翼をひらくとき⑤
慶子の夢は夜ひらく
慶子は、興奮していた。もうすぐ、もうすぐよ。頬を紅潮させ、走っている。もうすぐテイクオフできる。走れ、走れ! そこよ、そこでーー。
「慶子!」
慶子はハッとして目を開く。孝一の顔が間近にあった。
「またうなされていた」
「え? ああ。わたし、何か言ってた?」
「ううん。でもいつもの『ウーウー』っていうのと、あと身体が震えだしたから」
孝一は、例の悪夢だと思っているようだ。確かに、うなされるところと、身体が痙攣するというのは夜驚症の前兆だ。
「もう大丈夫よ」
慶子はガーゼの掛け布団を顔まで引き上げ、孝一に背を向ける。
この夢では叫ばないことを慶子は知っている。
慶子は繰り返し見る夢が幾つかある。カートが飛び出す夢の他にも、たとえば、熱にうなされているときは巨人のようなもの(正体ははっきりしない)に踏みつぶされる夢をみる。階段を踏み外し飛び降りるという夢も一時期よく見た。あと、外に出かけているのに服を着るのを忘れてしまって大慌てする夢、というものある。
もう一つ不定期に見るのがこの夢だ。あのまま夢の続きにいたのなら、慶子はパーンと地面を蹴って空に飛び立ったはず。SF映画さながらに、腕を翼のように広げると慶子の身体はスーッと空に上がるのだ。ショートボブの、形のよい後頭部に続く細いうなじ。こけしのような撫で肩。その先に続く腕は翼のようでもある。一本線で描いたような、しなやかで力強い曲線と化した慶子は、淡いブルーグレイの空を緩やかに舞う。もはや人間なのか、鳥なのか、それとも大気に溶けこんだ「存在」なのかわからない。ただただ、身体の全ての神経を陶然とさせながら悦びを感じているーー。
この夢が何を意味しているのか、身体が分かっている。だが孝一は夜驚症の悪夢だと思っているようだ。
「昨夜は何時に帰ってきたの?」
と布団から顔を出し、平常を装って聞いてみる。孝一は帰りが遅いときは、慶子は先に床に入ることにしている。
「終電だった。だから今日は遅出でいいかなと思って」
そう答えながら孝一は慶子を見つめる。慶子も、孝一の視線が何を含んでいたかわかっていた。だが孝一の腕がそっと伸びてくると、慶子の身体はびくっと硬直した。孝一の手が止まる。そして行き場を失った手で、慶子の頭を、ぽんぽん、と撫でるように叩くと、
「やっぱり出勤するかな。早く行って早く帰ってこよう」
とシャワーを浴びに行った。
一人ベッドに残された慶子は、枕を抱え胎児のように身体を丸める。もう二年経ってしまった。出産し、産後があって、身体も変わった。わたしは女として何か変わってしまったのかもしれない。慶子は枕をぎゅーっと抱きしめる。身体を丸め、息も止める。そんな自分はまるで大きな岩のようだ。堅くて冷たい岩。海の底にしずみつつある。浴室からは孝一が豪快に湯を流す音がする。のんきに鼻歌を歌っている。慶子は、大きなため息をつくとベッドから起きだした。
今日は佳子(かこ)と、母子英語教室で会う日だ。佳子は、日本空輪で一緒だった元同期だ。佳子は、慶子より先に部内の人と結婚し、退職して旦那のロンドン支店異動に付いていった。このままエアライン社員の妻として順風満帆な人生を歩むのだろう、と誰もが思っていた。ところが佳子は、現地で知り合ったイギリス人と恋に落ちた。旦那は納得いかない。修羅場の末、佳子は新しい彼と日本に「駆け落ち」し、旦那も諦めて離婚に応じた、という話だった。
