支え" はひび割れていて保たないことが分かっている。彼は恐れているのだ。


逆に進むなんてとんでもない。
止まることすら出来ない。
止まった時の反動で "柱" が崩壊する恐怖に怯えているのだ。

だからそのままのペースで進み続けるしか無い。


彼はもうとっくに、自分の人生を改める権利すら奪われているのだ。


こうした重たい罪の振り子に振り回されている残党たちが、今でも時折攻撃を仕掛けてくる。
しかしその攻撃には、もはや威力は無い。


組織が破綻し、現場への資金も滞って士気も下がっているし、これまで隠蔽してきた情報もすべて明るみに出て彼らの正体がバレてしまっている。


そして 未だに彼らが使っている "アンカリング" を使った古臭い攻撃も、
さきほど私がしたような "ミラーリング" を駆使した "対策" があるのだから、彼らの攻撃すらまるで意味は無い。


彼らの "アンカリング" を使った攻撃に対しては、私がしたこの
"ミラーリング" を使った対処法が効果的である。


繰り返すが、彼らは自分たちの正体が明かされるのを極端に恐れている。

自分たちの実態や自分たちの考えていること、自分たちの胸の内を他人に見透かされる事が恐ろしくて仕方がないのだ。


そのカルト宗教から派兵された下等兵士が放つ "アンカリング" 攻撃に対して、同じ動作 "ミラーリング" を行うことで、相手から放たれる "メッセージ" とは "また違うメッセージ" をこちらから与えることが出来るのだ。


そのメッセージとは、



"あなたが行っている動作の意味を、私は知っている"


"あなたの行動の理由は、もうバレている"


"あなたにその動作を命じている "組織" のことも分かっている"


"あなたの正体を知っている"



本来、ミラーリングは親愛を意味する。

だがそれには "タイミング" が鍵になる。
ゆっくり相手と同じ動作を行うのなら、それは親愛の意味にもなるのだが、今回のように、



"相手が起こしたアクションに対して、瞬間的に同様の動作をする"



ことの意味は、



"あなたのことはとっくに分かっているよ"



