肉まんが落ちる音
音、というのは摩訶不思議なものである。
昨日私は生まれてはじめて肉まんが落ちる音を聞いた。ふと立ち寄ったコンビニで肉まんを一つ購入したのだが、店員さんが紙の袋に入れる寸前で手を滑らし、ほかほかの肉まんはポロッと床に落ちていった。それが床に衝突したときの音をなんと形容すればいいのだろうか。メチョ、とかいう外殻が破れ中身の餡が床にぬめっと散乱する音を予想していたのだが、現実は違った。どちらかというとボンッというタイヤが落ちたのに似た音であった。もしかしたら肉まんにはゴムの要素が入っているのかもしれない。今度食品表示を気をつけてみてみようと思う。
私もよくそいういうミスをやらかすので、店員さんの気持ちが痛いほどわかる。ので、とりあえず私は笑った。音も面白かったので、半ば本気で笑った。店員さんも笑って「見なかったことに」と冗談を言ったので、私も「見てないです。何も見てないです。」とお互いに笑いあった。
コンビニを後にし、新しく容器から出してくれた肉まんを頬張りながら歩き続ける。とりあえずゴムの味はしなかった。いつもどおりジューシーでおいしい。
ある角を曲がって数メートル歩いた時だった。ぼんっ、ぼんっ、と低重音が聞こえてくる。なんの音だろうと訝しみながら歩を進める。が、どうやら私の足が地面につくたびに、ぼんっ、と鳴っている。ここで私の脳みそ回線は妙な方向に動き始める。
「もしや、私の足音。。こんなことは初めてだ。底が薄い靴とはいえ、衝撃が骨に響いてこの音を私の耳に届けているのか?それとももしかしたらこのアスファルトは普通のとは違う気がする。下が空洞なのか?妙なこともあるものだ。それとも歩圧が高いのだろうか?」
数秒間にわたる脳の迷走の後、思考の正当性を試すためにわざと歩調をずらしてみた。一瞬そのリズムも変わったように思われたが、以前の私の歩調に合わせた形で重低音は続いていた。どうやら近くを走る車から出た音のようだった。安堵感といったらない。足の裏から伝わる衝撃が脳に悪影響を与えるのではないかと妙な不安を抱き始めていたのである。
こんなことが10分足らずのうちに二件起きたことで、私の中で急に音への興味が生まれた。それは次のようなものである。
例えば、私が「今日朝ごはんにみんなが鳥の餌と言って嫌厭するグラノーラを食べた」と誰かに伝えたとする。果たしてこの音は私が発音したように伝わっているのだろうか。
犬に「お手」と言った時、犬には私が思うような「お手」と聞こえているのだろうか。
音はいわば空気の振動であり、それを感受する器官を通して「音」として認識される。自分以外のその器官がどのように受け取っているかは実際には知りようがないのではないか。
もしかして「今日朝ごはんにみんなが鳥の餌と言って嫌厭するグラノーラを食べた」は「ボリーンパリンコサンパチーノカンロンタンパチシャカール」などと聞こえているかもしれない。だが聞いた人にとって「ボリーンパリンコサンパチーノカンロンタンパチシャカール」という音は「今日朝ごはんにみんなが鳥の餌と言って嫌厭するグラノーラを食べた」という意味をなしているのである。
「お手」も同様に、その犬には「ウォン」と聞こえているかもしれない。彼にとって「ウォン」は「お手」の意味を持つ音なのである。
もちろんどんなふうに聞こえてようともお互いに意思の疎通ができれば問題はまったくないのだが、こんなふうに考えているといつも聞こえてくる音がまた違った世界に思えてくる。「私が聞こえている音は他の人に聞こえている音とは異なっているかもしれない」。そこには無限の可能性というか、自由というか、異なる感覚を持つものが集まってこの世界を形成している不思議、宇宙的な広がりを感じるのである。勝手な妄想かもしれないけれども、その可能性を考えてみるだけで胸がドキドキしてしまう。
肉まんから始まった世界の探求。しばしその感覚に浸って楽しみたい。今日は素敵な土曜日になりそうである。
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