【楽園の噂話】 Vol.18 「もう、すでにできている」 Part.3 『傲慢なテンプレート』 (No.0121)

 お店とお客のように、双方に何らかの目的があって対峙したとき、それぞれが目的達成の為にお互いの話をまとめていき、落とし所を見つけて解決に進むものです。

お店という立場であったとしても、資本主義の世であっても、お客の要望だからと言って何でも聞いて要望を叶えるわけではありません。

餅は餅屋というようにそれぞれに専門があるものです。

自分たちの分野であればプロは知識も経験も持ち合わせていますが、それ以外のとなると、常識程度の知識量が精々でしょうし、専門外をしつこく要求するとただの迷惑となるだけです。


人にはそれぞれ個性も立場もあります。誇張する必要もなくこれは先程のお店のようなものです。
得手不得手があります。
しかしお店のように看板が出ていないので、お店以上に何が出来るとか何が得意だとかは殆どわかりません。

渋谷駅から歩いて10分のところで、歩行者に駅までの道を尋ねれば大体渋谷駅への道を教えてくれるはずですが、ブラジルのアマゾン奥地で現地人に救助された時に駅までの道を聞いたって誰も答えてはくれません。

渋谷駅近くの人の中には、渋谷駅までの道のりがセットされていますが、アマゾンの現地人には自分たちの生活領域の道のりが入っているわけです。
これはもちろん看板に書いている訳ではないですが、そういうものです。

一人で泣いている子供が家に帰れないと言ってたら、住所を聞いたりして家に帰れるように手も知恵も貸すことでしょう。飼っている犬が死んじゃったと言ったなら、大人なりの言葉で慰めてあげるでしょうし、家の鍵を失くしちゃったと言えば何処らへんで無くしたか?どんな形なのか?と聞き出し探すのを少しは手伝ってあげることでしょう。

でも助けようと話しかけたその子に「ジョージ・ワシントンに虐殺されたネイティブアメリカンの子供達の魂を慰めて欲しい」と泣きつかれたらどうすればよいでしょうか?

聞かされた方はにわかには話の内容も理解できず固まってしまうことでしょう。
予め予想していたいくつかの話題の準備が全て消し飛んでしまい、人生で一度だって考えたことのない問題に直面させられるのです。
こうなると人は何も出来ませんし、さっきまで持ち合わせていた小さな善意も何処へやらで、適当に聞き流して去ることでしょう。

対応する相手が自分よりも目下に位置すると分かった時、人はどうしても応対に変化が生じます。
言葉遣い程度なら良いのですが、問題なのは相手を受け入れる為の幅を狭めることです。
面倒は御免とばかりに断る条件を増やします。目上の時には嫌々ですが逆に幅を広げるのです。
対応してもらう立場にいる時には、どんな時でもその幅を最高まで広げていて欲しいと望みますが、それは人によりけりで実際にはこっちがどんなに困っていても融通というのは時々によるのです。
しかしだからって簡単に諦められないときもありますから、そういう時は一生懸命に説明したりして事情を汲んでもらおうと闘うことでしょう。


そうすると、対応した人は手に余ると考えて、上司などにバトンを渡すのです。


その上司は当然先ほどの部下と同様の対応も見せますが、その部下よりも持ち合わせている知識の量や経験が違います。問題を抱える方からすれば、受け入れてくれる「幅」が広がった事を意味しますから、解決に一歩近づいたとも言えるのです。

釣る魚に合わせて針のサイズが替わるように、対応すべき問題の内容に合わせて解決する人の思考のサイズも適切に合わせる必要が有るのです。
そこのサイズに誤差があると上手く行きません。ピントが合わなければいけないのです。

しかし解決の側が合わせようとしたり、合うものを探そうと努力しているのならば良いのですが、解決側の都合から扱う問題を「加工」してしまうケースもあるのです。

対応できないと素直に言えば良いのに、利益や体裁などから断らず「何とかしよう」とする時には、泣きをみるのはいつでも問題を抱える側です。

自動車整備工場に病気の馬が持ち込まれた時に、整備員が馬にガソリンを飲ませるような解決策を行う馬鹿げた事象は日常にも普通にあります。


明らかに入らないというサイズの物を無理矢理に袋やカバンに押し込んだせいで物やカバンをダメにしてしまったり、絶対に間に合わないドアが閉まる直前の電車に飛び乗ろうとして、全力で走って結局乗れなかった人。
曇り空でおまけに雨がぽつぽつと来ているのに傘を持たずに駅へ急ぐ人。
大して空腹でも無いのに余分に注文して苦しい思いをした上に残してしまう人などなど・・・。


こうしたケースはまず何よりも「自分の都合」が第一に考慮されることで発生します。
希望的観測と言ってもいいですが、独りよがりの方が合うかも知れません。

さきほどの泣いた子供のときのように、予め自分に自分で「セット」した型があるのですが、いざ嵌めようとしたら見当違いで上手く行かない、ならば上手く行くように現実を変化させて認識し直そう・・・。
そうした加工作業をすることで不幸を招きます。


現実が自分の思いで急速に変化することはありません。
その電車に乗りたいと思ったところで電車は時刻通りに運行しますから、乗り込むのが遅れたら願ったところで乗れません。
傘を取りに戻るのも、持って歩くのも煩わしいと思っても雨が止むわけでは無いのです。


こうした時に、自分が先に「セットした」型が「合わない」と認めてすぐに合う「型」を探してセットをし直せば不幸が回避出来ることもあるのですが、なかなかこうはしません。

何故ならこのような現実事態を「目下」に見ているからです。
自分という人間が世の中の中心であるように傲慢に考えると、それ以外は下に見てしまうのです。
そのとき人は人生のあらゆる事象を受け入れる「幅」をとても狭めてしまっているのです。
それは言ってみれば愚かになっていることそのものなのです。
狭い心が知性も行動も狭めるのです。


次回につづく

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