佳子の行動は元旦那が客室部にいたこともあり、当時同期の間でも後ろ指を指された。そんなことから、佳子はCA時代の同僚とは距離を置いていた。一方、慶子もCAを辞めてからは、あの事故を思い出すのが嫌で同期会などにも顔を出していなかった。
そんな二人が、ある日、偶然みなとみらいの母子英語教室で再会した。先に気づいたのは佳子だった。
「あの、ひょっとして慶ちゃん?」
声掛けられて、それがかつての「コカ」だと分かるまで数秒要した。CA時代の佳子は、コカコーラの瓶のようなボディーを持つことから、「カコ」を逆にして「コカ」と呼ばれていた。当時の佳子ことコカは、制服も敢えてタイトなサイズを選び、自慢のロングヘアをソワレ巻に結い上げていて、まるで外国のエアライン・クルーのような大胆な印象があった。そんなコカも、今では少しふっくらし、慶子と同じようなショートボブの「普通の主婦」になっていた。
「懐かしいわぁ」
と笑う佳子の目尻の皺に、慶子はお互いが経た年月を感じた。それ以来、ときたまにお茶をするような仲になった。
今日、佳子に会ったら夢について聞いてみよう。慶子はそう思いついた。佳子は心理学系の本が好きらしく、先日もユングだかアドラーだかについて説明してくれたばかりだった。最近は夜驚症を頻発しているし、夢を見ることが多い。何か脳の病の予兆なのかもしれない。
慶子は、コーヒーメーカーから漂う香ばしい香りを嗅ぎながら、そんなことを考えていた。すると、パジャマ姿の満がすり足しながら台所にやってきた。「おはよう」と声を掛けても、指をしゃぶるのに忙しく肯くだけだ。それもウサギのぬいぐるみ、「ネムネム」の耳の部分を口元に当てて、といういつもの指しゃぶりスタイルだ。そのせいでネムメムは、頭まで涎まみれになっている。
「また洗わなくちゃじゃない」
と慶子は満を軽く睨むが、目はすぐに三日月になってしまう。起き抜けの幼児ほど愛らしいものはない。動物の無垢さがある。満が幼児用チェアによじ昇り、無事まん丸いお尻を収めるのを見届けると、慶子は朝ご飯の準備に移る。シャワーを終えた孝一は、ワイシャツにネクタイを引っかけた姿でカウンターに来、コーヒー・マグに手を伸ばした。制汗剤と洗濯仕立てのシャツの匂いが漂う。孝一の背中を目の端でチェックすると、シャツの下に肌着を着けていたので心の中で肯く。去年まで、孝一は肌着着るのを「ジジ臭い」と嫌がっていた。が、「肌着に汗を吸ってもらわないと臭うの。周りに迷惑なの」と慶子に説得され、夏の間は渋々ながら着るようになった。未だ五月だが、このところ夏日が続いていた。それでさりげなく肌着を出して置いていたのだが、孝一もようやく気づいたようだ。孝一はそんな慶子の視線には気づかずに、コーヒーを注ぐと、カウンターの奥にいる慶子にマグカップを渡す。
「ありがと」
と受け取ると、孝一が少しびっくりした顔で慶子を見た。満も面白がるように、
「りがとっ」
と慶子の真似をする。慶子は、「何? このリアクション」といぶかしむ。いつも「ありがとう」は伝えているはず。満の教育のためにもそういう礼儀は気をつけているつもりだ。
朝食の後、車で孝一を駅まで送った。
「じゃ」
という孝一、目は慶子を見つめている。慶子はそれに気づかない素振りで、
「ほら、満っちゃん、パパに『いってらっしゃい』は?」
と振る。満は言われた通り「らっしゃい」という。孝一は苦笑いしながら、
「おお、行ってくるぞ」
と答え、振り向きながら二人に手を振って改札の中に消えて行った。その足で満の幼稚園向かう。満がチャイルドシートより、
「ママはパパに意地悪」
と言う。慶子はびっくりして理由を尋ねたが、満はクスクス笑っているだけだった。