子どもが好きなら子どもを産むのはやめよう!
出生数の減少が,毎年報じられている。
出生意欲を高めよという記事とか,
イーロン・マスク氏が日本が消滅するのは世界にとっての損失だ!と心配してくれたとか
それでも私は子どもを持たない人生を選んだ(もう50歳なので,これから産むことはないだろう)ことを後悔していない。二十代の終わりに結婚し,現在も非常に夫婦仲がよく,子どもを産み育てることへの憧れもあったが,いろいろと思うところがあって夫婦で相談した末,避妊を続けた。友達の子どもを見てうらやましさを感じたこともあるし,子ども服やおもちゃを見て心が動かされたこともあるが,それでよかったと思っている。
なぜなら,私は,子どもには絶対に幸せになってもらいたいからだ。
子どもが,大人の始めた戦争で死んだり,大人によってもたらされた自然破壊のせいで苦しんだりするのを想像するのも耐えられないからだ。
それは私は子どものころ,絶対に死にたくないと思っていたからだ。今は,もう50年も生きたのであまり未練はないが,子どものころは,自分が死ぬかもしれないと考えるとそれだけで辛く,心配でたまらなかったのだ。
そして自分は親に殺されるのではないかということを常に恐れていた。(しょっちゅう,家族を殺すぞと口にする父のもとで育ったためだと思う)
だから,過去の戦争について学ぶ中で,私が最も衝撃を受けたのは,原爆でも空襲でも特攻でもなくて,逃避行のなかで多くの子どもたちが親によって殺されたという事実だ。今でも下記のような記事を読むと震えが止まらなくなる。
戦時中の日本では産めよ増やせよと言われていたが,逃避行,壕での避難というような極限の状況になると,「子どもの泣き声で敵に見つかる」「足手まといになる」といった理由で,親がわが子を殺すことを強いられるという事例が複数あった。
子どもにとっては,自分の一番信頼している人から殺されるということになる。たぶん,赤の他人から殺される以上に辛かったのではないだろうか。
さすがに国の命令ではないだろうが,軍人によって命令されたというケースはある。集団全体の利益の前では子どもが犠牲になるのは仕方がないとされる。そういう社会なのだ。
もちろん,戦時期と今では価値観が違うだろうし,子どもの人権,という考え方もある。しかし正直なところ,もし現在の日本で,ウクライナのような状況が起こったら,同じことが発生するのではないか,と思ってしまう。なぜなら,満員電車やエレベータや駅,そういうところで,子どもも,子育てをする親も嫌がらせを受け,子育てをする家族が不利益を被るような,『子育て罰社会』が今も続いているのだから。
現に,重い障害を持った子どもを親が殺害した事件では,親に対する情状酌量も見られるし,さらに,インターネット上の書き込みなどでは,「家庭内で処理して他人に迷惑をかけないのだから偉い」などという恐ろしいものも見られる。
そして今,これだけ少子化が大問題になっている日本で,起こっている問題は,まるで急激な人口爆発に苦しんでいる国のような問題である。
教師が足りないので教員免許を持たなくても教壇に立てるようにするとか
自習を強いられるとか
一クラスの人数は先進国のなかで非常に多く,教室にたくさんの子どもたちが詰め込まれているとか・・・
以上のような問題が日本で起きているのだというと,知らない人は子どもの数が多すぎるのではないか考えるだろう。このような問題は,人口爆発の社会では「やむを得ない」として甘受せざるを得ないのだろうが,このようなことが生じている国で,少子化が社会問題だといって誰が信じるだろうか。
そして,減少しつつある子どもたちを大切にできない国で,子どもが増えたら大切にされるなどと,誰が信じるだろうか。
だから,これから結婚や出産を考えている若い人に言いたいのは,結婚はしてもしなくてもよいけれど,出産はやめておきましょう,ということだ。
今,あなたが子どもを産めば,その子どもはこれから80年間ほど生きていくことになる。これから80年間の社会が,確実に平和で豊かな社会だということを信じられるような楽観的な人はいないのではないか。つまり,あなたが生んだ子どもは将来,非常に高い確率で災害や戦争や食糧難で苦しむということだ。そしてそのようなときには,子どもは足手まといとされ,邪魔者とされる。
私は,コミュニティよりも国家よりも,一人の人間が幸せに生涯を全うすることの方が重要だと考えている。子どもを産まず,それでも生まれてきたほかの人の子どもの成長や教育,環境整備のために尽力し,長期的にはすべての人が天寿を全うしながら世界の人口を産業革命前後の10億人程度に戻す(死ぬのではなくて生まないことによって)ということを真剣に考えてもよいのではないか。