と、いう意味になる。

彼らはこれを最も恐れている。



影からコッソリと、正体がバレずに行うのが彼らのやり方だ。
というよりもそれしか出来ない。
本性が暴かれるというのは、すなわち命を失うことと同じだからだ。


光に晒されてしまう。日光で消毒されてしまうのだ。


自分の醜さを隠してくれる暗闇のベールが剥ぎ取られるのだ。人前にさらけ出されるのは、自分でも正面から向き合えないほどの醜い本当の姿。


ジョギング男も、私とすれ違いざまに "反撃" を受けてからは、もう気が気ではないだろう。突然に丸裸になったような気分のはずだ。


自分が周りの人からどう見られているのかが気になってしまい、走ることに集中なんか出来ないでいるだろう。


彼らの攻撃に毒性があるように、この "ミラーリング" にもそれがある。


以前、私の鳴らした紙鉄砲があの老人に決定的な行動になったように、この反撃は悪人に致命傷を与える。


というのも、実は彼らの多くは "反撃" されたことが無いからだ。



彼らは人の痛みを知らないしそれを理解しようともしない。
他人が痛みで苦しむ姿を、彼らは愉快なダンスとしか受け取らない。

あれだけの場数を踏んでいる彼らのなかでも、双方に攻撃をやりあった経験を持つものは実はとても少ない。


なぜならそれは簡単で、彼らは反撃しない相手にしか攻撃を仕掛けないし、
やられる痛みを知ってしまうと、暴力を振るえなくなるからだ。


これはいつの時代でもそうだ。
痛みを知らないものほど、すぐに暴力を行使したがるのだ。


戦争でも、戦場での経験があるものは戦争を嫌がり、経験の無いものはすぐに開戦しようとする。


銃弾の痛みはおろか、弾丸の重みすら知らないボンボン達が口だけ番長で幅を利かすのは、時代が変わっても同じなのだ。


痛みを知らないものは恐怖を知らない。
だから恐ろしく残酷で大胆な行動をする。
子供が残酷なのはそれ故だ。


連中はまさに子供である。

汚らしい身内でかたまって、常に現実から目をそらし、自分よりも絶対に弱いと確信を持った相手にだけ居丈高になって横暴を振るう。


その値踏みのセンスが備わっているものほど、彼らの中で高い評価を受けるがその一方で、その分だけ "痛み" を得られず、成長のチャンスを失う。


だから年を取っても子供なのだ。

さっきのジョギング男もいい歳である。その点は私も人のことは言えないが、しかしあの男は人の痛みを知らないでここまで来たのだろう。

ひょっとしたら反撃を受けたのはこれが初めてかもしれない。


そうなると、今頃彼はその "痛み" でのた打っているかもしれない。
裸の恥ずかしさに右往左往なんてものでは無いのかも知れない。


 "痛み" 


これが彼らへの毒なのだ。


彼らは歳を取ってその "痛み" を知る。
それはまるで、成人がオタフク風邪にかかるようなダメージだ。


凝り固まって柔軟性を失った身体に、心に、その痛みは強烈に突き刺さる。それはゼリーに五寸釘を指すようなものではない。
ガラス瓶につるはしを振り下ろす行為なのだ。


その痛みが、彼に恐怖を植え付ける。
彼は今後、同様の攻撃を仕掛けづらくなる。


何故なら反撃が怖いからだ。


彼は今後、更に相手をよく吟味するようになるはずだ。

しかしどんな相手であっても、攻撃の際にはあの痛みが思い出されるようになる。
つまり攻撃しようとするとまず自分がその思い出によって "攻撃される" のだ。スニーカーに紛れ込んだ小石のように、自分が足を踏み下ろす行動が自らへのダメージになってしまうのだ。
その苛立ちはすがるものを失っている彼には辛いことだろう。
そのうち彼はジョギングをする度にその痛みを思い出すようになる。

そして苦しみに耐えかね、惰性で行っているジョギングを止めたとき、彼の心の大黒柱は音を立てて崩れることになる。


このように彼らは "弱い" のだ。


末端もこのざまだが、上に上がったところで特に変わりはしない。
血筋や家柄で "保護" されてきた連中こそ打たれ弱く、フェアに競われたら彼らには勝ち目など無いのだ。


だからこそ、彼らは不正の手を緩めない。
緩めた瞬間に死が待っていることを知っているからだ。


彼らには、とりわけその上層部にはその恐怖が染み付いている。

上部に行くほどに失うことへの恐怖は強まる。
上級国民軍の上層部は、銀の匙を100本くらい咥えながら生まれてきたものたちばかりだ。
はじめから全てを持っている者たちだ。


つまり失うこと、持たないことを知らない人たちだ。
それが彼らには未知であり、恐怖なのだ。


全ての雑事を従者に任せてきた彼らは、自分一人では掃除機のゴミパックすら変えることは出来ない。彼らはプライドが非常に高いから決して認めはしないが、その心の奥では自分の無能さを理解している。

でもそこに触れることはなく、またそこに触れる人間を許さない。

彼らは持って生まれた権力と立場を圧力へ転換して、自身を貶めるトラブルを力でねじ伏せる癖が身体に染み付いている。
それは代々親から受け継いだ経験であり伝統なのだ。

その伝統を受け継ぐ子供時代に、自分たちの都合を強権的に他者へ押し付けるやり口の暴力性に不快感を覚えても、結局は自分もそれと同じ方法を日常的に行使する生活が当たり前になってしまう。
命令と力押しの選択肢だけが、彼らの能力であることを彼ら自身は細かくは理解出来ていない。
それは言ってしまえば本能のようなものだ。
鳥が飛ぶことを、魚が泳ぐことをどれだけ理解出来ているというのか。
一匹のアリに複雑怪奇な巣の構造が全て理解出来ているとは思い難い。
しかし理解は関係なく出来てしまうのだ。何故かはともかく。


傍から見れば憧れ羨む力だが、当人は周り以上にその能力のメカニズムを理解していないから、それを失った時の絶望は大変なものだ。


泳げない魚に一体未来があるのだろうか?
飛べない鳥に希望があるのだろうか?


