![20190925序章表紙](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/18266056/rectangle_large_type_2_7799f17fbfc9124e7d574e2e2c116618.jpeg?width=1200)
憑羽に寄す:終 憑羽たちに寄す
すぐ傍で、枝鳴りが聞こえてくる。
森の中をイスラは歩く。革靴につづいて、金属板の硬い足音が、川のほとりの岩を踏む。
廃村の広場の傍ら、木々が途切れる。イスラはようやく立ち止まり、ふたりの鴉を振り返った。
あからさまに目くばせしあう、かつての同僚たちに笑いかける。
「ここで待っていてください」
「ですが、あなたの監視が、我々の役目です」
「ここからなら広場全体が見えるでしょう。あなたがたを見張る人はいないんです、何かあってからいらっしゃればよろしい」
ふたりは顔を見合わせて、あからさまに肩のこわばりを解いた。
イスラは外套を脱ぐ。
体に巻きついた枝をほどく。腕を反らして伸びをすると、一緒になって枝も伸びる。
三週の謹慎が解けた今、枝は吹き飛ばされた断面から、新芽を覗かせはじめている。丸みを帯びた枝の先端はまだ薄く、顔の前に持ち上げると、陽の光に透き通っているのが見える。
腕の上で外套をたたみながら、イスラは広場へと踏み出した。
かつて風化して白んでいた廃屋は、短いながらも住む人を得た間に、随分とこぎれいになっているように見えた。
変わらず古ぼけた井戸の近くに、人の姿があった。暗い外套の医師と、金髪を結った娘が佇んでいる。
娘の背中には、変わらず大きな枝が生え出ている。いつかと違うのは、枝の表面が、彼女のまとう服と同じ布地をもって、丁寧に覆われているところだった。
イスラに気がついて、ネストレとルチア、ふたりともが表情を明るくする。
「書面は受け取った」
ネストレが歩み寄りながら、服の胸元に手を当てる。
「確かに言質は取った。憑羽のことが両家に知れた以上、たとえティーア辺境伯とはいえ、これ以上の独断行動は難しいだろう」
ネストレは反対の親指で背中側を指す。
広場の向かい側に、金属のきらめきが並んでいる。軍装をまとったシウスからの迎えは、無言のままに、ふたりの憑羽の別れが終わるのを待っていた。
「我々が生きて、シウスに戻れたらの話だが」
「大丈夫ですよ」
イスラは断じる。
「憑羽を独占しようとすることは、互いへの武力威嚇に通じます。ルチアのいるユステ家には隠す理由がないし、ユステが隠さないのなら、ティーアだけが隠し続けることも難しい。
ましてシウスのご当主の意向もある。今あなたがたに何かあったら、偶然だと言い張ったところで、誰も信じはしないでしょう?」
「それなんだが」
ネストレは神妙な面持ちで声を潜める。
「君は、どこまで考えていたんだ?」
「三つだけです」
イスラは開いた手の指をひとつずつ折ってみせる。
「ルチアは危険を感じると白い怪物になってしまう、だから死ぬわけにいかなかった。ネストレさんはシウスの国益を守りたかった。僕はルチアに生きていてほしかった。どれもが叶う最善の方法を、考えていました」
半端な握り拳をひらいて、手のひらを上向ける。
「どれもが叶うとしたら、両家にとって、憑羽が毒ではなく、利になる状況だと思ったんです。公に捜索が行われるのなら、僕たち以外の罹患者も、隠す必要はなくなってくる。
情けではなく利から集められるのなら、憑羽の生きていける場所も、少しは作りやすくなるでしょう」
……現在空費されている、国境の空白地帯を一部、憑羽の罹患者の隔離区として活用したい。
イスラが外套の裂き端に書きつけた申し出は現在「奇病の娘の身を案じた、シウス北方公」からの提案として、両国の王都にまで持ち込まれ検討されている最中だという。
ネストレは黙って、イスラの顔を見下ろしていた。うかがうような表情の乗っていた顔に、やがてゆっくりと苦笑がのぼる。
「君が味方でよかったと思う」
イスラは首を横に振った。
なにも解決してなどいない。イスラがしたことはといえば、憑羽が確かに存在する病であること、公にする利用価値があることを、日のもとに引きずり出したというばかりだ。
「そのお言葉は、次にお会いする会談の席でいただきたく」
「相変わらず無茶を言うな」
ネストレが苦笑を深くする。イスラは笑み返した。
「お話は終わりましたか?」
ネストレが身を引く。足どり静かに近づいてくるルチアを、イスラは見返した。
問題が残ったまま置かれているのは、ルチアの立場とて同じことだ。公には死人となった彼女は、シウスに戻らねばならない。森にとどまりたいと言った、彼女の願いが叶うとしたら、良くて相当先のことだ。
「わたしからも、お伝えしたいことがあるんです」
「なんでしょう」
親指を拳の内側に握って、イスラはルチアに向き直る。
さながら戴冠の儀式のように、かしこまった……それでいて、慣れ親しんだもの特有のよどみない仕草で、ルチアは右手を差し伸べた。
「お返事を忘れていました」
「なんのことですか?」
「『あなたは僕と同じものですか』……今ならお答えできますから」
イスラは目を瞠った。
ルチアが咳払いのまねごとをする。赤い目がまっすぐにイスラを捉えた。
「わたしは、あなたと同じものです。これからもそうあるつもりのものです」
ルチアは微笑している。差し伸べられた手が、目の前にある。
イスラは右手を持ち上げて、握り返す。かさぶたの手触りの残る五指は、それでもいまだ柔らかい。
喉の奥から、こみ上げてくるものがある。
何を言うでもなく、振る舞いに移すでもなく、イスラは手を握ったまま、ルチアの赤い目を見返していた。
訝ったネストレが、近づいてくるまでのしばらく、そうしていた。
「ありがとう」
手を離す。ルチアは、わたしも、と唇を動かした。
「何を言ったんだ?」
「今更聞く必要のないことですよ」
イスラは短く答えた。ネストレの眉間に皺が戻りそうになったのを見、苦笑いしてつけ加える。
「僕も、ルチアも、同じ病を患っていると。それだけです」
迎えに前後を囲まれて、大きな枝が、少しずつ遠ざかっていく。
白い憑羽の背中が、森の中に消えるのを、イスラは最後まで見送っていた。