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良夫賢父

お盆休み真っ只中、私は一人でパソコンに向かっていた。母親はこの猛暑の中パートに行き、家にいなかった。
一時をまわる頃、父親が私の部屋をノックした。
私の間の延びた返事に返ってきたのは、「ラーメン食い行くか?」の一言。
特に断る理由もなかったので、助手席に乗った。

車のスピーカーからは、普段母親が聞く地域ラジオではなく、全国放送のラジオが流れていた。父親が変えたのだろう。甲子園の第三試合がちょうど始まるところだ。この蒸し暑い中の高校野球はやる側も応援する側も気が滅入るだろうなと、エアコンの効いた車内でぼんやりと考える。

亭主関白で仕事に身を捧げ、私の世話を全て母親に任せた父親と私の共通点は、今では苗字以外にほとんどない。
父親は私の友達の名前も誰一人知らないし、私が大学で何を勉強しているかも、なぜ私が今の進路を決めたかも知らない。
私も父親については、父親であるということ、誕生月が6月下旬であること、生粋の野球好きであること以外の情報は知らない。知らないし、正直興味もそこまでない。

一年前、一人暮らしをしていたアパートから実家に引っ越す手伝いをしてもらった時に、近くのファミレスでお昼ごはんを食べた。ひたすらに母親の愚痴を聞かされ続けた。
「俺の方が稼いでるからとは思っていないけど」(思っているだろ)
「いいよなママは暇で」(これ以上働いたら扶養超えるからだろ)
「なんであんなにハイキングに行くんだ」(他にやることがないからだろ)
何を食べたかも覚えていない。
今日聞こえるのは熱の入った実況の声と、病み上がりの父親の咳だけである。

ラーメン屋はほぼ満席で、父と私はカウンター席に通された。注文を決め、頼むまでに1分もかからなかった。注文が終わってしまえば、あとはくるラーメンを待つのみである。

「学校はいつからだ?」「9月6日とかかな」
「毎日通うのか」「そのつもりだよ」
「何時からなんだ」「まぁ、10時過ぎとかかな」
10数年まともに興味を示さなかった、いや示せなかった娘との会話なんてたかがしれている。父が良い父でないのか、私が良い娘でないのか。そもそも良い父、娘とはなんなのか。

ラーメンが来た。「いただきます」も言わず肘をついて麺を啜る父は、本当に自分と同じ屋根の下で暮らしてきたのか疑問に思うほどに私と違う。
それでも、母親の愚痴を聞かないだけで、ラーメンは5倍美味しく感じた。

夕食の準備が始まる6時半すぎ、私は必ず台所に立たされる。今日の担当は枝豆を剥くこととパスタの具材を炒めること、パスタを茹でること。
私が手伝うのは子だからなのか、娘だからなのかは分からない。
だが、私の父は全く料理ができない。

風邪をひいてから11日禁酒をしていたらしい。久しぶりに飲んだ酒はだいぶ美味かったようで、20分も経たないうちに缶ビールが2本空き、9度のサワー缶も2/3飲み干されていた。つまみのサラミも良いペースで減っていく。

ご飯を食べ終わると、母親は父親に食器洗いをお願いした。
「なんで俺がやんなきゃいけないの」
「今日週末じゃないじゃん」
数年前からたまに父親が皿洗いをするようになったが、その姿を見れるのは土日限定だったらしい。
「今お盆休みなんだから、祝日ということでやってあげたら?」という私の言葉は全く耳に入っていない。

私が食器洗いを申し出ると、母親は早々と食器を片付け始めた。全て流しに入れ、「眠いうちに寝る」と寝室に降りる母に向かって、父は吐いた。

「いいよなぁ、眠い時に勝手に寝れて」「気楽なもんだよな」と。

「なんでそういう意地悪言うかなぁ」
「俺に言ってんの?」
「そうだよ、ママだってパートから帰ってきて料理してくれたんだから」
「ははっ、俺は働いてるんだから」

いつか結婚するなら、台所で隣に立ってくれる人と一緒になろうと思う。
それが私にできる1番の母孝行だろう。


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