命令しても、身の回り全ての雑事を誰一人としてやってくれない上級国民に明日があるのだろうか?



深い理解が「信頼や安心」に繋がるのならば、その逆は「不安や恐怖」である。彼らは一方的で強烈なトップダウンだけで人生を過ごさなければならず、たとえ血を分けた家族間であってもその関係性は大前提だ。


だが、なまじその圧倒的な立場ゆえ、我々一般人のように人生の中で周りの他者との理解を求め合う必然性が発生しない。
何しろ、何をするにも誰に許可を取らずとも行えるのだから、いちいち他人の顔色を伺う必要など無いからだ。
その分、彼らの人生はある意味単純とも言えるが、人との紐帯が複雑に結びついた関係性の強度は、人にごく自然な形での安心や安らぎを与える。


だがそれは傍から見ただけでは弱々しくみすぼらしいものにしか映らない。

逆に上級国民たちとなると、果てしなく広大な土地のなか、万全の警備が敷かれた敷地内に、幾重もの分厚い壁に囲まれた屋敷を建て、強固な防犯体制が組まれた隔離世界の中で、ゆりかごから墓場までを過ごす。


他人との紐帯と分厚い壁。
そのどちらが安心を与えるのかは誰に聞くまでもない。
しかし実際は、人との繋がりが与える安心感と、そびえ立つ壁とではそれぞれにその与える安心感の方向性が違う。
本来それは単純な優劣では測れないはずである。

だが、彼らにはその価値観の違いを理解する持ち合わせが無い。


彼ら上級国民にとって、他者との関係性はどこまでも上下関係どころか、常に自分たちだけが上に居る生活が当たり前なのだから、他者との繋がりなんぞに重きを置くはずはない。


彼らにとっては分厚い壁こそが唯一絶対に信頼出来る安心の由来なのだ。
それはもちろんある意味では正しい。

猛獣が放たれた世界では、その厚い壁は何よりも頼りになるに違いない。


でも、壁では防げないものに対しては、一体どうするというのか?





私は大通りへ出てそのまま駅の方向へと進む。
同じように駅へ向かう人たちがチラホラと見えるが、改札入り口へと吸い込まれる人たちを他所に、私はそこを通過して裏側のバス停を目指すため線路を跨いだ歩道橋を渡る。


この郊外の寂れた駅は改札の反対側へ出ると更に寂しさが増す。
かつてささやかながら成り立っていた商店の名残が、線路に並行して建てられたくすんだ建物にこびり付いている。
その建物群に、手入れのまるで行き届いていない街路樹や庭木の強い主張が上から覆い被さり、ヒビ割れたアスファルトや側溝の境目から生えだした草花が下から建物へ貼り付いている。


放り出された建物たちのその姿は、まるで迷彩塗装を施した装甲車が佇んでいるようだった。


私は日に灼けてすっかり色褪せ、弾性を失ったプラスチック製の長椅子に腰を掛けた。座席部分のところどころが欠けていて満足に座れたものではないが、ここは他に腰掛ける場所が無い。
目の前にはサビだらけのブリキ製の板が取り付けられたバス停留所を示す棒がそびえ立っているが、これはもう現在では役に立っていない。


新しいバス停の目印はあるにはある。だがそこには椅子が無いので私はいつもこの古いバス停で待つことにしている。
どうせ他にここで乗る人もいない。バスは必ずこの旧バス停を通過するし、運転手もこの紛らわしいバス停を熟知しているので乗り過ごしもない。


廃墟のようなこの空間に朝から一人で座っている事は案外気持ちよかった。余計な騒音も無いからのんびりと出来る。


私は隣に置いたリュックサックから水筒を出した。蓋に熱いお茶を注いで口を付けた。お茶はまだ淹れたてそのものの熱さと香りを保っていて、ヘタな喫茶店などよりずっと安らげる。これならいっそ朝ゴハンはここで食べてもいいくらいだ。


