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【一部公開】ストレッチ4 妖精と二人で書く "「私」物語化計画"

次代のプロ作家を育てるオンラインサロン"「私」物語化計画"。第4回目の講義タイトルは「ストレッチ4 妖精と二人で書く」だ。今回より、Webサイト上での特別公開は冒頭のみとなっている。以下、主催の山川健一さんによる講義の概要動画とWebサイトのリンクだ。まずは、この2つをチェックした上で、わたしの感想を読んでいただければと思う

以下、この講義を読んでの、わたし個人の感想だ。

わたしの感想

PCのディスクにうもれているテキストを読んで、「あれ?これ、自分が書いたもの?」なんて思うときがある。いつ書いたのかさえ思い出せない。下手すると、どんな気分で書いていたことさえ忘れている。

たぶん、こんな経験はわたしだけではないはずだ。

文章の先に煮詰まっていたとき、ふとナイスなアイデアが降ってくる。どこから、そのアイデアがやってきたなんてことは気にしない。悩んでいた数分前がまるで嘘みたいに文章が書けてしまう。

このような経験も。

これは小説だけに限った話ではない。毎日の日記をつづっているようなブログだってそうだ。小論文のテストを受けている真っ最中の受験生だって同じような感覚を味わったことがあるはずだ。

妖精と二人で書く。

自分とは別の意識が書いている自分と同居するというのはとても興味深い感覚だ。オカルトやスピリチュアルに懐疑的な人であっても完全に否定できないように思う。妖精とはもうひとりの自分ではない。自分という範囲がどれくらい広いものなのか、その定義は置いておくとしても、妖精が自分とはまったくの別ものだとは考えられない。

イマジナリーフレンド。心理学などでつかわれる言葉だ。空想の友人と訳されることが多い。子どもが他人には見えない子どもと遊んでいるなんて話だ。さまざまな小説や映画などのモチーフにもつかわれている。

大人が、という点でいえば、今年封切りされた映画「プーと大人になった僕」が近いような。邦題は「クリストファー・ロビン」のままのほうがよかったけどね。

この講義で語られている妖精はイマジナリーフレンドと似ているが、少し異なっている印象だ。意図的というか、作為的というか、書き手としての個が自らつくりだしている存在であるように思う。

創作物を批評するとき、「あの登場人物は作者の分身だ」なんて言われることがある。どちらかといえば、この分身と語られるものほうが妖精に近いのかもしれない。

文章を書くことは孤独な作業だ。誰かと共同で進める場合もあるだろうが、大半はひとりぼっちで文章を考えている。

もしかしたら、いちばん最初の読み手が、ここでいうところの妖精ではないだろうか?もし、そうであるなら、言葉をつかっている人間は誰もが妖精を抱いていることになる。

イマジナリーフレンドでも分身でもない妖精という存在。

わたしに妖精がいるのかどうかはわからない。いるような気はするが、現在の自分にはその姿がハッキリと見えていない。そのうち、ゆっくりと探してみたい気はする。

おそらく、妖精なんてカッコいいものじゃないだろうな。頭のなかで、ごちゃごちゃうるさいから、きっと、セミだ。聞いているだけで暑さが増してくる、真夏のセミ。


Text:Atsushi Yoshikawa

(注)感想はあくまでも、わたし個人の感想です。決して、"「私」物語化計画"の講義に対する正答や正解ではありません。

#オンラインサロン #私物語化計画 #山川健一 #小説 #妖精と二人で書く

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