【楽園の噂話】 Vol.18 「もう、すでにできている」 Last Part 『プリン・ア・ラ・モード が邪魔なとき』


 甘党の人がファミレスで食事をする際にどうしても目の端に入れてしまうチョコレートサンデーやラズベリーパフェは、アル・パチーノが思わずアートだと評価するほどにいつだって魅力を放っています。

しかし上張りから熱心に掘り進めてゆくと、ラッパ状の器の底にこれまでの名残が一丸となって溶け合い溜まってしまいます。 もはや色味も形も初めの頃を思い出すことも出来ない姿に変わっているため、そこで止まるのが上品なのでしょうが、さっきまでの魅力をもう一度とばかりに利き手に構えた医療器具のような匙で、まだ手付かずのふやけたコーンフレークやブルーベリーを求めて無様にかき回しても、そのサイ用の耳かきのような匙に付けられた浅い傾斜がまるで仕事をせず、やがては周りを囲むファミリーや若者の視線を力強く無視してまるで旧友の初婚への祝杯のように器を傾ける恥をさらすことも辞さないほどに、スマホの時代の現在でも人々の心を奪う力はまるで衰えていないのです。


以前にも書きましたが(【グッドプラン・フロム・イメージスペース】 Episode.3 「大喜利の罪」)、政府の政策や会社の方針など、高い立場から発せられる号令があまりにも非常識で馬鹿げているときに思わず人は茶化してしまうものです。
ネットの時代である今はその頻度も速度もかつての新聞の比ではなく、すぐに揶揄したコメントや果ては動画まで作られ拡散し共有されます。

しかし「ワグ・ザ・ドッグ~ウワサの真相~」という名作映画にもある通り、そうやって茶化されたりネタにされたりしておけば、その元になったトラブルへの人々の興味や関心が薄れ追及の手が弱まるのです。真っ直ぐに走るバイカーが偶然見かけたキタキツネに吸い寄せられるように、推進力にブレが生じ深刻な責任問題も末端の首切り程度の軟着陸で手打ちにできるのです。

本来、知性で構成された政治世界で発生したトラブルを感情世界のテーブルに舞台を移すやり方です。
知性は数が少ないものの操り辛いですが、感情は力と数はあるものの単純で操りやすいのです。

政治をショーに変えてしまうことで、トラブルは容易く収束に向かいますし、政権に都合の良い政策の駒も簡単に進めます。

昔、深夜ラジオである芸人が「一般的な言葉を流行り言葉にするのはとても困る。真面目に話していても笑いを狙ったように受け取られてしまう。」と話していました。
当時聞いたときは、自分だってその芸人のくせに、と感じましたが確かに彼の言うとおりだと思います。

しかし、これも狙ったもので、こうした流行り言葉は毎年誰も関心のない流行語大賞などで後押しされますし、ステマであらゆる媒体を通じて子供や若者から世間へと拡散され定着されていきます。

かつての深夜ラジオの芸人と違い、世間の人々は日々の生活の中に彼らほどの過剰な笑いは求めていません。
言葉を笑いではなく、きちんとした言葉通りの大切な意味のために使うことが多いのですが、こうして一般的な言葉に笑いのソースをかけられてしまうと、普段の生活に無駄な意味合いが混入してしまい、社会的な能力は低下してしまいます。

笑いが偉い、といった考えは極一部の笑いを生業にする芸人だけの価値観であって一般では通じることではありませんし、もし通じるのであればそれは一般社会がヤクザな芸人社会に乗っ取られたことを意味するのでしょう。

人々を都合よく管理したいと考える者たちの目的である、庶民から知性を奪い感情だけを詰め込むように調教する姿が、今日も今日とて芸人が一般人に”ツッコミ”を入れるという形で私の目に耳に注がれ続けているのです。


『プリン・ア・ラ・モード が邪魔なとき』

おわり

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 私たちが日夜、真新しい報道や情報を追いかけていき世の改善のために頑張るときに、こうした予めセットされている悪のシステムやギミックに注意がいかないと足元をすくわれてしまうでしょう。

悪に奉仕するこれらの仕掛けが、その悪人たちでさえも必ずしも上手くコントロール出来るわけではなく、案外彼ら自身がハマってしまう姿も散見されるのです。

それはこの仕掛けの数々が、はるか昔からできているからです。
これらの問題は今に始まったことではないのです。


【楽園の噂話】 Vol.18 「もう、すでにできている」


おわり

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