後ろの線路から各停が発車していくと静けさが一層強まったが、そこでひとつの物音に私の耳は引き寄せられた。
その音は、どうもさっきからずっと鳴っていたようだった。


よくよく耳を澄ましてみると、そこには小さいながらもセミの鳴き声が響いていた。


確かに連日やや暑い日が続いていたとはいえ、流石にまだこの声を聞くのには季節はずれだ。


その鳴き声は正しい方のバス停側から聞こえてくる。
その街路樹あたりにでも止まっているのだろうか。
私はささやかに響く鳴き声に、驚きと同時に寂しさも覚えた。


真夏の日、彼らが一斉にわめき出すその声は、あまりにけたたましく、騒音と呼んで差し支えないほどだが、灼けつく日差しが照り付ける季節にはとても良くお似合いで、私達に時節を知らせる音色である。

しかし、それはあくまで私達の受け取り方である。
セミ自身にはその意識はきっと無い。

彼らは別段ボランティア精神をたぎらせてやっているわけでも何でも無く、それはどこまでも生命の活動として全身全霊でやっていることなのだ。
真剣そのものだからこそ、あの小さな身体であれだけの音を出せるのだ。

私達は呑気に季節のイベントとして消費しているが、彼らからしたら決して遊びではない。


私はこのか細いセミの音にその真剣さを見つけたとき、今私の耳に入る鳴き声がどう聞いてもたった一匹のセミから発せられていることに切なさを覚えたのだ。


セミはオスだけが鳴く。
そしてその理由はパートナーを見つけるためだ。
その音色でパートナーを引き寄せるのだ。


これが夏真っ盛りとなれば、特に自然の多いこのあたりは、その意識を芽生えさせた連中が下品なくらいにわめき散らす。周りにいる数百のライバルを蹴落として、自分が素晴らしいパートナーを得てやる、という熱意がボリュームの目盛りを更に引き上げていく。

私達部外者からすれば、熱気と騒音で目眩を免れない事態がそこかしこで行われる。けたたましさに苛立ちを覚えながらもその強烈なパワーにはこちらも毎年影響を受けてしまうものだ。


しかし今私の耳に届いてくる、かのセミの鳴き声にはそれが無い。


廃屋同然の東屋で夜明かしするやもめたちに聞かせる、琵琶法師の演奏のようなもの哀しさが漂ってくる。


この鳴き声の主からは、パートナーに対する欲求のような肉体的な熱気が感じられない。


この声には、涙がある。


自分が発したメッセージに誰も応えてくれない、という哀しみがある。


必死に鳴き喚いているその気持ちは伝わってくる。
だがそれを真に受け止めてくれるものはいない。不幸なことに、この季節に地上へと出てきたことが彼の運命を決めてしまった。


長年の孤独な土の中での生活から遂に開放されたのに、あれだけ強い日差しを夢抱いていたのに、いざ出てきても一番の本懐が一切叶わない。
それどころかその苦しみさえ、誰にも理解されないのだ。


彼の鳴き声には、せめてこの哀しみを理解してほしい、という想いが溢れている。


あのセミの鳴き声は駅のホームで電車を待つ人にも聞こえるだろうか?
 
いや聞こえたとしても、あのセミの哀しみまでは届かないだろう。
耳に入ってくる季節外れのセミの声は、どこまでいっても所詮は雑音に過ぎないのだ。
これから本日の業務へと向かう多くの人たちにとっては、ただ単にウルサイだけにしか聞こえない。
パートナーを求める声と、想いを受け止めてほしい、という切実な声の違いには誰も気づかない。


