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荀彧の望み

『三国志』には、荀彧の伝でその死を記した後、「翌年、太祖(曹操)はついに魏公となった」とある。この記述は、荀彧が曹操の魏公即位に反対していたことが、死の原因となったことを示唆するものだ。実際、注には自殺だったという説も見える。

荀彧と曹操の対立は、一般に荀彧の漢王朝への忠誠心によるものと説明される。しかしそれでは、荀彧が曹操の覇業に著しく貢献していたことが問題になる。荀彧が望んでいたものは、何だったのだろうか。

曹操が袁紹と戦っていた時、何度か弱気になることがあった。荀彧はその度に機知に富んだ助言をし、曹操はついに勝利を得た。曹操が袁紹の本拠地だった冀州を手に入れた時、古代の九州を復活させることを薦める者がいたが、荀彧は「天下を平定してからにするべき」と説き、曹操はそれを良しとした。

しかし、曹操は赤壁の戦いに敗れ、その後魏公の地位を望むようになる。荀彧にとって、それは天下統一を諦めて権威で身を守ろうとしているように見え、失望したのではないだろうか。しかし、この時荀彧の言葉は曹操に届かなくなっていた。曹操は自分の死後を考えざるを得ない年齢になっていたし、次世代への権力委譲を進めるのに、爵位を利用するのは合理的なことだった。

つまり荀彧は、己の才幹を発揮して新しい時代を築こうとしていた点で曹操と大差はなく、だからこそ荀彧は曹操に仕えていたのだと思う。もし曹操が天下を統一し、それに見合った身分を欲したのなら、荀彧は反対しただろうか。

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