続・複雑系神学 神は存在するのか9
宗教と科学の内容が関係ないため宗教は現代では信じられない。 前回は科学に神などの宗教的概念が現れない点を論じた。今回は逆に宗教に科学的概念が現れない点を論じる。
世界には階梯構造があると述べた。ワールドロップ『複雑系』から再度引用する。
そして留意すべきは、ひとつ下の階層からひとつ上の階層が創発すると、下の階層からは予測が難しいまったく新しい法則や概念が生じる点である。ワールドロップ『複雑系』から再度引用する。
化学を学んでもそれよりひとつ上の階層である生物学では呼吸、消化、循環、排せつなど化学からは導出できない法則や概念が生じる。生物学を学んでもそれよりひとつ上の階層である心理学では生物学からは予測できない錯視などの一般化が生じる。人間と動物は身体という下位のレベルではそんなに違いはないかもしれないが、精神という上位のレベルでは人間には真善美という動物では思いもよらない世界が生じる。経済は人間ひとりひとりの消費や貯蓄の心理から構成されるかもしれないが、全体としては需要と供給の均衡や一物一価の法則など、個々人の心理学からは導き出せない理論が生じる。
世界の階層構造を図示する。
ひとつ下の階層とはまったく別の法則や概念がひとつ上の階層では立ち現れる。神と人間の関係は人間世界よりひとつ上位の階層になる。これが聖書やコーランの世界である。聖書やコーランを信じない人たちは、信じがたい理由として、自然科学や私たちの日常生活と何の関係もない内容ばかりを聖書やコーランが述べる点を指摘する。しかし化学よりひとつ上の階層である生物学では呼吸、消化、循環、排せつなど化学からは思いもよらない法則や概念が生じるように、人間の世界よりひとつ上位の神・人間関係である聖書やコーランは人間世界と一見関係のない世界が立ち現れるかもしれない。心理学よりひとつ上の階層である経済学では需要と供給の均衡や一物一価の法則など、個々人の心理学からは導出できない法則や概念が生じるように、聖書やコーランでは人間世界からは導き出せない法則や概念が生じる可能性はある。野菜や海産物という個々の食材からは予想もつかないような、上位概念であるアヒージョやパエリアやサングリア、バスクチーズケーキなどの豊かなスペイン料理が生じるように、聖書やコーランでは人間の日常生活からは思いもよらない世界が生じる可能性がある。
聖書やコーランが我々人間の世界と一見関係のない内容を述べているからと言って、信じるに足りないと結論するのは十分な根拠がない。
今まで階層構造は創発として語ってきた。しかし上の階層と下の階層は創発という形でのみ関係するとは限らない。創発は下から上への階層構造の出現である。例えば分子同士が複雑に組織化してより高いレベルの細胞が生まれる。
では神はどうだろうか。確かに神の「計画」は自然の進化や人間社会の歴史を通じて創発してくるかもしれない。しかし神自身は創発しない。神自身は世界が存在する以前から存在するからである。
少しややこしいが上の図を見ながら読んでほしい。神の計画は神から導出される。そして「導出された計画」と「人間の歴史から創発する計画」は一致するという結果になるはずである。神の計画の通りに歴史が進むのであれば当然そうなる。神が途中で計画を変更しない限り、神が当初「導出した計画」と「自然の歴史と人間の歴史の結果」は一致するはずだ。我々の旅行の計画と実際の旅行の順序が一致するように。
神と人間の関係である聖書やコーランも実は創発によるものではない。聖書やコーランは神の人間精神への介入による。「創発」は下から上への作用であるのに対し、「介入」は上から下への作用である。神がイエスやムハンマドという預言者の精神に対して直接語りかけることで聖書やコーランは生まれた。神の人間精神への介入である。だから聖書やコーランが人間世界と一見関係のない世界になっているのを、化学と生物学の関係や、心理学と経済学の関係にたとえたのは正確ではないかもしれない。正確な例を挙げる。