しかし、それぞれはまるで違うものであっても、他人には同じとしか理解出来ないことは、何もセミの鳴き声だけの話ではない。


私はそのことに気づいたとき、さっきのジョギング男を思い出した。

また、私がこれまで闘ってきた数々の敵兵と、向かいに住む例の老夫婦が心に浮かんできた。
ホームの人たちにとってのセミは、私にはこれらの連中だった。

でもこうして考えると、あの敵兵や工作員たちもあそこにいるセミみたいなものかも知れない。


カルト宗教の2世3世には選択の余地はない。

その家庭に生まれたら最後、自動的に幼い頃からカルトの価値観に首まで浸かる羽目になる。
それが正しいだとか、それが素晴らしいだとかはどうでもよく、ただそこに生まれただけで押し付けられてしまう。そして人生の中でカルトへの接触を重ねていく分だけ、他の様々なチャンスはどんどんと失われていく。


年を経て自分のいる世界がいかに周りから煙たがれて嫌われているのかを知ってしまったあとでも、もういまさら引き返せず、そのまま死ぬまでその中で生きていくしか無い。


まるで土中のセミのような人生だ。
彼らが地表に上がって日差しを受ける日はいつ来るのか。


それは永遠に来ない。

彼らは、自分が狂った闇の世界にいて、そこから抜け出さなければ行けないと気づく前に、家庭や仕事を背負わされてしまう。

それでもう身動きは出来ない。


せっかくの休日も集会へと駆り出される。
少ない収入は自分たちの家庭以上にカルト組織に吸い上げられていく。
もちろん組織からの指令も昼夜を問わず出され、これも無視することは出来ない。

現代は、カルト宗教の存在やその行動も全てネットで調べれば簡単に分かる時代だから、信者が職場や町中、ネット上でしている汚らしい行為の真意は、皆に筒抜けになっている。

そうでなくても、行為そのものが一般常識から外れた非礼で異常なものなのだから、どこへ行ってもどんな人からも疎まれ、後ろ指を指される生活である。そしてどんな場所にもカルト仲間がいるが、それは互いを支え慰め合う関係ではなく、互いを監視し合う関係なので気が休まることはない。かえって苦しいほどなのだが、周りから嫌われている以上は身内で固まるほかはなく、常に監視者をまとわせながら生きていくしか無い。
中にはヤケになって狂った心根を曝け出している人も居る。
人前や店内や職場で信じられないほどデッカイ声で話し、下品に笑い声を響かせる人も居る。
周りからどう思われようと、もう気にならない人たちだ。
吐き気を催すバランスの衣服を纏う人もいる。


こういう人たちは、心の葛藤に耐えられなくなった人たちで、気が触れてしまって自分で考えることが出来ないのだ。

そんな仲間を見ながら、「自分もいずれこうなるのだろうか」と恐怖を覚えたり、「いっそこうなってしまったほうが楽かも知れない」と、誘惑に駆られたりして、毎日自分の存在が揺らいでいくのだ。


あの孤独なセミが、間違ったときに地上へ出てきたあのセミが、パートナーと出会える確率がゼロに近いように、カルト宗教に絡め取られた人生が幸福を得ることはない。


私は、これまでの彼らがしてきた攻撃を思い出していた。


彼らのあの不気味な行動
あの気味の悪い声色
不自然な身体の使い方の数々


効率が悪く、大胆と言うより愚かと言ったほうが適切な彼らの攻撃には、「恥」という言葉が見当たらないものばかりだった。


その行動のどれもが、本当に「結果」を求めているのだろうかと首をひねらざるを得ない事ばかりであった。


その行動が組織のためであり、その組織の利益がゆくゆくは自分の元にも降ってくるのだ、などと本当に理解しているのならば、もう少しうまくやるだろうと勘ぐってしまうくらいに、彼らの言動はいちいち雑でブザマで意地汚く、いたずらにトラブルを増やしているようにしか見えなかった。


「そんなことしたら後々面倒になるぞ」と、思わず心配になってしまうこともあった。
他人に対して失礼極まりない言動が目に余り、無関係なのに思わず咎めてしまったこともある。

