![20190925序章表紙](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17743196/rectangle_large_type_2_aa6bd03fce59795e72d0a9d107dc5a62.jpeg?width=1200)
憑羽に寄す:十九 開演間近
それから、星が少しだけ動いたころ、ネストレは靴を整え終えた。
イスラは井戸の縁石のそばに座っていた。縁石の上で、外套の裂き端に、短剣の背で刻み目を並べていく。切り込みで綴られた文字の羅列を内側に、紙片のように畳んでネストレに差し出す。
受け取った裂き端を、ネストレは外套の内側、表の生地と裏地の隙間に差し入れた。
「鴉の者が先行している可能性があります。お気をつけて」
次いでイスラが差し出した携行灯は、同じくらいの大きな手の甲で押し戻される。
「これは持っていてくれ。どうせ灯りは使えない」
イスラは携行灯を足元の草の上に置く。ネストレは状況にそぐわない、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。
「ことが終わったら取りに戻るさ。無事に返してくれよ」
「お返しできるように尽力しますよ」
「そこは約束してくれないか。これでも結構な年代ものなんだ」
イスラは吐息だけで笑い声を立てた。軽やかなやりとりがこころよかった。
立ちあがったネストレは、こうして傍に立つとやはり背が高い。少し高い場所から、ふたりの憑羽を順番に見下ろした。
「君たちは、必ず生き延びてくれ。誰のことも殺さずに、生き延びてくれ。
君たちは、君たちが無害だということを、身をもって証明しなくてはならない。
もし殺してしまったら、私が間に合っても、何の意味もない。どう言いつくろおうと、どうやっても、誰の目にも取り返しがつかないんだ。
君たちの望みのために、誰一人、殺さないでくれ」
イスラとルチアは同時に頷いた。
ネストレの視線が二人から離れる。背を向ける。
爪先で二度、地面を叩いて、走り出した。
少し低められた背中が暗闇の中に吸い込まれて、あっという間に見えなくなる。
熊のような、というたとえは大仰ではなかったな。とりとめなく考えながらイスラは見送った。
イスラは自分の爪先をあらためる。両足の短刀と仕込み刃、わずかな武器の手入れに、時間はさほどかからなかった。
すぐ隣で、同じようにネストレを見送っているルチアを見やる。
白かった服は、下地の色がわからないほどに「化粧」を施されていた。
若草から泥の濃茶へかすれた色の帯が、服どころか靴の上までも、目のつんだ生地を塗りつぶして縦横に走っている。くるぶしまであった裾は肌着ごと裂いて丈を詰められ、丸い膝の皿が見え隠れしている。
複雑に結われていた髪は解かれて、首の後ろでひとつに縛り上げられていた。
「それ、よかったんですか」
ルチアは問いかけたイスラを見、自分の袖を見下ろした。澄まして瞼を伏せる。
「ずいぶん動きやすくなりました」
イスラは苦笑いする。
そこここが傷んだ、青い草の匂いのかすかに漂う姿であってさえ、ルチアは引き換えようのないものとして見える。そのことになぜだか、酷く安堵したのだ。
「ルチア。お願いしたいことがあります」
イスラは荷袋の底を探って、鎖を引き出した。連なって出てきたのは、飾り彫りの瑪瑙だった。
透かしの入った銀色の枠で囲まれた、濃い赤の地石の上に、花のひとむらが浮き彫りになっている。厚みを削り分けられて、かすかに透き通った花びらと葉が、重なり合いながら寄り添っている。
枠の中央、花の葉陰に、小さな鳥が一羽、背中の翼へとくちばしを埋めて休んでいる。
差し出された飾り石を手のひらに囲って、ルチアは顔の前へと持ち上げた。目が丸く見開かれている。
きれい、と、小さな声が聞こえた。
「これを預かっていてもらえますか」
「わたしが、ですか」
「気に入っているんです」
指の間から下がる鎖をつまみ上げて、ルチアの手のひらに落とす。
「あなたはどうあっても、無事で生き延びる。あなたと一緒にあればこれも安全でしょう」
ルチアの指が、飾り石を握りしめる。
迷いを振りはらうときの潔さで、ルチアは飾り石を持ち上げた。頭を通して、首の後ろで結わえ、胸の前へと下ろしてみせる。
「お預かりします」
イスラは草の上に片膝をつく。胸に利き手の左を添えて、深く頭を垂れた。
つうと顔を上げて、口を開く。
「改めて伺います。
ルチア。あなたを助けても、よろしいか」
ルチアの目がまばたく。
赤い目だ。イスラとは正反対の色をした、生きたものの色の眼だ。
やがてその大きな目が細められる。鷹揚を感じさせるゆるやかさで、薄い唇の両端が持ち上がる。
「許します」
ルチアの右手が差し伸べられる。
伸べられた手を両手で掬って、できるかぎり恭しく、額に押し当てる。
静寂はいっときだった。
イスラが膝を払って立ち上がったときには、二人とも、舞台となる南の森に向いている。
わずかな高揚が、ゆっくりと夜風に冷やされていく。
まだ朝は遠い。