新シリーズ 【2つめのPOV】企画説明:中編 (No.0134)
前編のつづき
技術や学問のように、人ひとりひとりの知性もしっかりと積み重ねられる事が賢さへの道でしょうが、その積み重ねを阻害する状況や事情は星の数ほど存在し、毎日内部に貯まった知恵の積み木を崩したり腐らせたりしてしまうのです。
そして何よりも、そもそも世の中には「知性を重んじ、賢くなること」が大切であるという考えや価値観が全然浸透していないのです。
世の中は今だって知性より肉体が優先される世界です。
しかし、それでも大分変わっています。
この日本でも相当食事には困らずに過ごせます。勿論例外はたくさんあり否定しません。私も食事にとっても苦労してました。
ですが、よく言われたデフレ飯なんていう飲食店も味や素材に拘ったり調理法に工夫をこらしたりと、単に安いだけでは客は寄りづらくなっているのです。
それでも休日にチェーンの割安な食事に人々が群がるのは、少し希望的な意見かもしれませんが、ただの「習性」なのだと思います。
人生や世の中の価値観が「知性より肉体」で凝り固まっているのですから、隙きあらば飯を食らう習性が健在なのも仕方ないのでしょう。
でも習性なだけであって、幸せに感じているかというとあまりそうも見受けられません。
チェーン店が不味いとかそういう事ではなく、やはり飯を食らうこと以外にすることが無い人生はどんな人だって退屈で辛いのだと思います。
だがそれ以外に何をして良いか解らないのですから、古来よりの習性に従う他ありません。
でももう一杯です。もう沢山だと思っている人は少なくないはずです。
これからの世の中を生きる人々には、新しい習性、いえ新しい習慣が必要なのではないでしょうか?
つまりこれからは、これまで常識だと思っていたことをきちんと考え直し、場合によってはいち早く捨て去り正しく作り直す必要があるのだと思います。
以前に別の記事でも書きましたが、世の中の一般的な常識というのはその殆どが学校で教えられます。しかし肝心の学校自体がもはやカルト宗教に毒された世界に成り果てているのですから、そこで刷り込まれた歪んた価値観はその子供達が大人になることで世に放たれて「常識」となってしまうのです。
自分で考えて実行する事が特別にされ、自己判断が罪のように扱われているのです。
これを改善する必要があるでしょう。
そもそも誰かの指示で動き、自分の肉体や個性を活用しないで生きることは面白くないのです。
たとえ失敗したって自分を使うことが何よりも楽しいのです。そもそもきちんと失敗しなければ学ぶことは出来ません。そして学んで何かを知れば楽しくなります。
ですから自分の人生を生きる楽しさが解ることで、充分に生き方も変わるのではないかと思っています。
そしてそれを阻害する事が罪であるという「常識」も、楽しさを邪魔される経験が裏付けになって広まるかも知れません。
最初の方にハイテク機器や技術が、知恵や研究の積み重ねであると書きました。
これらの場合は「肉体」も「命」もないので、途中までの成果を誰かが引き継げば発展を続けられます。
しかし人間は寿命があるのでそうは行かず、「人生の知識」などは本などにして残せても、その個々人の中の「知恵」や「知性」は本を読んだだけでは発展しません。
知恵であろうと経験であろうと、一人ひとりがそれらを咀嚼し消化吸収するプロセスや苦労が無いと身につかないし、成長しないのです。
それもコツコツと積み重ねていかないといけません。知恵に前と後ろがあってこそ成長になります。
また、新しい事を得たとしても、その都度昔の事を忘れていては意味がありません。何故ならまた過去の過ちなどを繰り返してしまうからです。
ネズミが平地を走り回って穴蔵や小石や草むらの場所を覚えても、空から鷹が見ていることには気づけません。
また、鷹も地の底に繋がる穴蔵や生い茂る草むらの中までは分かりません。
しかし人はその両方を得られるのです。
1階から階段を登って2階、3階と登ることで下からの目線も上からの目線も手に入ります。
ですが、2階に登った時に1階の目線を忘れてしまっては意味はないのです。
そのそれぞれの比較や、その両方を照らし合わせた時に得られる知恵が大切なのだと思うのです。
つづく