しかし当の本人は私の指摘をまるで理解出来ず、
「何故赤の他人にそんな指摘を受けないとならないのだろうか?」
と疑問符を浮かべた顔を晒していた。


私は常々、彼らに「組織」や「全体」という感覚が僅かでもあったなら、あんな風にはならないはずだと考えていた。


だから今はこう思う。


あの行動は、ひょっとしたら絶望した彼らの悲痛な叫びだったのではないだろうかと。


彼らは自分が世間へ放つ攻撃行動をキッカケに、そのがんじがらめの人生から脱却したかったのではないか。


指示に従い行った、一般の他者への攻撃で、彼らが得たいと望んでいた結果というのは、実は自分自身を縛り付けるしがらみの破壊だったという気がしてきたのだ。


24時間365日、常にカルト宗教に苦しめられている彼らこそ、本当にそれを望んでいたように思えてくる。


回りくどくて身勝手で傍迷惑な自傷行為。
いや自殺行為だ。


彼らの救われない人生にも確かに同情の余地はあるが、しかしその自分の苦しみを無関係な人々に向けてきた歴史的事実には同情など沸かず、ただ怒りしかない。
それも弱い人や、優しい人を積極的に殺しにかかったのだから、到底許せるはずはない。


しかしもし、彼らに教えてあげたとしたら。
もし彼らに、本当のことを教えてあげたとしたら、彼らは変わってくれるだろうか?


その教わったことが、自分自身の人生を変えることだと知ったら、彼らは喜んでそれを受け入れて実践するのだろうか?


あそこで悲鳴をあげているセミに、他所の茂みへ行けばまだチャンスはあるぞ、と教えてあげたら飛んでいくのだろうか?



いや、無い。


そんなことは、無い。


それこそ敵を甘く見すぎだ。
彼らの絶望的な救いのなさを甘く見てはいけない。
彼らは優しさや善意を最も上手く踏み台に利用する才能を持っている。


素直に耳を貸す?
心を開く?
感謝をする?



ありえない。


彼らの心や思考回路には、カルト宗教から埋め込まれた偏光プリズムが仕込まれている。
それはまっすぐな人の気持ちをどこまでも都合よく捻じ曲げる力を持っているから、彼らには決して届かない。


もし、それを受け取りたいと本当に彼らが望んでいるのなら、まずは彼ら自身の手でその心に埋まったプリズムを叩き割らなければならない。


それは絶対に自分でしなければならないことだ。


いやもっと言えば、それは他人には出来ないことなのだ。


自分で頑張ってするしかない。
彼ら自身の、心の奥の、幼稚で汚らしいその奥の奥に埋め込まれた歪んだプリズム。
それは自分自身の手で探り出し、取り出して叩き割るのだ。


それまで赤の他人に、それも日頃嫌がらせや攻撃を加えている人にやらせるなぞ、傲慢にもほどがあるのだ。


しかし、どうも彼らは本気でそれを望んでいる気がする。
一体、どれほど甘ったれなのか。
恥ずかしくないのだろうか? 呆れるにも程がある話だ。


でも、きっとそうだ。
それくらい彼らの内側は疲れ果てているのだ。
何処かの不良映画みたいなものだと思う。
走っているのではなく、止まれないのだ。


あのセミに、私の言葉は通じない。
私があのセミに出来ることは何か?


おそらくは、せいぜいがあのセミを探し出して、止まっている木を揺さぶってやり、他所へ飛び立つように促してやることくらいだろう。


私のその行動は、彼には恐怖としか感じられないだろう。
彼は私に感謝などしない。

やっとのことでしがみついているその場所を叩き出されるのだから、私に感謝どころか恨みさえ抱くに違いない。


でもそれも無理もない話だ。
彼には私の気持ちや考えはまるで理解など出来やしないのだから。


もし仮に、私の気持ちや考えが理解出来るのだとしたらどうか?
 
