短編小説『すいませんオジサン』
「すいません」
「すいません、すいません」
泣きそうな顔をして謝ってる警備員のオジサン。制服が埃で少し汚れている。オジサンは、先輩らしい若い警備員から怒られていた。道路工事の横を通る車を誘導する仕事。オジサンの要領の悪さを注意されてるらしかった。
オジサンは五十を少し過ぎたぐらい。浅黒い顔。深いシワ。白髪まじりの薄い髪。歳よりも老けて見える。若い警備員に何か言われる度に、「すいません、すいません」と、頭をペコペコ下げている。
オジサンの「すいません、すいません」には哀れさ以外のものがある。声は頼りなく弱々しいが、瞳の奥に、「こうやって生きてきた」というしたたさがあった。若い警備員は、言いたいことを言い終わると持ち場に戻って行った。
オジサンも持ち場に戻って行く。猫背のオジサンの狭い背中。痩せた腰。細い足。足取りは重くはなかった。怒られていたことを振り落とすように軽く見えた。怒られたことをさほど苦にしないのは、どんかんなのか、ずるいのか。オジサンの心の内を察することはできない。傍から見れば哀れを感じるだけだが、オジサンにしてみれば、そう単純な心境ではないのかもしれない。
恥ずかしいも「すいません」
今は警備員をしているオジサンは、これまで数え切れないほどの仕事を転々としてきた。中には長く続いた仕事もあった。居心地が良くても、気の合わない同僚が入ってきたり、景気が悪くなって解雇されたり、仕事に飽きてしまったり。仕事に生きがいを持てないオジサン。特別な資格や技術は身につくことはなかった。
古い木造二階建てアパート。陽のささない北向きの狭い部屋。独りで暮らすオジサンに家族はなかった。オジサンは過去に家庭を持っていたようには見えない。今のオジサンに、話し相手は誰もいなかった。朝早く部屋を出て、夕方、近くのスーパーで弁当と缶ビールを買って帰る。ラジオの声に耳を傾けながら、缶ビールをチビチビ飲んで、弁当を食べるのがささやかな楽しみ。
ラジオから流れる懐かしい歌に、ふと、昔のことが思い出される。大学を五年かけて卒業したオジサンは、社会に出るのが怖かった。普通の会社員になれないと思ったオジサンは、公園の清掃をするアルバイトを見つけた。一人で公園を掃除するだけの仕事だから、人嫌いのオジサンにも勤まった。
公園の砂場の周りを竹の熊手で掃除しているオジサンを、幼い子供を遊ばせていた若い母親達がジロジロ見ている。「若い男のするような仕事じゃない」とオジサンも思っていた。オジサンは申し訳なさそうに、「すいません」と小さな声で言いながら、母親達の周りの落ち葉を掃いている。
悔しいも「すいません」
公園掃除の仕事に慣れてきたオジサンは、前の日に缶ビールを飲みすぎて朝寝坊してしまったことがある。昼近く起きたオジサンは、急いで公園掃除に出かけた。錆びついた自転車に熊手と黒いビニール袋を積んで出たオジサンは、一日に十数箇所の公園を回らなければならなかった。
日も暮れかけて、オジサンが最後の公園にたどり着いた時、高校生ぐらいの若者が数人、ベンチの周りで花火をして騒いでいた。オジサンは嫌な予感を覚えながら、急いで掃除を始めた。若者達の周りは、花火の燃え残りのゴミが散乱していた。オジサンは静かに近づいてゴミを片付けようとした。
その時、少年の一人が線香花火を持ちながらつぶやいた。
「くっせーなー」
オジサンはドキリとして一瞬、手が止まった。
「なんか臭うなー」
違う少年もニヤニヤしてつぶやいた。
「すいません」
オジサンは思わずそう言って、その場を急いで離れた。自転車に戻ったオジサンは逃げるように公園から遠ざかろうとした。オジサンの後を追うように、少年たちの笑い声が聞こえた。
オジサンは、熊手とゴミ袋を載せた自転車で夜の街を走りながら思った。「何の価値もない俺には、こういう生き方しかできない」。朝の駅前、電車から降りた勤め人や学生が行き交う中を、熊手とゴミ袋を載せたオンボロ自転車で走り過ぎるオジサン。情けない気持ちのオジサンは、「すいません」と心の中でつぶやく。
子供の頃からの知恵
子供の頃のオジサンは、やはりいじめられていた。小学校の一年生の時から、同級生に消しゴムを窓から捨てられたり、階段で後ろから押されたりした。
オジサンは意地悪をされても、抵抗することのできない子供だった。何をされても黙って我慢していた。理不尽ないじわるに、わずかでも反応することは怖かった。逆らうことは、面倒なことだと自分に言い聞かせた。大勢に独りで向かうのは、エネルギーが要ることでオジサンには無理だった。「どうでもいい」と思うことが、幼いオジサンの知恵だった。
残酷な子供のことだから、相手にしないからといって収まることはなく、黙っているといじめはますますエスカレートしてくる。小学生のオジサンのとった表面的な解決策は、「すいません」だった。もっとも子供だったから、「すいません」でなく「ごめん」という言葉を使った。大学を終えて社会に出る頃に「ごめん」から「すいません」に言葉は変わった。
