関羽の孤立 蜀将たちの複雑な事情
『三国志』関羽伝には、関羽が諸葛亮に書簡を送り、劉備に帰順した馬超の力量を尋ねた話がある。諸葛亮は関羽の人の上に立ちたがる性格を知っていたから、「孟起(馬超)は文武の資質を兼ね備え、勇猛さは非凡です…まさに益徳(張飛)と先を争う存在ですが、ひげ(関羽)の抜群さには及びません」と答えた。関羽は大いに喜び、その書簡を賓客に見せびらかしたという。
また黄忠伝では、劉備が黄忠を後将軍に任じようとした時、諸葛亮は「(黄)忠の名声は関(羽)・馬(超)に及ばないのに、同列になってしまいます。馬・張(飛)は近くで彼の功績を見ていたので、まだ納得させられるでしょうが、遠くにいる関がそれを聞けば、不満を抱くに違いありません」と言って反対したとある。馬超と黄忠は劉備が益州を得るのに貢献したが、関羽は荊州を守っていて蚊帳の外だった。
劉備は「私が説明する」と言って考えを変えなかったが、諸葛亮の懸念は的中した。費詩伝には、関羽が「(私のような)大人物が、あんな老兵(黄忠)と同列で済むものか!」と言って怒り、劉備が与えた前将軍の地位を受けようとしなかったという。使者の費詩が説得してその場は収まったが、関羽が神経質になっていた事が伺える。
この頃、漢中の守りに張飛ではなく、魏延が抜擢されるということもあった。劉備は荊州や益州で得た人材を積極的に用いており、それは蜀の基礎を築くために必要な事だったが、関羽のような古参の処遇は難しいものになっていただろう。結果として関羽は、性格の難点が祟って孤立していった。内部では糜芳や士仁と、外部では孫権と不和になり、それが死を招くことになってしまった。