言うまでもない。それならばさっさと実践している。

私にそのか細い悲鳴を聞かせること無く、サッサともっと良い居場所を求めて移動しているはずだ。
しかしそれが出来ていないのだから、到底理解はされないということだ。


つまるところ助けるつもりのその行為は、相手から悪戯に恨みを買うだけと言える。
言ってしまえば攻撃とみなされるのだ。


私が彼を慮ったからこそ出た行為なのに、ただの敵意と判断されてしまうだけだろう。


だが木を揺さぶられ、慌てて逃げ出したその行動が、後になって自分が助かるキッカケであったと気づいたときに、一体彼はどう思うだろうか?


あのとき、彼が敵意と判断した私の行動が、実は助けるために起こしたものだという真意を悟ってくれるのか?
それとも自分の実力と受け取って、その頑なな性格に拍車をかけてしまうのだろうか?
それとも単に幸運に思うのだろうか?
感謝をするのだろうか?
目を覚ますのだろうか?


誰でも、それが絶対に必要であったとしても、その必要性を理解出来ていなければ探すことも受け取ることもしない。


裸足の人間には、ランニングシューズとバスケットシューズの違いは分からない。使い方も分からないし理解する気持ちも持てはしない。

だが、日頃から靴を履いて生活している人はそうではない。
靴を持つ者は、靴が破れた時には修理や買い替えの選択肢があるが、裸足の人にはその選択肢すら無いのだ。


裸足の人が靴を買うことと、持っている人が靴を買い換えることは行為の重みも意味もまるで違う。
裸足の人が靴を買うというのは、自分の人生が大きく変化する事を受け入れるという意味であり、それは大変なことだ。
自分の人生の中に新しいカテゴリーが誕生する瞬間の刺激は、歳を重ねるほどに苦しく恐怖になる。
若ければその刺激は、逆に誘惑となって自ら受け入れに進み出る。


しかしてあのセミは若いと言えるのだろうか? 
セミにとって若いというのは幼虫の頃なのだろうか?
それともまだ出てきたばかりだとすれば、若者と考えていいのだろうか?


うん、いやまあどちらでも結局は同じだ。


必要かそうでないかについては、年齢も性別も関係ないのだから。
彼にはそれが必要なのだったら、それだけの話だ。
ややこしく考えることは無いだろう。


私はお茶をずずと飲んだ。程よく冷めていておいしい。


カルト信者たちの悲鳴が助けを求める声だったとしても、差し出された手にすがりつくことはなく、その手の持ち主から奪い取ろうと襲いかかってくるだけだ。


彼らには欠けているものがある。
救われたその後の自分の姿だ。


裸足の人が靴を履いた人生を思い描けないのと同じだろう。
仮に一度でも靴を履いた経験があったなら、それを思い出すことが出来る。そしてその経験が素晴らしいものであるならば、それを求めるようになるだろう。


でもカルトたちは、全人生の中で一度だってその経験は無い。

ただの一度だって人の優しさや人の愛や、この世界の本当の素晴らしさや真実に出会えたことはない。
それが目の前にあっても見えず、それを見つけたときには踏み潰し破壊する習慣が刷り込まれている。



彼らにとって、いや、誰にとってもきっとそうだと思う。

思い描くことが出来ない世界を求めて、それを実現することは極めて困難なのではないだろうか?



「でも・・・」


私はぐいとお茶を飲み干した。


でも、そんなことはないだろう。

なぜなら今、思い描けるほどの力が無くたって、ずっとずっと必死に求めていけば、きっと描けるようになるはずだから。


何だってそうではないか。

始めは誰だって必ず失敗するし上手くは行かないものだ。

でも毎日毎日必死に繰り返して失敗を沢山経験して行くことで成長し、やがては可能になる。
そういうものじゃないか。


だったらきっと大丈夫だ。



今、カルトたちが実効支配し、上級国民軍が統括していた世界が崩れた。

そして、これからは我々がこの世の中を統治していくのだ。
それは、これ迄とはまるで違う新しい世界になる。


でもその時に、今までと違う世界をしっかりと思い描き、共有していかなければ、またしても『悪』が浸透してしまうに違いない。


いったいどんな世界を作ればいい?
どんな人々の生活が良いのだろう?
目指すべきものは何であるべきだろうか?
どこを反省すればいいだろうか?
何を捨て、何を得るべきだろう?


