鹿児島の尚古集成館で島津斉彬の偉大さを再認識
2019年の鹿児島「風雲児たび」のつづきです。島津家別邸の仙巌園と尚古集成館はとても楽しみにしていました。世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産でもあります。
薩摩といえば西郷隆盛ですが、彼を育てたのは第11代藩主の島津斉彬(なりあきら)です。大河ドラマ「西郷どん」で渡辺謙が演じた斉彬は威厳があり、イメージにぴったり合っていましたね。
斉彬は、蘭癖大名と呼ばれていた曽祖父重豪(しげひで)の影響もあり、若い頃から蘭学者と交流、西洋文化の研究を行なっていました。
家督を継いだのは43歳と遅かったのですが、藩主となった後は研究をさらに推し進め、工場群を建設、集成館と名付けます。反射炉をはじめ、溶鉱炉、鑽開台、ガラス工場、蒸気機関の製造所などを作り、造船・造砲・ガラス製造・紡績などの事業を展開しました。
↑ 仙巌園内に遺っている反射炉跡
海外からの侵略が危惧されていたこの時代、多くの藩で反射炉、大砲、船が作られ、軍備が叫ばれていました。斉彬が他の藩主と違ったのは、日本が一丸とならなければ西欧列強に対抗できないと考えていたこと。徳川幕府や他藩と協同し、中央集権体制の確立をめざしました。また、近代化、工業化に取り組む一方、民需や社会基盤整備も同時に進めていたのです。
↑ 仙巌園内にある日本初のガス灯「鶴灯篭」
薩摩切子、さつま焼酎、薩摩焼などの特産品作りを促進したり、電信、写真、活版印刷も研究していました。教育も大事と藩士の遊学を奨励し、江戸、大阪、長崎へ藩士を送り込んでいました。
いずれも西欧列強の植民地にならないように、日本全体を強く豊かな国にしようと考えていたため。決して自藩のことだけを思ってできることではありません。斉彬は「国中の者が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の和はどんな城郭よりもまさる」と語っていたそうです。
そんな斉彬、49歳で急死してしまいます。どれだけ心残りだったことでしょう。しかし、その夢は薩摩出身者に受け継がれ、日本の近代化に貢献しています。
↑ 今回これらの図録で多くを学びました
さて、みなもと太郎先生のマンガ「風雲児たち」でも斉彬はカッコイイんです。あまりにもカッコイイので連載誌「コミック乱」のページを切り抜き、額に入れていました。
あと数年生きれば日本近代史を完全にぬり変えたはずの、江戸時代中最大の名君と今も称えられる島津斉彬は、一切合切をやり残してこの世を去ったのである・・・あまりにもカッコイイ薩摩東征の幻影は、この二人の胸中深く突き刺さり、四年後久光は形だけそっくり真似た示威運動を起こし、いくつもの血なまぐさい事件を招き、幕末の混乱に拍車をかける。西郷隆盛はぐっと後の明治十年、この世の思い出に斉彬を偲び「お尋ねしたき事これあり」と兵を挙げ、行けるはずもない東京を目指すのである・・・(「風雲児たち幕末編」15巻第六章より)
斉彬亡き後の薩摩藩を少ない描写で説明し、人間の感情によって事件が起き得るということを的確に現している、「風雲児たち」の面白さと歴史の悲哀が詰まったページだと思い、飾っていたのを覚えています。
鹿児島で仙巌園と尚古集成館を見学し、遠く離れた江戸や京都を含めた日本全体のことを考えていた斉彬のスゴさを改めて認識しました。
そんな斉彬のようなリーダーが再び日本に生まれることはあるのでしょうか。