【特別公開】≪小説と僕らの人生のプロット3 ≫ 「桃太郎」の並べ替え
次代のプロ作家を育てるオンラインサロン"「私」物語化計画"の本編。タイトルは『小説と僕らの人生のプロット3 「桃太郎」の並べ替え』。前回に引き続き、プロットの話だ。今回は、昔話の「桃太郎」を例に、エピソードからプロットという明確な設計図を抽出するやり方として「短冊方式」を紹介している。
エピソードを時間軸に沿って並べたものがストーリーだが、小説を面白くするためにはエピソードをただ時間経過順に並べていけばいいというものではない。
冒頭に主人公が犯行に及ぶシーンを入れる方が、読者は引き込まれるかもしれない。ドストエフスキーの「罪と罰」はこのパターンだ。
推理小説であっても、最初に犯人を特定してしまうパターンもあり得る。
作者は、試行錯誤を繰り返し、どのエピソードをどこに配置するのが効果的なのか考えなければならない。
引用:小説と僕らの人生のプロット 3 「桃太郎」の並べ替え 山川健一
Webサイト上にテキストの冒頭部分が特別公開されている。まずは、これををチェックした上で、わたしの感想を読んでいただければと思う。
わたしの感想
昔話の「桃太郎」を素材にといっても、最近Twitterで流行っていた大喜利みたいなものではない。
(例)
娘「桃太郎読んで」
母「昔々…」
娘「もっと夢野久作っぽく」
母「桃よ、桃よ、何故流れる。鬼の心がわかって、おそろしいのか。…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。」
適当につくってみた。「ドグラ・マグラ」の巻頭歌から始まる冒頭をそのまま利用したものだ。夢野久作の部分にはさまざまな作家やキャラなどが入る。例えば、村上春樹とかバーフバリとかジブリとか。これはプロットの練習というより、単なるパスティーシュ(模倣)のお遊びだ。
それよりは、ブックショートが募集している「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー。アレンジやスピンオフ、新釈作品」が近いかもしれない。
この講義で扱われている「短冊方式」とはこんな感じだ。
思いついたエピソードを付箋にメモする。エピソードになる以前の1シーンについての付箋もある。
《激しく降る雨が海面を叩き、もはや水平線を見ることさえできない》
と言うような、ただのアイディアも書き記す。
これをどんなふうに並べたらいいのか、テーブルの上に順番に並べていくわけだ。
引用:小説と僕らの人生のプロット 3 「桃太郎」の並べ替え 山川健一
必ずしも、エピソードやシーンは時系列順に並べなくてもよい。ドラマや映画なんかでも、唐突に冒頭が始まってそこから回想シーンに移っていくってことはよくあるからね。講義では、昔話の「桃太郎」の順序を入れ替えることによって、プロットがより明確になっていくと説明している。いや、ここでは設計図という意味のプロットではなく、物語を動かしていく強い動機と言ったほうが正確かもしれない。
作者が効果的と思える順に組み替えてやればいい。効果的というのが重要だ。デタラメに並べても、偶然は物語をつくってくれない。言い換えれば、並べる順序(小説が進んでいく順)には作者が意図するところの意味が必ずあって、どんなふうにエピソードを並べたらいいのかを考えることが小説のプロット、さらにはテーマに繋がっていく。そういうことなんだろう。
ふむ……。
エピソード、時系列、プロットで、真っ先に思い浮かぶのがカート・ヴォネガットの小説「スローターハウス5」だ。
カート・ヴォネガットは現代アメリカ文学を代表する作家のひとり。1969年に刊行された「スローターハウス5」は、SFの衣をまとった半自伝的な小説である。一見まったく関係のなさそうな挿話がいくつも積み重なっていくし、ヴォネガット自身も語り手として登場する。途中までは何のお話なのかすら把握できない。1972年にはジョージ・ロイ・ヒル監督によって映画化された。こんな非物語をよく映像化しようと考えたなと思う。かなり小説の空気感に近い映画となっている。
あらすじは町山智浩さんの動画をどうぞ。あほみたいなことを話しているが、それは町山さんがあほなわけではなく、「スローターハウス5」を語るとどうしてもこんなふうになってしまうのだ。町山さんが話していることにウソはない。小説の解説としては、昨年から次々と出版されている「カート・ヴォネガット全短篇」の翻訳者、大森望さんが適切かと思う。
「スローターハウス5」のテーマ(のひとつ)は戦争だ。小説には、第二次世界大戦終盤にあった連合国軍のドレスデン爆撃が出てくる。実際にあったことだが、純粋な史実ではない。小説で語られているのは主人公から見た事実だ。決して、声高に戦争反対を叫んでいるわけではない。かといって、憎しみがあふれているわけでもない。ただ、淡々と戦争が描かれている。
孫引きになるが、大森望さんの書評を引用する。
冒頭にいわく、「ここにあることは、まあ、大体そのとおり起った。とにかく戦争の部分はかなりのところまで事実である」。つまり、SF的な設定は、自分の経験した事実を効果的に語るための手段にすぎないのだが、結果的に、その“設定”のほうが、のちのSFに大きな影響を与えたのである。
引用:ALL REVIEWS 『スローターハウス5』(早川書房) 大森望
SF的な設定とあるが、おそらくたぶん、それだけではない。文学的というか小説的というか、エピソードを時間軸に沿わず断片的に読み手へと知らしめていく方法あたりも効果的に語るための手段だったのだろう。もし、これが過去から現代へと順に並んでいくようなプロットであったなら、「スローターハウス5」は「スローターハウス5」に成り得なかった。
「スローターハウス5」が哲学的な示唆に富むように見えてくるのも、ヴォネガットが仕掛けたプロットやエピソードなんかの作用する産物だ。読み進めていくうちに、ふつうの人間が内面に宿している狂気が真綿で首を絞めるようにひしひしと感じられる。そして、ラストの章。最適解のエピソードで小説が締めくくられる。だが、物語は終わらない。本のページを閉じたとしても、どこにも行き着くことができない「スローターハウス5」の深みが読後に残る。ヴォネガットが仕掛けた企みが秀逸であるからこその深みだ。
そんなとき、思う。小説っていいなと。きれいな言葉や美しい比喩なんかもいいけれど、物語全体で大きなひとつの固まりをつくり、読み手に提示する。小説が決して小さい言説ではなく、ものすごく広く深いものだと感じられたりする。そんな味を一度知ってしまったら、もうやめられない。小説って。
そういうものだ(So It Goes.)。
Text:Atsushi Yoshikawa
(注)感想はあくまでも、わたし個人の感想です。決して、"「私」物語化計画"の講義に対する正答や正解ではありません。
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