こう考えると複雑で難解で、途方もなく実現不可能な絵空事のように思えてしまうが、実際はそんなことはない。


もっと簡単なはずだ。



だって、『悪』の反対が『善』なんだから。


これまでの反対にすすめばいいんじゃないか?


世界が、金と恐怖と独占と支配と暴力と死で覆われていたのなら、きっとその反対を目指していくことに鍵があるのだ。


うん。
きっとそうだ。


ブロロロロ



目当てのバスが新しい方の停留所にやってきた。
私は水筒を片付け、カバンを背負ってバス停へ向かった。


歩きながらふと、さっきのセミの声が聞こえなくなっている事に気づいた。


アイドリングをかけているバスのエンジン音にかき消されているのかと思ったが、近づいてもなおセミの声はしなかった。


私は一度バスを素通りし、バス停の後ろに茂る木々に近寄ってみた。
停留所にささやかな屋根が出来る程度に枝を伸ばした木を、下から覗き込んでみてもセミの姿は無く、注意してみても声はしなかった。


きっと、私の後押しが無くても自分で気づいて飛び去ったのだろう。


そう思い、戻ってバスに乗ろうと振り返ったときに、私は地面にひっくり返ったセミが転がっているのが見えた。


仰向けになってジタバタと藻掻くセミの姿があった。


私は一瞬、足を止め目を奪われた。



ああ、駄目だったか…



私は彼を救えなかった。


いや、どっちにしても弱っていたのだ。もう歳だったのだ。
もし私があの時にここから追いやったとしたら、きっとそのショックがきっかけになって死んでしまったかも知れない。
どちらにしても、もう手遅れだったのだ。


彼は結局、誰にも自分の気持ちを受け取ってもらえなかった。
彼はついに孤独のままだった。


私はポケットから小銭を探りながらバスのステップに足を掛けた。
そして乗り込むときに、もう一度後ろを振り返った。


やはり、その地面に転がった小さな秋の枯れ葉のようなものが、風もないのにバタバタと喘いでいた。


どうやったところで彼を助けることは私には出来なかったのだから、そのチャンスは無かったのだから、その気持ちに引きづられる事は間違いだろう。


私は小銭を機械に入れながらそう思った。


投入する際、目の前に座っている老いた運転手の顔をチラリと見ると、彼はバックミラーを注視しながらソワソワと腰を動かしていた。


私は、彼がミラー越しに見ているものを車内に乗り込みながら確認した。


そこには、後部座席で小さな子を連れたお腹を大きくした女性と、その二人に高圧的に絡む、 "顔に雑巾を付けた中年残兵" との "戦闘" があった。


それは言うまでもなく、明らかな "非戦闘員" への虐殺行為であった。


少ない乗客は皆して、この残兵の残忍な暴力に対し、流れ弾に当たらないように身を伏せてしまっていた。


確かに適切な対処ではあるがそれは同時に、あのか弱き3人の命を、
この汚らしい『悪』に生贄として捧げる行為に等しいのだ。



ふざけるな


そんなことは許さない




私は目を彼らに向けたまま、手で素早くズボン右ポケット付近のベルトループに取り付けた、ボディカメラのリモコンスイッチを弄った。


そしてすぐに「REC」の"トリガー" を弾いた。



やれやれ



私は彼を救えなかった。

だが、彼女たちなら助けられる。



私はそのチャンスに感謝をしながら、戦場へと足を進めた。





【2つめのPOV】シリーズ
第6回「しがみつく」


パターンA〈ユスタシュの鏡〉
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まとめ記事



おわり


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【借りものたちのメッセージ】シリーズ


【シンプル・プラン】シリーズ


【カメオの共鳴】シリーズ


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【グッドプラン・フロム・イメージスペース】シリーズ


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【獣人処方箋】シリーズ


【身体の健康】シリーズ


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【過去記事のまとめ】


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