「ごめん」にしろ「すいません」にしろ、オジサンが身につけた卑屈な知恵は、生きていく価値がないと思い込んでいたオジサンを少なからず助けてくれた。小さな頃から、自分のことを価値のないものと思うようになったのは、オジサンにとっては自然なことだった。
中学生を見捨てる
交通の誘導の仕事にようやく慣れた頃、オジサンは中学生がいじめられている現場に遭遇した。その日オジサンは、コンビにで買った弁当と缶ビールの入った袋を下げて、暗い公園の横を通り過ぎようとした。その時、公園の奥のブランコの隅の方で、人が争うような声が聞こえた。オジサンはふと立ち止まって、そちらを覗くように見た。
どうやら、中学生ぐらいの男の子を、同じくらいの歳の数人の少年達が取り囲んでいじめているようだった。
「なんで持ってこなかったんだよ!」
一人の少年が男の子を小突きながら脅している。男の子は下を向いたまま怯えていた。
いじめている少年達はオジサンの方に背を向けている。いじめられている男の子は、何度も小突かれていたが、ふとオジサンの方に顔を向けた。怯える男の子は、自分の方を見つめるオジサンに気がついた。男の子はオジサンに助けを求める眼差しを送った。その気配を感じたオジサンは、男の子の視線を避けて顔を逸らした。オジサンはその場を離れた。男の子の目は、オジサンの小さな後ろ姿を追った。
オジサンは思わず足早になった。少し行って、オジサンは公園の方を振り返って見た。男の子はまだオジサンの方に求めるような視線を送っている。オジサンは立ち止まれなかった。
ある感覚
いじめられていた中学生の男の子を見捨てた罪悪感は、オジサンの気持ちを暗くしていた。自分がいじめられて沈んだ気持ちになったことは、これまでの人生で数え切れないほどあったが、自分以外のもののことで心が重く感じられるのは久しぶりのことだった。
オジサンは自分を守ることばかり思いながら生きてきた。「すいません」とペコペコ頭を下げるのは、嫌なことをやり過ごすオジサンにできる唯一の方法だった。何の取り柄のないオジサンには、ひたすら謝ることしかできなかった。
それからしばらくすると、オジサンは中学生のことをようやく忘れた。オジサンは、いつものように仕事からの帰りがけにコンビニで買い物をした。例の公園のところまで来た時、再び同じ光景に出くわしてしまった。この間と同じ男の子がまた数人の少年達にいじめられていた。
オジサンは足を止めた。直ぐに足を止めたことを後悔した。前と同じ様に通り過ぎなければと思い直した。殴られていた男の子は、オジサンが見ているのに気づいて思わず声をあげた。
「助けて!」
取り囲んでいた少年達が一斉にオジサンの方に振り返った。
オジサンの身体が硬直した。オジサンはどうしていいかわからなかった。頭の中が真っ白になったまま、睨みつけた少年達に萎縮して足が止まってしまった。「早く逃げなければ」。そう思いながら、足が動かない。
どんどん少年達が近づいてくる。思ったより大きな身体の少年達だとわかってくる。「弱そうなジジイだ」と思っているような少年達の表情。「もう逃げられない」。オジサンの胸はドキドキしてきた。
オジサンは少年たちに囲まれてしまった。オジサンは少年達に殴られるのだろうと思った。殴られて、倒されるだろうと思った。倒されたら蹴飛ばされるだろうと思った。オジサンは息ができないような気がした。
その時、オジサンは恐怖の頂点の中で何かを感じた。もう逃げられないとわかった時、今まで感じたことのないものを感じた。「どうにでもなれ」という自分を捨てる気持ちなのか。「バチが当たった」という自分を責める気持ちなのか。
初めての実感
少年達は、緊張して身動きできないオジサンが発する弱々しい敵意に、自分達の欲求不満を解消できる喜びを感じ取った。恐怖で身体が固まってしまったオジサンが、少年達には小さな動物が睨んで威嚇しているように見えたのだ。少年達は新たないたぶりの対象を見つけて、ニヤニヤしながらオジサンを取り囲んでいた。
オジサンの緊張は更に高まった。しかし、自分でも信じられなかったのだが、オジサンはあたふたしなかった。身体の硬直とは反対に、諦めが生んだ不思議な覚悟が芽生えていた。
少年の一人がオジサンのシャツの襟をつかんだ。
「文句があんのかジジイ!」
その少年の声に答える言葉が、オジサンの思ってもいない身体の奥の方から出た。
「いじめは・・・良くないよ」
小さな声だった。オジサンは自分でも驚いた。「すいません」以外の言葉が自分の中から出てきたことが信じられなかった。
オジサンの言葉が気にくわなかった少年は、オジサンの顔を殴りつけた。オジサンは腰から落ちるように地面に倒れた。その倒れ方は少年達には笑えるほど不格好な姿に映った。少年達は倒れたオジサンの身体を蹴った。
鼻から血を流して、地面に顔を着けているオジサンの目に入ったのは、少年達の隙をうかがって逃げていく男の子の後ろ姿だった。
「すいません、すいません」
オジサンは、顔を少年に踏みつけられながら、何度も「すいません」を繰り返した。
少年達に蹴飛ばされる痛みよりも、こちらを振り向き振り向き逃げていく男の子の姿を見送る自分の中に、生きている実感をオジサンは初めて覚えるのだった。