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メンタルを平らにならす作業

2時間前の自分が相当参ってしまっていたのを眺めているのだが、一日どころか数時間の内にこうも気持ちが上下すると疲れるのだ。

世の中の人の“落ち込む”“平常”“興奮”のレベルが知りたいと常々思う。

これは私が普通より外れた反応を示しているのか、一般的なのかの指針が欲しい。
いや、メンタル変動に変わらず分かりやすい指針をずっと欲している。

人生何歳まで生きるかわからないのに先のことを考え、貯蓄をし、伴侶を見つけたり子供をもったり、色々な選択をしていくことを普通というのなら、私は全てに目安が欲しい。

ADHDの頭は後先を考えることが苦手なようで。

衝動に支配された行動も、理由があれば抑えることができる。
だけどこの理由、自分に突きつけること自体とても難しい。余程はっきりとした理由でなければ納得できずにずるずると衝動に飲み込まれてしまう。

だらしがない、我慢が効かない。世間的に見たらきっとその類の性質、備えあれば憂いなしの真反対を行く自分が怨めしい。

「普通我慢できるのよ」

その言葉に何度殺されてきたか。
我慢が効かない私は落ちこぼれのレッテルを自分で自分に貼ってきた。何度も丁寧に。言われるたびに。

ゲームをやるときっと我慢が効かずずっとやってるからうちは買わないの。
朧げな幼い記憶で、親が言った言葉を今の今まで覚えている。そう思うならどうして遠ざけたのか。
両親にはそれはもう感謝しているし尊敬しているが、訓練させて欲しかった。あなたたちの目が届くところで。

性質と性格的にクリエイティブな仕事へ興味を持つのはきっと中学に上がる頃には決まっていたように思う。
その頃には興味の湧かない授業で集中力を保つことが半端なく厳しくなっていた。せめて起きていなければ、と思いノートの端に絵を描く毎日。テストはもちろん散々だった。

学校へ遅刻して駆け込み、もはや到着することがゴールになっていた私の送る毎日は、焦点の合わないぼんやりとしたもので。
興味のとっかかりはそこらじゅうに転がっているというけれど、転がりすぎていると何も拾えずに疲労するだけなのだ。

曖昧なまま、自分の人生に横たわる“未来”の二文字が見えたのは大学受験が終わってからだった。
どうやら自分自身に目を向けるのには世間一般的に遅かったようだ、と気づいたものの、あまりに漠然としたその二文字をどうしたらいいのか分からず現在まで距離を取り続けている。

何歳までにこのイベントを片付ける。
何円まで貯めるとこの先安泰。
何年後に死ぬからそれまでにやりたいことをやる。

これらを具体的に知ることができたらどれだけ助かるか。

目安が欲しい。指標が欲しい。

漠然と積み重ねの努力を長期で続けることが難しい人間にはこの転ばぬ先の杖社会はウルトラハードな人生ゲームでしかないんだよなあ。


そんなのみんな知りたいよとか言われそうだけど、とりあえず現状何とかできてる人に言われたくないです。
何とかなってない人から言われても腹立つけど。

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