「僕のこと好きですか?」(小説)
「僕のこと好きですか?」
そんなしょうもないことを真正面から聞いてきたのは、会社の後輩である。
ちなみにこの『好き』というのは恋愛的な側面からの文言ではない。
『人間』として、自分のことをどう思っているかという問いなのである。
彼とは年代も近いこともあって、複数人の会社の同僚と休日に健全な遊びをするような仲だ。
「好きでもあるし、嫌いでもあるよ。」
いつもそう伝えるのだが、物事を真正面からとらえがちな彼がそれを理解することはない。
好きな人と嫌いな人がいる。それが彼の世界では当たり前なのであろうか。
その意見もわかる。でも正確な表現ではないと思う。
私もそういった見方をしたときもあった。白か黒。だが、それは若さゆえの残酷さだ。
好きか、嫌いか、どちらかなんてことはなくて、実際は心の割合な問題なのではないかと思う。
好きなように感じる人でも、嫌いな所作もあるだろうし、
嫌いな人にも尊敬せずにいられないような、あこがれてしまうような能力はあるだろう。
49:51でせめぎ合って、どちらかの感情が勝つからその場では好き、嫌いと2つに分けて考えるかもしれない。
けれどそれは正確な表現ではなくて、好きでもあるし、嫌いでもある。
だからこれは不確かな感情の問題で、時期とタイミングによっては移り変わるもので、間違った判断もする。
つまりは好きか嫌いかで問うこと自体がナンセンスだ。
「どういう意味ですか、それ。」
やはり彼にはわからないであろう。
だが、そこでふと、改めて自分の心に問いかけてみる。
自分は一体、彼に対して、『好きと嫌い、どちらの割合が大きいのだろうか?』
すると、彼の人に対しての断定的な表現やただ手放しにぶつけてくる感情と気の変わりやすさに、一緒にいるときはに楽しく笑っていい人のふりをしているけれど、実際はとても疲れている自分に気づいてしまう。でも、いつも、なんとか気づかないふりをして、時が過ぎるのをやり過ごしている。
それはどちらかと判断して自分の心に気づくことで、自覚的に時をやり過ごす居心地の悪さを回避したいだけではないか。
実際は、誰にも嫌われたくない自分こそが、実は一番『好き』か『嫌い』かを気にしているのではないか。
でもそれに気づいたところで。
一体、何が本当の優しさなのだろうか?
そして開きかけた心に、もう一度、そっと、しっかりと、ふたをする。
「もちろん、好きだよ」
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