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意外な厚遇 呉に仕えた袁術の子孫

袁術の評価は、同時代から低いものだった。徐州牧の陶謙が死ぬと、徐州の人士は劉備を後任として迎えようとした。劉備は近隣に勢力を持ち、名門の袁術を推薦したが、陳登と孔融が口々に袁術の人格を非難したほどだ。

やがて袁術は、まだ漢王朝の権威が通用した時期に皇帝を名乗り、孤立して滅亡に至った。『三国志』の評も「袁術は欲望に溺れ、栄華を誇りながら終わりを全うしなかった。それは自らが招いたことだ」と厳しいものになっている。

しかし、袁術の子孫は意外な厚遇を受けた。彼らは袁術の旧臣である劉勳を頼ったが、孫策が劉勳を倒すと、袁術の妻子を引き取ったという。後に袁術の娘は孫権の夫人となり、息子も呉に登用された。

これは、孫策が父の孫堅の死後、袁術の配下となっていたことに由来するものだろう。袁術は孫策を気に入っていたようで、「私に孫郎(孫策)のような子がいれば、死んでも構わない」と言うほどだった。しかし、袁術は孫策の働きに報いようとせず、両者の関係は悪化していった。

袁術が帝位を称すると、とうとう孫策は袁術と絶縁した。しかし、先述したように妻子を保護したのは、袁術に恩義を感じていたからだろうか。あるいは、かつての自身の境遇と重なって見えたからだろうか。

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