人間も物理世界に介入できる。ある人が紙の上に鉛筆で論文を書いたとする。その時その人は紙や鉛筆という物理的な存在を、上位概念であるその人の精神によって動かしている。人間精神が物理世界に介入しているのである。単なる物である紙と鉛筆から論文の思想内容という別世界が人間の介入によって立ち現れる。
紙は物理的には植物の繊維の集まりにすぎない。鉛筆で書いた跡は物理的には炭素にすぎない。しかし人間精神が介入し紙の上に鉛筆で書かれた論文は、論文を読める人にとっては物理世界を超えた思想が広がっている。
同様にユダヤ人の歴史は人間レベルで見れば普通の歴史かもしれない。しかし神がそこに介入することによって、聖書と言う別世界が広がる。論文を読める人には紙と鉛筆という物理世界を超えた思想内容が分かるように、読める人が読めばユダヤ人の歴史に神の意思を感じ取れるのだろう。聖書やコーランは神の上からの介入によるものであるから、化学と生物学の比喩より、紙と鉛筆の比喩のほうがより正確かもしれない。
仏教の悟りも同じである。紙と鉛筆の上に論文という思想世界が広がっているように、感覚的な現世より上に悟りの世界があるという。『大日経』という真言密教の根本経典から引用する。
紙の上に鉛筆で書かれた論文の思想内容が、植物の繊維や炭素という物理世界を超えているように、悟りの心、悟りの世界も人間が知る感覚世界を超えていると述べている。
親鸞は念仏すれば死の時に阿弥陀の迎えがあり、死後は浄土に生まれることができると述べた。親鸞が死ぬとき信者たちは阿弥陀の迎えのために紫雲などの瑞祥が生じるのではないかと思っていたが、親鸞が死んだとき何の瑞祥も生じず普通になくなったという。正直に記録しているものだと思う。
では阿弥陀の迎えが来なかったかというとそうは断言できない。紙と鉛筆の例で言うと、ある人が紙に書かれた論文を読んで「この論文は素晴らしい」と述べたとする。それは概念レベルで評価している。しかし別の人がそれを聞いて、その称讃を物理レベルと勘違いしたとする。そしてその論文が黄金で書かれていないかどうかを物理レベルで検証する。そして「いや、この論文はただの植物の繊維と炭素にすぎないですよ」と言う。それと同じである。親鸞はたしかに現実世界では普通に死んだ。論文が物理レベルでは植物の繊維と炭素にすぎないように。しかし精神レベルでは阿弥陀に救われた可能性は否定できない。論文が概念レベルで優れているように。
しかし現実的物理世界が正しくて、そのような精神世界は嘘だ、比喩にすぎないと思う人もいる。逆に悟りの世界こそ本当の世界で感覚的世界は仮の姿にすぎないと言う人もいる。どっちが正しいか私には分からない。この点は以前の記事で簡単に扱っている。興味ある人は下記リンクからどうぞ。
このようなことを言うと問題が生じるかもしれない。神・人間関係は人間の世界と違う世界なのだから、何を言ってもいいんだとなりかねない。自由に誰でも神・人間関係を創作できてしまう。実際、偽預言者が勝手なことを言ってもそれを否定するのは非常に難しい。
科学では「反証可能性」という概念がある。間違えているかどうかを検証できる可能性。科学の理論として成立するには反証可能性が必要と言う。例えば「カラスは人間や人間の設置したカメラが見ていないところでは黄金色になる」という説があったとする。これは肯定も否定もできない。確かめようがないからである。だから反証可能性がない。そのような説は科学としては成り立たない。科学の理論たるにはその理論が誤っているかどうかをテストできる可能性が必要である。これが反証可能性だ。
神に関する知識は否定も肯定もできない場合が多い。「神学」という言葉は現代では「それ神学論争と同じだよ」とマイナスの意味で使われる。肯定も否定もできないからだ。反証不可能なのである。だから宗教はどうしても科学たりえず「信仰」になってしまう。私はあまり「信仰」しない人間なので宗教を信じるのは難しい。
宗教においては偽預言者の言うことも反証できず、正しい預言者の言うこともその正しさを証明できない。だからこそ偽預言者も信者を獲得でき、正しいことを言ったイエスも殺されてしまったのである。神のことを把握することができないという点が宗教を難しくしている。