薩摩義士をご存知ですか?
薩摩義士、私はマンガ「風雲児たち」で知っていました。
2019年3月鹿児島を旅したとき、鶴丸城跡の近くを歩いていると「薩摩義士碑」の文字が目に飛び込んできました。ああ、ここにあったんだ。中央の石を頂点にしたピラミッド型の群像碑でした。
江戸時代中期、徳川幕府が薩摩藩に濃尾三川(揖斐川・長良川・木曽川)の治水工事を命じました。長いこと氾濫で住民を困らせていた川の、流れを変え堤防を作る一大プロジェクトです。薩摩藩家老平田靫負を総奉行に約1000人が鹿児島から派遣され、一年三ヶ月をかけて完成されました。工事が行われた年号をとり「宝暦治水」と呼ばれています。
外様の薩摩を経済的に困窮させようという意図もあったこの工事、幕府の嫌がらせや妨害、工事中の洪水、悪疫の流行などで88名の死者を出してしまいました。多くの犠牲者と予算過多の責任を感じていた平田靫負は、薩摩に戻らず美濃で自刃します。
幕府への遠慮もあり長年この事業は知られていませんでしたが、地元の人は忘れずに感謝の気持ちを持ち続けていました。明治以降、顕彰活動が盛んになり「薩摩義士」と呼ばれるように。岐阜県に数多くの義士の墓や碑、ゆかりの神社があります。
そういえば岐阜の養老町を車で走っていたときも宝暦治水関係の看板を見かけました。その時は立ち寄る時間がなかったのが残念です。
現在も鹿児島と岐阜が姉妹県盟約を交わし、交流事業を続けています。
↑ みなもと太郎先生からもらった「宝暦治水伝」のカラー絵。意志の強さが目に宿っています。
さて、マンガ「風雲児たち」ではこのエピソード、3巻と4巻で「宝暦治水伝」として描かれていますが、それまでのギャグタッチとは絵柄がかわっており少し違和感を感じます。それもそのはず、はじめは「波濤」というタイトルで描き下ろされた別のマンガでした。その後、ワイド版として編集される際、年代順に組み込まれたものでした。
作者みなもと太郎先生の再編意図は明白です。明治維新の原動力のひとつに薩摩の徳川幕府に対する恨みがあり、その一つの大きな事件が宝暦治水なのです。因果応報、大河ドラマではありませんか。
薩摩義士碑を見たあと、平田公園の平田靫負像を訪ねました。工事を指揮する姿に真のリーダー像を感じます。